第1章 天使召喚

第2話 不良天使・1

 はじめに闇があった。


 どこまでも果てしなく続く闇は、光もなければ風もないただの真っ暗な空間だった。


 そしてここに、創世の女神が降り立った。

 彼女が最初に降り立ったその場所から命を育む大地が広がり、風となった彼女の吐息はその一息で闇を地底深くへと吹き飛ばした。瞳から零れ落ちた涙は海となり、風になびく金色の髪先から舞い上がった光の粒子は夜空に輝く星々となった。


 闇に覆われていた世界から緑豊かな大地へと生まれ変わった世界は、その地に次々と新しい命を育み、そして「人」が誕生した。


 世界そのものを創造した女神は次に自分たちが住む為の天界を創り、そこから新しく生まれた下界を天使たちと共に静かに見守っているという。




 創世の女神アルディナの恩恵を受けた世界はイルージュと呼ばれ、古来より天使たちの祝福を受けて発展してきた歴史がある。下界イルージュと天界レフォルシアは今よりも近い存在として人々の中にあり、それは人間と天使の関係性でも同じことが言えた。

 イルージュで天使の姿を見ることはさほど珍しいものでもなく、人間を手助けするために天使たちはその神秘の力を惜しげもなく振るっていたと言う。その最たる例が「天使召喚術」であった。

 天界に住む天使たちを呼び出す儀式として用いられた術は、女神アルディナを信仰する神官たちによって行われていたが、長い年月を重ねると共にその術もゆっくりと途絶え、そして失われていた。






 無造作に積み上げられた、古びた分厚い書物。そのうちの幾つかは開かれたまま重ねられており、色褪せたページには、今では読める者さえ数えるほどしかいない古代文字が書き綴られていた。

 窓から差し込む朝焼けの薄い光に照らされて、室内に漂う埃が浮き彫りにされる。机の上に山積みになった書物のひとつを手に取って、シェリルは何かを探すようにパラパラとページを捲っていった。


「神聖魔法の心得。天使の証明。絶対禁忌、黒魔術入門……って、何よこれ!」


 探しているものが見つからず、半分自棄になって持っていた本を机の上に放り投げた。その拍子に危うい均衡を保っていた書物の山がぐらりと傾き、あっという間にシェリルを下敷きにして崩れ落ちる。


「きゃあ!」


 分厚い書物の角が頭にぶつかりもしたが、それよりも舞い上がる細かい埃に激しく咳き込んでしまい、シェリルは慌てて椅子から立ち上がると急ぎ足で窓際へと駆け出した。勢いよく窓を開けて、部屋中に充満していた埃臭い空気を外へ逃がしてやる。


「……ごほっ。……っ、はぁ」


 部屋の中に溜まった埃が温い空気と一緒に追い出され、代わりに早朝の少し肌寒い風がシェリルの髪を揺らしながら流れ込んでくる。その澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、シェリルは窓の外から室内へと視線を戻した。


 一晩中書庫に篭って調べ物をしていたシェリルだったが、その成果は見ての通りだ。求めるもののかけらさえ見つけられず、残ったのは至る所に散乱した書物の後片付けだけ。肩を落として項垂れたシェリルの唇から、落胆の色を滲ませた溜息がひとつ零れ落ちた。


「天使召喚術。……やっぱりもう、失われた呪文なのかしら」


 再度視線を外へ向け、目覚め始めた空を見上げながら、シェリルはその先に存在すると言われている天界レフォルシアへと思いを馳せる。


 冷たく凍えた風はやせ細った木々の枯れた葉を落としながら、静かに冬の訪れを告げていた。






「どうしたの、シェリル。埃まみれじゃない」


 書庫から自室へ戻る途中、大聖堂の扉の前でシェリルは呼び止められた。朝の礼拝にはまだ早い時間だったが、ひとりの神官が大聖堂の扉から手を放してこちらへ駆け寄ってくるのが見える。


