命題11.白月の治癒術師 イヴリル 2
結局、ステラは早くに目が覚めてしまった。夜中の覚醒がはっきりしていたものだから、二度寝しても長くは眠れなかったのだ。
イヴリルは一晩中起きていたらしい。患者の面倒を見るのは慣れているから、と笑う可愛らしい顔には、疲れの
彼女がそっと
「どうしましょうね、朝ごはんにはまだ早いし……。そうだ。せっかくだから湯浴みしない?」
深緑色のローブに着替えていたステラは、振り返って片耳を跳ねさせる。
「長いこと眠ってたでしょ? 一旦さっぱりしましょう。外にテント張る頃にはみんな起き出してるだろうし。体調が良いなら、少し動いた方がいいわ」
「コートを取ってくる」と言い残し、イヴリルは部屋を出て行った。
ステラも後を追って、ランタンを手にのっそりと自室を後にする。
一カ月半も眠っていたと言われても、ステラにとっては一瞬の出来事で、ピンと来ていなかった。だが、静かで暗く、そして以前よりずっと肌寒くなったリビングが、明確に季節の移り変わりを教えてくる。
蹄の音が響かないよう、忍び足で玄関へ進む。扉に嵌め込まれたカラフルなステンドグラスの向こうは、相変わらず真っ暗だ。そっと開けると、隙間から入る冷たい空気がステラの顔にぶつかった。
眉根を寄せつつ、白い息を吐きながら一歩外へ。しゃり、という音と共に、薄く雪が積もった地面を踏みしめる。二歩、三歩と足を進め、ランタンを掲げて辺りを照らす。不思議なことに、治療院へ続く道にはほとんど積雪がない。代わりにその両側――草が生い茂っていた部分には、ステラの膝丈ほどまで純白の雪が厚みを作っていた。
ステラはぐるりと頭を回し、周囲の様子を伺った。
森全体の雰囲気に違和感を覚える。精霊たちの姿がない。静かすぎるのだ。
普通の山や森ならこんなものかもしれない。だが、ここは精霊の森だ。生命力が溢れ、常に温かな気配が隣にいる。そんな場所である。
例え多くの動物が冬眠し、静けさに包まれる冬であっても、それはあくまで眠っているだけだ。眠っているという気配があるはずだ。
だが、それがない。
森が沈黙している。ステラはそう感じた。
ふと、ぼす、と軽い音が耳に届き、背後を振り返る。雪がちらちらと舞う中、治療院の裏口辺りで、イヴリルが雪をかき分けながら倉庫に向かっていた。
ステラも雪に足を取られながら、彼女の側へ向かう。せいぜいステラの胸下ほどの背丈しかないイヴリルでは、この積雪の中を進むのは大変そうだ。あっと言う間に追いついたステラは、彼女に先行して雪をかき分ける。
「ありがと。こう雪が深いと進むのも大変だわ。精霊たちが、どうにか道には積もらないように気を配ってくれてるんだけどね。それ以外は一晩でこんなよ」
『脚が良くなったおかげか、雪の中でも進みやすくなりました』
「それは良い事ね。でもあまり無理しちゃダメよ?」
二人は倉庫からスコップを取り出し、手ごろな場所を掻き始める。粉雪なので一回一回が軽く、身体が硬くなっていたステラには丁度良い運動だ。イヴリルの監督の元、ゆっくりとした動きで少しずつ掘り進めた。
雪の小山ができ、東の空が白んできた頃。上の方で人を気配を感じ、ステラは顔を上げた。
「ステラ!」
ツリーハウスを繋ぐ渡り廊下から、茶色のコートを着込んだソルフレアが身を乗り出していた。ハーフアップにした山吹色の髪を振り乱して階段を駆け降りると、雪で転倒しかけながら、こちらへ一目散に進んでくる。
ステラもスコップを放り投げ、ソルフレアへと駆け寄った。両手を伸ばす彼女を掴み、思い切り抱き上げる。抱擁すると同時に、クゥーンと喉が鳴った。
