第3話 不良天使・2

 地を這う闇の集合体。

 その中に、異様に輝く真紅の瞳。

 体を奥から金縛りにさせてしまう低く恐ろしい声音は、空気をびりびりと震わせながら辺りに響く。闇の中から現れた驚くほど白い右腕が、ゆったりとした動きで手招きをし、シェリルを呼んだ。


 振り返る事は出来なかった。足を止めてしまえばあの闇の中に引きずり込まれそうで――ただ、ただ怖かった。

 追いかけてくる誰かの絶叫と白い手に捕まらないよう、三日月の首飾りを祈りながら握りしめる。感覚がなくなるまで強く強く握りしめる。


 たすけてたすけてたすけて。


 自分の鼓動が耳のすぐそばから聞こえてくるようだった。小さな心臓はそのまま胸から飛び出す勢いで、シェリルの胸を内側から激しく強く叩きつける。瞳をぎゅっと閉じて体を震わせながら、ただひたすらに朝が来るのを待っていた。




『見つけたぞ』


 幾重にも重なった低い声を、今でもはっきりと覚えている。あの声がすべてを打ち砕いた。幸せだった時も、優しかった両親も、何も知らずに育った無邪気な少女も、すべて。


『お前は足止めにもならぬ。失せろ』


 冷酷な声と共に響く絶叫は止まる事なく、暗い秘密の抜け道を走るシェリルの背中にあっという間に追いついた。


『逃がしはせぬ。あの忌々しい女の力を受け継ぐ人間――神の落し子よ』


 震えるだけの夜が過ぎ、東の空から昇る太陽が邪悪な闇を地上から追い払う。泣きすぎて腫れた目をこすりながら、少女はゆっくりと絶望の扉へ手をかけた。


 朝日の差し込んだ部屋の中に、少女の知っているものは何ひとつなかった。

 小花の刺繍を散りばめたピンク色のテーブルクロスも、親子三人で座るには少し窮屈だったソファーも、お気に入りのクマのぬいぐるみも、すべてが真紅に染まっている。その端からは今でも赤い雫がゆっくりと滴り落ち、誰もいない部屋に虚しい音を響かせていた。

 頭の芯にまで強く響く生温かい異臭。

 天井にまで飛び散った赤い染みと、床に広がる深紅の液体。

 その中に散乱する塊は辛うじて原形を留めたまま、少女の帰りを待っていた。






「いやああっ!」


 喉が張り裂けるほど絶叫して、シェリルは勢いよく飛び起きた。生々しい夢に身震いしながら、甦ろうとする遠い日の記憶を頭を振って拒絶する。


「シェリル」


 突然聞こえた声にびくんと体を震わせ、弾かれたように振り返ったシェリルの前に、白いローブを纏った老女が立っていた。ローブの袖や裾には銀色の糸で細かい刺繍が施されており、胸元には金色に輝く三日月の首飾りがかけられている。その首飾りが部屋の薄明りを反射して、未だ意識の定まらないシェリルの視界に控えめな光を落とした。


「また、夢を見たのですね」


 静かな声音はシェリルの胸の奥に優しく届き、さっきまでの恐怖を少しずつ和らげてくれる。幼い頃からシェリルはずっとこの優しさに支えられ、心に負った傷を癒してきた。


「……エレナ様」


「朝の礼拝からずっと姿が見えなかったので、心配で来てみたんですよ」


 そう言われて、シェリルは驚いたように窓の外へ目を向けた。

 早朝から埃まみれになった体を綺麗にする為シャワーを浴び、ベッドに腰かけたところまでは覚えている。太陽はゆっくりと昇り始め、シェリルの部屋を明るく照らすはずだった。

 しかし窓に向けたシェリルの瞳が捉えたのは、眩しい太陽ではなく静かな光を放つ白い月の姿だった。シャワーを浴びてそのまま眠っていた事に気付いて、シェリルの目が一気に覚める。


「ご、ごめんなさいっ!」


 謝るなりベッドから飛び起きたシェリルに、エレナは優しく笑みを返して首を横に振った。


「最近になって、また夢を見始めたようですね。なかなか眠れなかったのでしょう?」


「どうしてそれを……」


「私はあなたの親のつもりですよ?」


「エレナ様……」


 優しく響く言葉に、思わず目頭が熱くなる。零れ落ちそうになる雫を瞬きで制して、シェリルは気持ちを落ち着かせるために深く息を吸い込んだ。


「今日はもう休みなさい、シェリル」


「……いえ。お祈りだけはしてきます」


 そう言って顔を上げたシェリルを、エレナは無理に引き止めようとはしなかった。


「そうですか。大聖堂はもう閉めましたから、祈りの間へお行きなさい」


「はい」


 短く返事をし、一礼してからシェリルは部屋を出て行った。その後姿が見えなくなるまで、エレナはただ静かに佇んでいた。

 恐怖に満ちたシェリルの過去も、目立たない格好をする意味も、エレナはすべてを知っている。幼い頃に自分を狙った黒き存在に怯えながら、それでも立ち向かおうとしているシェリルを思いエレナは胸を痛ませた。


「シェリルに神の祝福を」






 廊下に備え付けてある燭台をひとつ手に持って、シェリルは神官たちの部屋が並ぶ暗い廊下を進んで行った。階段を下り、一回外に出てから神殿の中に入り、長い長い螺旋階段を上るとそこに祈りの間はある。

 神官たちの部屋がある星の棟を出て、蝋燭の明かりだけを頼りに神殿へと歩いていくシェリルの頭上では、白い三日月が夜の闇を仄かに照らしていた。肌を刺す冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、シェリルは少し早くなった鼓動を落ち着かせる。


 夜は苦手だ。どうしてもあの夜の事を思い出してしまう。冷たい夜の闇はいつでもそこに潜んでいて、シェリルを引きずり込もうとしている。あの、恐ろしく邪悪な黒い影の元へ。


『見つけたぞ』


 影がシェリルを狙っている事ははっきりしていた。だからこそ自分を隠す必要があった。何よりも、額の印を。


『シェリル、これを持って! 必ずあなたを助けてくれるわ!』


 暖炉の奥の抜け道に押し込まれた時、母親から手渡された三日月の首飾りは今でもシェリルの胸で輝いている。それは神官長が持つ金色の首飾りとは違い、珍しい紫銀の色をした三日月だった。


「必ずあの影の正体を突き止めてみせるわ。……お父さん、お母さん。私を守っていて」


 祈るように呟いて、シェリルは紫銀に輝く三日月の首飾りを強く握りしめた。

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