第4話 不良天使・3
神殿の北に位置する月の塔の最上階にある祈りの間は、古びた木の扉でシェリルを出迎えた。今では大聖堂へとその場を移し、ほとんど使われる事のないこの部屋は、中央に石造りの小さなアルディナ像だけを置いて他には何もない。
けれど、この古びた空間がシェリルは好きだった。冷たい石の床の感触も、天井の小さな天窓も、静かに佇むアルディナ像も、ここにあるものはすべてシェリルに優しい。
月の塔の最上階にある為、天窓からは静かな月光が部屋の中に降り注いでくる。その光の中心にアルディナ像が置かれていた。いつもと変わらずそこに佇むアルディナ像の前に立った時、シェリルは自分を見下ろす像にかすかな違和感を覚えて眉を顰めた。
右手にルーテリーヴェを、左手に水晶球を持つアルディナ像。背中には大きな翼が、羽ばたきを止めて左右に広げられている。
見慣れた像の、変わらない姿。けれど一度胸に燻った違和感が消える事はなく、なおも食い入るように見つめたシェリルの瞳が……アルディナ像の瞳と重なり合った。
優しい微笑みを浮かべていたはずのアルディナ像は、まるで今にも泣きだしそうなほどに悲しく憂えた表情へと変化していた。
「何、これ……」
驚きながらも、引き寄せられるようにゆっくりと像へ手を伸ばしたシェリルが、その指先でアルディナの冷たい頬に触れた瞬間――石の瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。
「えっ! な、何?」
シェリルの声に反応して部屋の中に風が流れ始めた。ふわりと優しい風は次第に渦を巻き始め、平らな石の床に細い光の線が走る。シェリルを中心にしてぐるりと円を描いた光の線は、素早く動きながら小さな部屋に魔法陣を完成させた。光の魔法陣がシェリルを取り囲むと同時に、眩しいほどの金色の光が部屋中を埋め尽くす。
「きゃっ」
思わず目を閉じたシェリルの体を、渦巻いた風が通り抜けていった。そして何事もなかったかのように、元の静けさが戻ってくる。
瞼の向こうで少しずつ光が消えていくのを感じて、シェリルはゆっくりと目を開けてみた。小さな部屋にさっきまで渦巻いていた光と風は完全に消滅し、悲しげな表情を浮かべていたアルディナ像も、いつもと同じ優しい微笑みでそこに佇んでいる。
何が起こったのかも分からずに、ただ呆然と立ち尽くしていたシェリルの耳に、一瞬だけ遠くの方から鳥に似た羽音が聞こえた気がした。その音を辿るように天窓を見上げた翡翠色の瞳が、ふわりと舞う真っ白な一枚の羽根を見つけた。
柔らかくふわふわと舞い降りてくる羽根は、見上げたシェリルの額に落ちると溶けるように消えていった。
「……何。今の」
まるで額に吸い込まれるようにして消えた羽根の後を追って、自分の額に手をあててみたシェリルだったが、指先に柔らかな羽根の感触を感じる事はなかった。
「気のせい……かしら?」
夢でも見たのかと思い、軽く頭を振ったシェリルの背後で――――。
どさり。
何かが落ちた音がした。それと同時に。
「誰だよ! 今どき古くさい召喚術で俺を呼び出しやがったのはっ!」
唐突に響いた不機嫌極まりない男の声に、シェリルが息を詰まらせて飛び上がった。反射的に振り返ったその先、冷たい石の床の上に、見知らぬ男がうつ伏せで倒れていた。
「だっ、誰っ!」
シェリルの声に、男の背中がぴくりと動く。まるで今しがた天井から落ちてきたばかりだと物語るように、うつ伏せだった男が上体をのろのろと起こしながら、打ち付けたであろう少し赤くなった額を軽くさすった。
「……ちっ」
不機嫌に眉を顰めて、男が苛立ちながら舌打ちする。その様子に怯えないではいられないシェリルが、男に気付かれないようにと震える足を静かに後退させた。
男がいる場所は入口の扉の前。ここから逃げ出す事は難しそうだが、少しでも距離を置きたいシェリルは、じりじりと壁際に後ずさりながら武器になりそうな物はないかと部屋の中を見回した。その意図を知ってか知らずか、不意に男が立ち上がり、低く重みのある声でシェリルを牽制した。
「おい」
「きゃっ!」
見て分かるほど体を震わせて、今度はシェリルが床の上に尻餅をつく。その様子を呆れ顔で見下ろす男と、怯えた表情で見上げたシェリルの瞳が重なり合った。
まず目を引いたのは、珍しい紫銀の髪。そのさらさらとした髪の隙間から、淡いブルーの瞳がシェリルをじっと見つめていた。
「……何の用だ?」
思ってもみない男の言葉に、シェリルの思考がついていかない。
「……え? 何……って……」
「だから、一体何の用だって聞いてんだ」
噛み合わない雰囲気に、男がまた苛々してくるのがわかる。けれど男の待つ答えを持たないシェリルは、怯えた体をさらに小さくして、視線を逸らす事で男が纏う冷たい空気から逃れようとした。
「大体あなた……誰、なの?」
やっとの思いで声に出した言葉だったが、男は何やら気に食わなかった様子で、再度わざとらしいくらい大きな舌打ちをして見せた。
「自分から呼び出しておいて今更なに言ってんだよ」
「呼び出した?」
「いいか、一度しか言わないからよく聞け」
面倒くさそうな表情を浮かべながら、男が少し長めの前髪をかき上げた。