「ステラ! よかった、ちゃんと起きたんだな、良かった!」
「クゥーン、クゥーン!」
抱き着くソルフレアに、ステラも顔をこすり付けて抱きしめ返す。そのまま彼女を抱き上げ、イヴリルの元へ連れて行った。
「ステラ、当方の怪我はもう完治している。
鼻先を撫でる彼女を降ろし、もう一度抱きしめる。ステラのために、自身の怪我も
そんな二人に――厳密にはソルフレアに、イヴリルがスコップを差し出した。ステラが使っていたものだ。
「おはよう、ソルフレア。ステラに湯浴みさせるの。テント張るから手伝ってちょうだい。ステラはちょっと休憩ね」
「
「夜中よ」
「なぜ教えてくれなかった?」
「別に容態が悪かったわけじゃないし、みんな寝てたもの。無理に起こすことはないでしょう? 急に騒いだらステラも疲れちゃうしね」
ソルフレアはスコップを受け取りつつ、文句を垂らす。だが、怒っているわけではないらしい。いつも通り無表情な顔だが、言動は軽快だ。
手持無沙汰になったステラは、雪の小山を適当に押し固めて腰を降ろす。
凍った地面が顔を覗かせ、空も随分明るくなってきたところで、ツリーハウスからまた一人起き出す者がいた。
ステラとソルフレアが通った道を辿りながら、濃紺色のコートを着たブラウシルトが片手を上げる。さすがにこう寒いと、いつもの白銀の鎧は着ないらしい。
「おはようございます、皆さん早いですね」
「ガウ」
「ステラさんもお久しぶり、元気そうで何よりです。彼女が起きたってことは、朝食用の聖水汲みは必要ないですね」
ステラが首を傾げると、ソルフレアが手を止め、山吹色の髪を掻き上げながら説明する。
「元々、当方ら
「アダムスさんも元気がなくて、料理をしてくれませんでしたから。別の誰かが作っても良かったのですが、無理に食料を消費する必要もなかったので、俺が湖に聖水を汲みに行ってそれを飲んでたんです。そろそろあの分厚い氷を割るのも骨が折れてたので、ステラさんが起きてくれて本当によかった。久々に暖かい食事にありつけそうだ」
白い息を吐き、肩を竦めて苦笑するブラウシルトに、ステラは尋ねる。
『アダムスはそんなに元気がないのですか?』
「あの
「おい、
ソルフレアのキツい物言いに、何かを察したらしいブラウシルトは申し訳なさそうに背中を丸めた。イヴリルからスコップを受け取り、黙って両手を振るう。しっかりとした体幹と力でせっせと雪を掘り返す姿は頼もしく、さすが男性だと作業が早いな、とステラは感心した。
イヴリルがステラの膝にちょこんと座ると、その暖かさに口許が緩んだ。
しかしそれも一瞬で、ステラの顔がすぐに曇る。不安な気持ちをボードに綴り、イヴリルにそれを見せた。
『アダムスは、そんなに思い詰めているのですか?』
「……えぇ、そうね。でもみんなが問いただしても答えてくれないのよ。ステラ、あの日何があったのか教えてくれない?」
ステラはどう返答すべきか迷った。当然、話すべき事だとは思っているのだが、うまく言葉がまとまらない。伝えるのが怖いのもあるし、話が長くなる。そう思うと、切り口が思い浮かばなかった。
結局、暫く考えた後にこう答えた。
『少し待ってください。どう伝えればいいのか、私には難しいです』
「……そう、わかった。話せるようになったら聞かせてね」
イヴリルはそう言って、雪掻きを進める二人の方へと向き直った。
ステラは追及しない彼女に感謝した。アダムスの事が心配なはずなのに、こうしてステラの気持ちも尊重してくれる。はっきりしててたまに気の強さが前面に出てくる、まだ親しくないイヴリルという
