命題14.マスター フィルル・エルピス 4
「テオとマルテの事、覚えてる?」
アダムスの言葉に、ステラは何度も頷いた。
当然覚えている。ステラがこの治療院に滞在して、恐らく初めての患者だったであろう、吸血鬼と不老不死の人間の恋人達だ。
丁度、一年前ほどの事だ。突然、扉が激しく叩かれた。吸血鬼を狙う
「……マルテの方が、不老不死だったでしょう? 吸血鬼の涙に口づけしたって言ってたやつだよ。あれはね、涙に強力な魔力が宿っていて、それを強い想いと共にマルテが受け取った事で成立したんだよ。だから大魔術師と一緒ってこと――……」
* * * * * *
数日前の記憶から、現在に戻ってくる。ぼんやりとしている間に、アダムスがテーブルに鍋を置いていた。
コンソメの香りが鼻腔をくすぐる。今夜はポトフだ。大きめに切った具材にはよく火が通っているはずだ。フィルルを心配する気持ちとは裏腹に、口の中にじんわりと涎が湧く。
そういえば、テオとマルテの事については他の吸血鬼
ステラは自身の身体と命の問題が解決したからか、二人の現在がとても気になる。吸血鬼たちの事情は込み入っているようだから、ステラが知ったところでどうしようもない事かもしれないが。
ふと、外に人の気配を感じて振り向く。窓をのぞくと、夜に変わりつつある景色の中、黒い人影が裏口に向かってきていた。
間もなくコンコン、と乾いた音がリビングに響く。アダムスが返事するより先に、木製のドアがゆっくりと開いた。
すき間から、ひんやりとした夜風と共に銀色の毛並みの子狼がするりと入りこむ。
堂々と座り込んだ子狼の後ろで、恐る恐るといった風に、ゆっくりとドアが開かれていった。
ひょっこりと、ふわふわの頭としっぽが覗いた。
「やぁ……おはよう」
薄っすらと紫がかった銀髪を揺らし、眼帯で隠れていない左目をこすりながら、フィルル・エルピスがようやく起き出した。
* * * * * *
「あー! お腹いっぱい。やっぱりアダムスのご飯は美味しいね、ご馳走様でした」
「はいはい、お粗末様でした。寝起き早々、そんなに食べて大丈夫?」
空になった鍋をよいしょと持ち上げながら、アダムスが眉をしかめた。
基本的に、アダムスとステラの二人暮らしだから、大鍋で料理を作ったら大抵は次の日まで持ち越すことになる。だが、
丸椅子に座ったフィルルは水を飲みつつ、まだ物足りなさそうに頬杖をついている。
「俺はまだまだこんなものじゃないさ。なんせ冬中頑張りどおしだったんだから。もっと何かない? 酒とかつまみとか」
「ダメだよ。これ以上は身体に毒」
「じゃあせめてお粥くらい……お腹が空いて仕方ないんだよ」
捨てられた子犬のように紫色の瞳を潤ませる。そんな大の大人のおねだりに少年はため息を吐いた。
結局「はいはい」とキッチンに向かって、主のリクエストに応え始める。アダムスの甘く優しい所だ。
食器を片付けたステラが席に戻ると、フィルルと二人きりになった。同じ空間にいるはずのアダムスはお粥づくりに集中している。料理をする音と火の暖かさだけが、リビングに充満していた。
ステラは改めて、フィルルをまじまじと観察した。
先日の汚れた姿とは大違いだ。湯浴みして髭を剃り、ついでに髪も整えてもらったらしい。患者服を来て清潔感のある彼は、なかなか格好いい青年だ。
腰まである長い銀髪は、うっすらと紫がかっており、ふわふわとふくらんでいる。狼の耳と脚からして、やはり獣人なのだろう。
決闘の大魔術師、というだけあって筋肉質だ。黒い眼帯で右目を隠し、院内を物珍し気に見渡す左目は鋭く切れ長だ。ふわふわとした髪――毛並みとは裏腹に、中身は強そうな印象を受けた。
視線に気づいたフィルルが、こちらを向いて口の端を小さく上げる。
微笑んでいるように見えるが、どことなく品定めをするような、隙の無い目をしている。
彼との間に流れる沈黙が苦しくなり、ステラは口を開いた。
「アノ……」
「うん?」
「助ケテクレテ、アリガトウゴザイマシタ」
座ったまま、白い頭をぺこりと下げる。
フィルルは少し驚いたように目を丸くすると、耳をぴぴっと小さく跳ねさせ、
「どういたしまして。元々、俺は君を助けるのに反対してたからね。すぐに死んでしまうだろうと思ってた。正直、驚きだ。生還、おめでとう」
バツが悪そうに小さく肩を竦め、苦笑した。
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