命題16.新たな治癒術師 8
ルヴァノスに背中を押されてから半日。結局その日もアダムスは忙しそうで、ついに声を掛ける事ができなかった。
「遠慮しがちだ」と指摘されたばっかりなのに、結局こうなってしまった。
暗い治療院の中、ランタンを掲げながらつい大きくため息を吐く。
時間は日付が変わったくらいで、院内も外の森もとても静かだ。診察室へ向かう自分の、蹄の脚音だけが小さく響く。
アダムスは、テオとマルテとフィルルへの連日の治療と、院の運営のための薬造りで相当疲れている。明るく元気に振る舞って隠そうとしているが、ステラにはそれがよく理解できた。
なので、夜の番をかって出たのだ。テオはともかく、マルテはまだつわりがひどい。ステラでも簡単な処置くらいはできるし、同じ女性なら頼りやすいだろう。
このくらいアダムスも頼ってくれればいいのにな、と思う。だが、自分に治癒術や処置の技術、知識がないことも自覚している。頼れないのだ。
そっと診察室の扉を開け、中に滑り込む。真っ直ぐ本棚に進むと、ずらりと並ぶ幅広の背表紙をランタンで照らした。
迷わず一冊を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。見覚えのある位置を見つけると、そのまま机に向かって静かに読み始めた。
傷病への対応が書かれた、図鑑のように大判で分厚い医学書だ。エクセリシア帝国で編纂されたものの最新版だとイヴリルが言っていた。奥付にエドアルド・ダールマンの名前も記載されていて、ステラでもはっきりと信頼がおけるものだと言い切れる一冊だ。
知識がないなら身につければいい。そう思い、こうして毎日勉強している。
だが――実際に手当をしたわけでもなく、見たわけでもない。文章という情報のみでは心許ない。
読み進め、内容を理解すればするほど、自分の足りない部分や必要だと感じる経験が増えていった。
焦りが募る。
アダムスに師事するのが一番だ。それはわかっている。
わかっているのに、遠慮してしまう。教えを請うという事は、その人の時間と労力を割いてもらう行為でもある。
ソルフレアに文字を教わった時が良い例だ。毎日毎日、一日中付きっ切りで教わった。
力になりたいなら、足踏みしている時間はないはずなのに――。
ぱら、と軽い音を立ててページをめくる。
ふと、本に没頭していた意識が戻ってきた。尖った耳が、微かな物音を捉えたのだ。
アダムスが起きてきたのか、と思った。音は隣の遮光部屋からだ。
マルテに何かあったのか、と席を立つ。
部屋に向かおうとしたところで、キィ、と小さな音を立ててドアが開いた。
紫色の瞳を眠そうに擦るテオが、そこに立っていた。
「あ……」
「……おはようございます。起こしちゃいましたか?」
「いや、別に。今日はあんたが夜の番か。マルテならぐっすり寝てる、今は落ち着いてるみたいだ」
気だるげな声で返事をしつつ、栗色の髪をかき上げながら本棚へと向かう。まだ包帯や湿布が取れたわけではなく、動きも緩慢で身体を引きずるような動きだ。しかし、怪我の治りは良いようだ。さすがは治癒力の高い吸血鬼だ。
吸血鬼の彼は、暗い場所でも目が効く。ランタンの光が届かない本の行列を指でなぞり、一冊分のすき間がある事に気付き、こちらを振り返った。
「お前、それ――」
「あ、これですか? 勉強したくて読んでいた所なんです」
「なんだ、お前もかよ」
「え?」と思わず声が漏れた。驚くステラとは対照的に、テオは本棚から適当に一冊引っ張り出し、診察ベッドに腰掛けて本を開いた。
「ま、アダムスと一緒に暮らしてるんだから、そういう勉強しててもおかしくないよな」
「あの……テオも勉強してたんですか?」
「あぁ、夜だけな。時間見つけてその本を読んでた」
ステラの金色の視線が本に落ちる。この細かな文字列と図解を彼も読んでいたと思うと親近感が湧く。
しかし、
「なんでまた、いきなり医学書を?」
テオは文字を追う指を止め、微かに顔を上げた。
「…………俺は、吸血鬼としては役立たずだった」