ステラはそんな彼女の優しさに甘えるように、逆に質問をした。
『森が静かすぎる気がします』
「あぁ、ステラも気付いてたのね」
「どうした」と手を止めて訪ねるソルフレアに、イヴリルが応える。
「森が静かすぎるって、ステラが」
「精霊たちが姿を見せなくなったからな。原因は北の泉の呪い――死霊たちが先日の一件以来、活発化している。森への侵食もかなり進んでしまった。泉を中心に木々が枯れていき、森全体の生命力が落ちている。こちらの問題も深刻だ」
「
「
「見つかったんですって。どこかの深い森の木のウロの中で、ランプの姿のまま入ってたそうです。どうやら十年前のアダムスさんの一件の後、ちょうど良さげな若木のウロの中で眠り始めたらしいんですが、眠ってる間に若木が成長しちゃって、降りられなくなってたそうですよ。鳥の巣の一部にされてたから、今はお掃除中だってルヴァノスが言ってました」
「人騒がせな……」
舌打ちをしつつも、ソルフレアの固い顔が緩む。
喜ばしい報告ではあったが、ステラの顔は曇ったままだった。死霊の事も、精霊たちやこの森のことも心配だ。だからと言って、ステラにできることはとても少ない。無意味な焦りばかりが心に
「ステラ、気にしないで。あなたは自分の事を第一に考えて」
ステラの心を見透かすように、イヴリルが見上げてくる。力強く断言する様にステラは励まされ、小さく頷いた。
日も昇り雪が止んで、雲の隙間から陽光が差し込んできた。不自然なほど静かな森に、爽やかな朝が訪れる。
テントを張れるだけの場所も確保できた頃、裏口からアダムスが顔を出した。
白銀の瞳と、ステラの金色の瞳がぶつかる。
その瞬間、お互いの目が潤み、お互いの口が開いた。
「ステラぁ!」
「ガゥウ!」
ステラは膝の上のイヴリルを降ろし、アダムスに駆け寄った。途中、足元で邪魔をする雪をかき分け、小柄なアダムスを抱き上げる。
少年の両腕がステラの首に回され、お互い思い切り抱きしめ合った。
「ステラ! 起きたならすぐ教えてよ! ずっとずっと心配してたんだよ!」
鼻を啜りあげ、湿った声を上げるアダムスに、ステラは喉を鳴らして応える。そのまま彼を地面が見える場所へ降ろし、もう一度抱きしめた。
そんな二人を、みんなが暖かい目で見守り、肩を竦めては溜息を吐く。
暫くの後、ステラから離れたアダムスはイヴリルへと振り返った。
「イヴリル。ステラはいつ起きたの?」
「真夜中よ」
「起こしてくれればよかったのに!」
「体調も悪くなかったし、夜中に騒ぐとむしろ疲れちゃうから知らせなかったの」
「でも……じゃあ朝にまた教えてくれれば……」
そう言って、アダムスは他の面々を見た。彼以外の全員がここに集まっているのが不服らしい。
そんな彼に、イヴリルはひらひらと手を振ってみせる。
「今でも十分早いでしょ。そんなことより、ステラの食事を用意してあげてよ。久しぶりだから胃に優しいものをね。芋のポタージュ辺りが良いかしら? その間、私たちは湯浴みのためのテントを準備してるから」
「…………」
イヴリルの軽口に、アダムスは押し黙った。
治癒術師の双子の兄妹は、お互いが頑固で気が強いからか、すぐ喧嘩をしてしまう。だから、また始まりそうだなと周囲は呆れていた。しかし深刻な表情を浮かべるアダムスの様子に、皆が
ふと、アダムスがぽつりと言った。
「……僕が一番最後じゃないか。まるで役立たずみたいだ……」
「え。いや、何よ藪から棒に」
「どうした、
戸惑うイヴリルに、顔色を伺うソルフレア。
雲のすき間から覗いていた太陽が隠れ、辺りを冷たい北風が撫でる。
