命題13.葉緑の吟遊詩人 ヴェルデリュート 1
透き通るそよ風のような歌声が、耳に届いた。
惹かれるようにその歌声に耳を傾け、意識を向けていく。だんだん思考が回転し始め、自分の状況を理解し始めた。
自室の天井の木目を眺めていると、窓から入るそよ風が開いたドアへ流れていった。一緒に訪れた春の草花の匂いが、鼻腔をくすぐる。
そう、春だ。
緩やかに頭を動かし窓を見やる。暖かな陽光と鮮やかな緑を背景に、光の玉の姿をした精霊たちが、こちらを覗き込んでいた。
春の光景が、不思議と懐かしい。
この精霊の森に来た時も春だった。
誰の声だろう、ずっと歌が聞こえている。男性とも女性とも言えない柔らかな声質で、とても美しく癒されるような心地だ。聞いていると不思議と穏やかな気持ちになる。
ステラはそれを聴きながら、腕を支えにしてゆっくりと上体を起こした。
願い事眠ったままで冬を越したせいか、身体の節々が軋むが、痛くはなかった。
ステラは人間の少女だった。
一昨年の晩秋に突然誘拐され、知らない魔術師によって身体を
この身体は歪みに歪んで不安定で、精神的にも肉体的にも、ステラに多大な苦痛を強いた。
だがアダムス達に助けられ、精霊の森で過ごしながら
たくさんの者たちが力を貸してくれて、とうとう昨年の冬の
助けられてから最後の
やっと座位を採る事が出来たステラは、近くの椅子を引いて、背もたれに手をかけながらゆっくりと立ち上がろうと試みた。
何度か失敗しつつ脚を慣らしていると、窓から入った精霊たちが声援を送るように周囲を飛び回る。
やっとの思いで直立すると、ステラは改めて自身の身体を見下ろした。
アダムスが作ってくれた、深緑色のマントを寝巻代わりにしていた
だが、以前より視線が高い気がした。背筋が伸びているのだ。
それに全身の毛がごわごわしている。ずっと寝たままだったかもしれない。それに、茶色の毛に交じって所々白い毛が見える。色が変わっているのだろうか。
首元に手をやると、包帯が巻かれていた。頸部を横に貫いていた鉄の棒は無い。腹部も同様だ。代わりに胸の中央に硬い感触がある。マントを引っ張って覗くと、大きな青い結晶が埋め込まれていた。身体維持装置だ。元々は無色透明の水晶だが、使用者や環境によって色が変わるらしい。結晶の中でキラキラと光が瞬き、燐光が舞っている。
いつまででも眺めていられそうな美しさだったが、すぐにマントを正し、アダムスを探した。
耳を跳ねてみても、歌と森の音以外は聞こえない。とても平穏で、風にそよぐ木々とこすれ合う葉の音が遊ぶのみだ。
蹄を引きずるようにして少しずつ足を前に運び、部屋を出る。陽の光で明るいリビングにも、誰もいない。窓から見える裏口の近くには、干された白いシーツが風に揺られていた。その向こうの小川のせせらぎだけが耳に届く。
世界中の風景の絵が飾られた廊下を進み、待合室へ。カウンターにはピンクと白と黄色の花が飾られている。見覚えのある花だ、恐らく南の花畑のものだろう。飾ったのはアダムスだろうか。
診察室を見やるが、開け放たれたドアの向こうに人の気配はない。
歌声は、外から聞こえてくる。
ステラはステンドグラスが嵌められた玄関扉を押しのけ、導かれるように外へ出た。
ドアを潜った瞬間、太陽の眩しさに顔を背け、手を
瞬間、暖かな風が森全体に流れ、ステラに覆いかぶさり、通り過ぎていく。
つい、その先を目で追った。
治療院を内包する、精霊の森の主とも言える巨大樹の根の一つ。その上に座り、歌を歌い続ける人影があった。
葉の色が移ったような褪せたシルバーブロンドの長い髪に、葉を模した金の髪飾りと緑色のケープのコントラストが綺麗な人だった。ケープから伸びる半透明のヴェールがおとぎ話の妖精の羽のようで、尖った長い耳を見るまでもなく、人では無い存在だと理解できた。
男性とも女性とも付かないその人は、少年とも大人ともつかないほど姿をしていた。
目を閉じて片膝を立て、抱えたリュートの弦を弾きながら、ずっと声を響かせている。
知らない言葉の歌詞だから、何と言っているのかはわからない。だが、恐らく優しく暖かい内容なのだと思う。
あれは誰だろう、治療院の患者さんには見えない。
もしかして、この森の精霊が人の姿をとっているのだろうか? そう思ってしまうくらい、歌声の主は吸血鬼たちとも違った、幻想的な雰囲気を纏っていた。
周囲に精霊たちが集まってくる光景が、より想像に信憑性を持たせてくる。
ふと歌声とリュートの音が止まった。
幻想的な人物がゆっくりと瞼を上げ、鮮やかな緑色の瞳がステラを捉える。
ステラも黙って見つめたままでいると、幻想的な人物はにっこりと笑い、首を回して視線を横に滑らせた。
促されたような気がして、ステラも視線の先を追う。
ステラの先、治療院から伸びる道の上に、
白銀の瞳に白髪、純白の治癒術師衣装。服と合わせた白い帽子に、首にかけた小さな白いランプ。腕に提げた編み籠の中には、ステラも知っている薬草が詰まっていた。
再び、森全体を春風が通り抜けていく。
ステラのマントとアダムスの髪が、大きく揺れた。
空気の流れが止まった瞬間、アダムスの腕から籠が滑り落ちる。
地面に衝突し薬草をばらまくより先に、彼は駆け出していた。
「ステラ!」
白銀の瞳を潤ませ、全身でステラのお腹に飛び込む。受け止めきれなかった少女はそのまま後ろに倒れ込むが、アダムスは構わず声を上げた。
「ステラ、やっと起きた。やっと起きたんだね! ずっと待ってたよ、毎日毎日君の事を見てた。春になってからはステラが目が覚ますのが待ち遠しくて、一日がすごく長く感じたんだよ……!」
「ァ……うス……」
「もしかしたらもう起きないかもって不安だったんだ。ソルフレアもイヴリルもエドアルドも、そんな事あり得ないって言って、皆それぞれ用事があるから出て行っちゃって、ブラウシルトはイヴリルと旅に出て、ロメオは帰っちゃって、ルヴァノスは数日に一回くらいしか来ないし、今治療院には僕一人で……」
顔を埋めていたアダムスが、ゆっくりとステラから離れる。押し倒した少女の腕を引っ張って地面に座らせ、自分も姿勢を正した。
「…………君が眠ってる間も患者は来たけど、やっぱり、僕一人だとこの治療院はすっごく静かだったよ」
顔を赤らめながら苦笑して肩を竦めると、少年はステラに向かって両腕を伸ばした。
「…………おはよう、ステラ」
「ぉ……オあヨウ、あ、ダムス……」
喉を震わせて、ステラは少年の腕の中にゆっくりと身を寄せた。
森と精霊たちと、根の上に座る幻想的な人物がその光景を見守った。
暫くは離れそうにない二人の様子に、幻想的な人物は眩しそうに目を細める。
一拍置いてから、辺りには再び歌声が流れ始めた。
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