「どういう、事でしょうか?」
「そのままの意味だよ」
テオの端正な顔の眉間に皺が寄る。苦々しく吐き捨てるような言い方には、悔しさが滲んでいた。
「確かに俺は、この治療院でアダムスという治癒術師や、ルヴァノスという商人と縁を持った。他の吸血鬼たちを見つけて紹介して、彼らの助力を得れば、同胞が置かれている環境も良くなるはずだ。そう思ってたんだ。でも、俺ができるのはそこまでだった……」
悲哀のこもったため息が、テオの膝上に置かれた本にまで届く。ページに描かれた薬草は、森の草のようには揺れ動かない。
「結局、年功序列と実力社会なんだよ、吸血鬼って。俺みたいな若造があれこれ口出しても、何にも役に立たない。皆の体勢がある程度整って来たら、いわゆる政治的なやり取りの始まりだ。派閥と力関係が生まれた。人間を恨んでて復讐するって奴らと、違う形を模索していくべきだって奴らでな。この治療院にも来たって聞いたぞ」
「えぇ……ありましたね、そういう事。あの時は誰か死ぬんじゃないかと思いました」
「だろうな。俺もマルテも散々巻き込まれた。この治療院と太い繋がりがある吸血鬼だからな。マルテなんて“どうせ死なないんだから”って危害を加えられそうにもなったよ。最悪だ――」
吐き捨てるテオの姿に、ステラは眉尻を下げる。彼らはどこに行っても苦労ばかりだと、内心悲しい思いが満ちた。だが口には出さない。こんな言葉を軽卒に口にする事は、真剣に考えた上で行動してる二人への侮辱になってしまう。
「……それで、皆さんの所を離れたのですか?」
「まぁな。マルテの妊娠がわかったから、少し離れたかったのもある。俺も疲れたし、大吸血鬼が出てきて皆を取りまとめてくれてるしな。俺たちへの干渉も減らしてくれたから、やっと離れる事ができた」
「テオさんは、吸血鬼の皆が嫌になったんですか?」
「そういうわけじゃない」と彼は呟いた。
「ただ、自分がどれだけ知識も技術も、有用な力も何も持ってない事を初めて自覚した。吸血鬼という種族に生まれたからには、他の種族――人外や人間たちに比べて元々の素養が高い。でも、それだけで生きてきた。同じ吸血鬼の中に放り込まれたら、自分がどれだけ小さな存在なのかを思い知ったよ」
テオの鋭い眼差しに、強い光が灯る。
「だから俺は、治癒術師になろうと思っている」
「治癒術師?」
「あぁ。吸血鬼はたくさんの魔力を持っている。そんなの学ばなくても自分たちは強いって思ってるから学ぶ奴なんていないけど、魔術師にも治癒術師にもなれるはずなんだ。治癒術師になれば、俺が皆を治すこともできるしな」
彼の決意を見て、ステラはふっと口元が緩んだ。
「実は、私も治癒術師になりたいと思ってるんです」
「あぁ、もう弟子なんだろ?」
「いえ、まだ……忙しそうにしてるアダムスを見てると、なかなか言い出せなくて――」
「なんだそれ。遠慮なく言えばいいじゃないか。まずはお願いしなきゃ始まらないだろ」
「似たような事、他の方からも言われましたよ」
肩を竦めてみせると、テオはふんと鼻で笑った。嫌味の無い、呆れと親しみのこもった笑いだった。
そういえば、彼は辛い事に遭遇してもへこたれない人物だった。
悲しい事を真剣に受け止め、感情を動かしながらも、それに囚われ過ぎず前を向く人物だ。
相変わらずさすがだな、と内心ほっと溜息を吐く。
彼のこの切り替えの良さと行動力は、尊敬すべき所だ。
「じゃ、俺が一番弟子だな」
「一番はエドアルドさんですよ。エドアルド・ダールマン。この医学書の編纂にも携わっています」
「エドアルド・ダールマン? そういえばエインズワースが世話になったとか言ってたような、言ってないような……?」
「テオさんは二番弟子です」
「じゃ、お前は俺の後輩だな」
言い合いながら、二人して小さく笑った。まだ師事したいとアダムスに言ってもいないのに、既に弟子になった気分だ。
ふと、彼に聞きたい事があったのを思い出す。今なら大丈夫だろうか――
ステラは恐る恐る口を開いた。