「あ、おはよう、クリス。相変わらず早いのね」


「大聖堂の掃除でもしようかと思って。……シェリルこそ、どうしたの? こんな朝早くから埃まみれで」


「うん。……ちょっとね」


 歯切れ悪く呟いて、三つ編みにした毛束の先を指先で弄ぶ。それ以上何も言わないシェリルを察して、クリスティーナも深く詮索はしなかった。


「それにしてもすごい埃ね。大聖堂よりシェリルを掃除した方がいいみたい。髪にもたくさん絡みついてるじゃないの」


 くすりと笑みを零したクリスティーナが、埃を取り去ろうとシェリルの前髪に手を伸ばした。その指先を拒むように、シェリルが慌てて後退する。


「大丈夫! 自分で取れるから」


「あ……そう、ね。ごめんなさい」


 あからさまな拒絶に嫌な顔ひとつせず、逆に申し訳なさそうに手を引き戻したクリスティーナがその顔に少し切なげな微笑を浮かべる。居心地の悪い、束の間の沈黙が続いた。


「それじゃあ私は掃除に行くわね。シェリルも戻って身なりを整えてらっしゃい。あと、シェリル。あなた……眼鏡、してないわよ?」


「……えっ!」


 言葉の意味を遅れて理解したシェリルが、自身の顔を手で覆う。指摘されるまで全く気付かなかったと言うのに、なぜかシェリルは慌てた様子で周囲を見回している。どこに置いてきたのかと記憶を手繰ったシェリルの脳裏に、あの分厚い書物の崩壊がよみがえった。


「あの雪崩!」


 それだけ叫ぶと、シェリルは弾かれたように書庫へと戻っていった。

 暫くの間シェリルの走っていった廊下の先を見つめていたクリスティーナだったが、やがて呆れたように息を吐くとバケツを手に大聖堂の中へと消えていった。






 きんっとした空気が漂う大聖堂。

 正面に佇む白い女神像の右手には、聖杖ルーテリーヴェが握られている。聖杖の先には女神アルディナの象徴である三日月が、六つの飾り鈴をつけて模られていた。


 白いアルディナ像の聖杖を柔らかい布で拭きながら、クリスティーナはその三日月とシェリルの姿を重ねて想像していた。


 今年二十三になるクリスティーナは、十年前に神官見習いとしてアルディナ神殿へとやってきた。そこで当時十歳のシェリルと出会った。

 シェリルは神官見習いではなく、神官長エレナに引き取られた子供だった。


 最初はひどく脅えた目をしていた事を覚えている。言葉数も少なく笑顔もない孤独な少女だったが、年の近いクリスティーナと共に過ごすうちに、少しずつではあるが心を開くようになっていった。三年も経つと思春期の少女らしく好みの異性の話などで盛り上がることも多くなり、お互いが親友のように大切な存在になっている事を実感していた。

 シェリルの秘密を知ったのは、ちょうどそんな時だった。


 拭き掃除の手を止めて、クリスティーナはアルディナ像を真正面から見つめた。アルディナの右手に握られた聖杖ルーテリーヴェ。その三日月の印を、クリスティーナはシェリルの額に見たことがあった。


 月は女神アルディナの象徴であり、その印を体に持つ者は世界にたった一人しかいない。

 神の落し子と呼ばれるその存在は女神の祝福を受けた者として、アルディナを信仰する人々から崇められてきた。


 しかしシェリルはその印を重く垂らした前髪で覆い隠し、長く美しい金髪も人目を引かぬよう二つにきっちりと編み込んでいる。視力も悪くないのに黒縁の眼鏡をかけて、極力目立たないように生活しているシェリルを不思議に思うことはあったが、彼女自身が話さないのならクリスティーナもその理由を深く聞くことはしなかった。そんなクリスティーナに、エレナが昔こう言ったことがある。


『見守ってあげなさい。私たちには、それしか出来ないのだから』と。




「……神の落し子」


 無意識に零れ落ちた声は、誰もいない大聖堂にやけにはっきりと響いて行った。

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