「俺はカイン。お前のやった古くさい天使召喚術で下界に呼び出されたんだよ。せっかくの楽しみの最中に呼び出しやがって、一体何の用だか知らないがとっとと用件を終わらせてくれ」
得体の知れない男はカインと名乗り、シェリルの行った召喚術で呼び出されたと言った。召喚術で呼び出されるものといえば……――考えてシェリルが大きく目を見開いた。
「天使っ?」
「お前が召喚したんだろ? ……ったく、用がないなら帰らせてもらうぜ」
そう言うなり、カインの体が淡い光に包まれ始めた。髪の先が、服の裾がふわりと舞い上がり、カインをそこから連れ去ろうとする。けれど彼の体はその場に残されたまま、体を包んでいた光だけが天窓を通り抜けて星のように空の彼方へ消えていった。
「帰れねえ! ……まさかお前、俺の羽根を取り込んだんじゃ」
「……あ」
食い入るように見つめられ、シェリルはさっき額に消えた一枚の羽根を思い出した。シェリルの短い声にすべてを理解して、カインががっくりと肩を落とした。
「くそっ。俺とした事が油断した」
前髪をかき上げた手でそのまま乱暴にぐしゃぐしゃと頭を掻きながら、何か考え込むように一点を見つめ、そして諦めに似た溜息を落としたかと思うと苛立ったように数回目の舌打ちをする。そんなカインの様子を窺っていたシェリルは、何だか自分がとてもまずいことをしたような気持ちになってしまい、恐る恐るではあるが声をかけてみようと唇を動かした。
「あ……あの……羽根が、どうかしたの?」
声をかけることに数十秒を要したが、やっとの思いで言葉を発したシェリルを見て、カインはなぜか呆れたように鼻で笑った。
「あの羽根は俺とお前の契約の証だ。お前の願いを叶えるまで、俺は勝手に天界へ帰れねぇんだよ。……お前そんな事も知らないでこの俺を召喚したのかよ」
「ちょ……ちょっと何よ、さっきから! だいたい私はあなたなんかを呼んだ覚えはないし、第一本物の天使かどうかも……」
さっきからの馬鹿にしたような物言いにさすがのシェリルも怯えを忘れ、ふてぶてしい態度で自分を見下ろすカインをきつく睨み付けた。
天使と言うものは女神アルディナに仕える種族で、女神同様に慈悲深く、一目見ただけでも神々しい雰囲気を纏うもの……だと思っていた。少なくともシェリルだけではなく、この世界の誰もが似たようなイメージを持つ事だろう。
しかし今シェリルの目の前にいる自称天使は、長い歴史の中で人々に定着していた天使と言うイメージを根本から覆す存在に他ならない。
ひとつに束ねた珍しい紫銀の髪。そのさらさらの髪の隙間から覗く淡いブルーの瞳。一見するとこの世のものとは思えないほど美しく整った容姿だ。しかし背中にあるはずの翼はなく、なぜか上半身裸。そして極めつけに、首筋には言わずと知れた真っ赤な口紅の跡。
「あ、あなたっ……本当に天使なのっ?」
言葉に詰まりながら指を差して叫んだシェリルに近付きながら、カインがその恐ろしく整った顔ににっと不敵な笑みを浮かべた。
「羽ならあるぜ」
そう言ったかと思うと、一瞬にしてカインの背中から真っ白な二枚の翼が飛び出した。金色の粉を撒き散らしながら現れた白い翼に、文字通り目を丸くして見入っていたシェリルの腕が、突然カインの手に掴まれた。腕を掴まれ体ごと引き寄せられたシェリルは、あっという間にカインの腕の中へと移動する。力強い腕と大きな白い翼に包まれて、シェリルの自由は完全に奪われてしまった。
「何するのっ!」
「言っただろ? お楽しみの最中に呼び出されたんだ。その代償は払ってもらおうと思ってね」
驚きに大きく見開かれたシェリルの瞳に、真っ赤な口紅の跡が飛び込んだ。力強い腕に抱き寄せられ、熱い胸元へ飛び込んだシェリルの体が一気に熱を帯びる。
「俺としてはもう少し色気のある方が好みなんだが……」
「……っ、離して!」
有無を言わさず強引に唇を寄せてきたカインの右頬めがけて、シェリルの力いっぱいの平手が小気味よい音を立てながら飛んだ。
「痛っ!」
その拍子に緩んだ腕の中から脱兎の如く飛び出したシェリルは、途中数回転びながらもやっとの思いで入り口へ辿り着くと、そのままぶち破る勢いで扉を開け放った。
「あなたが天使だなんて私は認めないわ! 天界でもどこでもいいからさっさと出て行って!」
大声で叫びながら部屋を飛び出したシェリルは、一度も後ろを振り返る事なく転がるように螺旋階段を下っていった。
ひとり残されたカインは後を追うわけでもなく、力が抜けたようにその場にぺたんと座り込んだ。背中を預けたアルディナ像を見上げ、ぽつりと呟いた声音にはかすかに落胆の色が混ざっていた。
「……帰りたいのは山々なんだよ」
明かりも持たずに暗い廊下を走っていくシェリルの胸は、まだ少しだけ高鳴っていた。あんなにも無礼で、礼儀知らずで、口の悪い天使の腕に力任せに抱き寄せられ、少しでもときめいた自分が恥ずかしかった。
ぎゅっと両腕をきつく抱いて、シェリルは強く頭を振る。熱くなった肌を冷やすように、シェリルは暗い廊下を急いで走っていった。
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