「……では、先輩のテオさんに質問があります。不老不死になるって、どう思いますか?」
テオの表情から笑みが引っ込む。ステラを見据える紫色の瞳に曇りはない。こちらに向けられた顔には、若い見た目ながらも遥かに長い時を生きた者の気配があった。
「……どういう意味で聞いてるんだ?」
「私、
「……誰かのために不老不死になるのはやめておけ」
そう小さく呟くと、テオは遮光部屋の扉を小さく開け、中の様子を伺っていた。恐らくマルテが寝ているのを確認したのだろう。戻ってくると、やはり密やかな声で続けた。
「俺は俺の我儘でマルテを不老不死にした。ずっと一緒にいてほしかったからな。でも、そのせいでマルテを苦しめた。お腹に宿った我が子を捨ててでも俺と生きる、なんて――言わせたくなかったよ。あの言葉だけで、心臓が握りつぶされるかと思った」
ステラの耳が自然と伏せる。あの時のマルテの様子はおかしかった。死霊に襲われ、妊娠による精神の不安定と疲労からきていたものだろう。そういった理由を上げることはできても、言われた言葉を忘れることはできない。
「俺たちは運が良いから、安心して暫くここで暮らして出産して子育てをさせてもらえる。でも、他の奴がそう上手くいく保証はない。上手く行っても、少なからず傷付く。だから、アダムスのために不老不死になるのはやめとけ」
テオの言葉を受け、ステラは静かに目を閉じた。
不老不死について、たくさんの人物から話を聞いた。色んな意見があった。どれも参考にはなれど、何かを判断するにはステラ自身の経験が浅すぎて、難しかった。
でも、テオの言葉は違う。彼らの苦難と想いを、ステラは自身の目で見てきたものだ。
ふぅ、と息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「わかりました。私がもし不老不死の道を選ぶことがあっても、アダムスのため――誰かのためになる事はしません。絶対に」
「あぁ……お前まで俺たちみたいに苦しむ必要はないよ」
ステラの宣言に、テオは目を細めて頷いた。
* * * * * *
次の日。
「アダムス、俺を弟子にしてくれ!」
「私も、治癒術を学びたいです! よろしくお願いします!」
「えっ、えぇ? どうしたの二人とも?」
遮光部屋の中は朝から賑やかだった。
朝食を運び込むと同時に、テオとステラはアダムスに頭を下げに下げた。
口を押さえ、目を丸くしたマルテの目の前で、三人のやり取りは唐突に始まり、
「吸血鬼の俺なら治癒術師としての素養もあるはずだ! それに、同胞のためにも治癒術師を身に着けたい。暫くここで厄介になるんだから居候するわけにもいかない。院の仕事を手伝えれば、あんたも楽になるはずだ!」
「私も、アダムスの仕事を手伝いたいです! 院の運営が厳しいのは知っています。それを助けたい……今はそれが一番の理由です。でも、アダムスやエドアルドさんは私にとって命の恩人で、尊敬する人たちです。二人のようになりたいとも、私は思っています!」
「え、えぇっと。とりあえず、二人の気持ちはよくわかったよ!」
そう言うと、視線を宙に泳がせてアダムスは思考を巡らせ、
「……そうだね。正直僕も手が足りないから良い治癒術師が欲しいと思ってたんだ。人外に対応できて、信頼できる人物をね。二人ならぴったりだよ」
結構、あっけなく、すんなりと終わった。
テオとステラは顔を見合わせると、笑みをこぼす。驚いていたマルテもほっと胸を撫でおろすと、膨らんできたお腹をさすった。
少年治癒術師のアダムスは、二人に向かって手を差し出した。
「これからよろしく、新たな治癒術師さんたち。僕の指導は厳しいから、頑張ってついてきてね」
「あぁ!」
「よろしくお願いします!」
こうして、人外専門治療院に新たな治癒術師、の卵が生まれたのだった。
命題16.新たな治癒術師 ~完~
→次回 命題17.夜王 クロノス
※予約投稿を忘れてました、すみません!
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