「僕は役立たずじゃない」
「知ってるわよ」
「アダムスさん、誰も貴方の事を役立たずだなんて言ってませんよ。俺なんかよりもずっと人の役に立ってるじゃないですか」
「でも! みんな僕を起こしてくれなかったじゃないか!」
肩に置かれたブラウシルトの手を払い、アダムスは叫んだ。身体中を力ませ、小さく震える姿が痛々しい。
首を傾げ、各々が顔を見合わせる中、イヴリルは呆れた声を漏らした。
「何よもう。仲間外れになっちゃったのがそんなに寂しかったの? こっちの二人が呆れるほど早起きしてきただけじゃない」
「僕は役立たずじゃない。ちゃんと助けられるよ」
「わかってるわよ。なんなのもう」
「死霊たちが言ってた。僕は役立たずの治癒術師だって。でも、そんな事ないはずなんだ……」
イヴリルは深く息を吸い、吐き出して首を傾ける。
「……なるほどね。あんたがずっとしょげてたのはそういう事だったわけ。いい? 死霊たちの言葉になんか耳を貸さないで」
「あいつら、イヴリルが言った事知ってたよ」
「言った事って……何よ?」
「ステラを助けるべきじゃなかったって言った事だよ!」
「なっ――!」
イヴリルが息を呑み、皆の視線が彼女に集中する。
アダムスの言葉は尚も続いた。
「エドアルトの言葉も、ブラウシルトの言葉も知ってた! でも、僕はステラを助けた。見捨てるか生かすかだったら、僕は助ける方を選ぶ。十年前、ヘリオス王国の事件で君に言われた事、僕は覚えてるよ。ずっと考えてた、助けるべきか、切り捨てるべきか。でも、僕はイヴリルとは違う道を取る。僕は……君みたいに誰かを見捨てるような選択はしたくない!」
いつの間にか、アダムスの目からは大粒の涙が溢れ出していた。
イヴリルの足が、一歩、二歩と下がる。真っ青な顔が、ステラの方を向いた。震えた声が、彼女に問いかける。
「ステラ……もしかして、知ってたの?」
ステラは思わず俯いた。それが彼女への返事となってしまった。
イヴリルの顔がくしゃりと歪み、止める間もなくこの場から逃げるように駆け出した。走り去る瞬間、ステラの目に、彼女の頬から飛び散る雫が映った。
空の晴れ間は一瞬で、再びちらちらと雪が降り始める。
ステラはどうするか迷った。後ろには俯いて涙を流すアダムス。イヴリルの方は、このまま森の中へと姿を消してしまいそうだ。
二人を交互に見やり狼狽えていると、ソルフレアの黄金色の瞳と目が合った。黙って頷く彼女に背を押されたような気がした。
ステラは、イヴリルの後を追って走り出した。
俯いたまま立ち尽くすアダムスの肩に、ブラウシルトの手がそっと置かれる。
「アダムスさん……」
「ブラウシルト。君、ステラに十年前の事を話したんだってね。どこまで言ったの?」
「あなたを助け出したところまで」
ブラウシルトの返事にアダムスは眉を
「あの時の事、気にしてたんですね。すっかり忘れていたのかと思いました」
「当たり前じゃない……皆には十年前の事でも、眠っていた僕にとっては、ついこの間の出来事なんだ。僕はあれで――イヴリルの言葉のせいで半壊したんだ」
「イヴリルさんの事、嫌いですか?」
「そんなわけないじゃない!」
顔を上げ、苦しそうに言葉を吐き出した。しかし、そこから先の言葉が続かない。
黙りこくる二人に向かって、ソルフレアが声を掛けた。
「テントを張るから手伝え。きっと身体を冷やして戻ってくる」
アダムスは袖で涙を拭い、とぼとぼと倉庫に向かう彼女の後を追った。
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