命題10.動き出す泉の呪い 4
ペースト状の薬を湿布に塗り、リチャードの頬に張り付ける。かすり傷に沁みたのか、彼はぎゅっと目をつむり、落ち着きなく湿布を撫でた。
ステラは、彼のあまりの生傷の多さに驚いた。服の下にも擦り傷や切り傷、痣がたくさんあったのだ。まるで山の斜面を転げまわったかのようだった。
早く彼が元いた場所に帰してあげなければ。そう思いながら後片付けをしていると、ふとステラの脳裏に家族の顔が浮かんだ。
決して豊かではなかったが、毎日笑顔を向けてくれた、優しい両親と小さな弟。ステラが連れ去られてから、もう一年経つ。彼らは自分の事を未だに待っててくれているだろうか。探してくれただろうか。
さすがにもう、死んだものと思っているかもしれない――。
仕方のないことだ。
だが、リチャードは違う。迷子になって間もないはずだし、家族も探しているだろう。
早く外に連れ出そう。決意を新たにリチャードの方を振り向くと、「ぐぅ~」と大きな音が部屋中に響いた。
目を丸くするステラの前で、リチャードが顔を真っ赤にして俯いた。恥ずかしそうにお腹を押さえ、唇を尖らせている。
ステラは苦笑して、彼をリビングに案内した。
「ステラ! あっち行ってもいい?」
『いいですよ』
リチャードが指さした先、リビング横にある吹き抜けの螺旋階段を見上げ、ステラは頷いた。
手当中は苦い表情を浮かべていた李長内顔に、笑顔が咲きほこった。怪我を物ともせず、リチャードは小さな身体で階段を駆け上がっていく。
楽しそうな後ろ姿を見送ってから、ステラは戸棚を開け、中の皿を取り出した。
アダムスが昼食用にと作ってくれたサンドイッチだ。分厚いパンで挟んだ卵、ハムとチーズとレタス、ポテトサラダ。朝食の余りを使った具だ。
テーブルを拭き、ティーカップを並べて紅茶を淹れる。湯気と共に香ばしい匂いを鼻先で堪能していると、上からパタパタと足音が降りてきた。
階段を降り切ったリチャードが駆け寄ってきたかと思うと、そのままステラの腰にしがみつく。
「ステラ! 上に窓があった!」
大きな青い瞳を輝かせ、リチャードが見上げてくる。
「でもこの森、すーっごく広い。ずっとずっと先まで森だったよ。ちゃんと帰れるかな?」
『大丈夫。私がちゃんと連れてってあげますから』
リチャードを
「……ステラの分は?」
『私は大丈夫。お腹が空いてるでしょう? 全部食べていいですよ』
「…………」
笑顔を向けるステラの目の前に、すす、とサンドイッチの皿が移動する。リチャードがもじもじしながら、
「これ、褒美。余は人の上に立つから、助けてくれた人にはご褒美をあげるの。余は卵が一番大好きだから、ステラに卵のサンドイッチをあげる」
そう言って、ポテトサラダを
ステラも大きな口を開けて、ご褒美にもらった卵のサンドイッチを口に運んだ。
「この治療院、静かだね」
『今は患者さんもいないし、みんなお出かけしていますから』
「さっきの、上にいた黄色い人が治癒術師?」
『いいえ。あの方は――魔術師さんで、お勉強の先生です。お手伝いに来てくれています』
「魔術師なのに、治癒術師のお手伝いをするの?」
首を傾げるリチャード。その口の横についたポテトサラダを拭いながら、ステラは言葉を選んだ。
『私の治療に協力してくれているんですよ。難しい治療なんです』
「……ステラ、どこか悪いの?」
『はい。でも皆が助けてくれるので、怖くないですよ』
「ステラの父上と母上は、心配してない?」
ステラの耳はピクリと跳ねる。言葉に詰まって、どう返答していいものか迷った。
そんな彼女の返事を待たず、リチャードは言葉を続ける。
「父上も母上も、兄上も姉上も、余が風邪を引いたり怪我をしたらすっごく心配するの。ステラの家族も、きっと心配してるよ」
『……優しいご家族ですね』
「うん!」
誇らしげに笑うリチャードに、ステラもふっと微笑み返した。
『きっと、私の家族も心配しています。でも私は、自分の家がどこにあるかわからないんです。』
「ステラも、迷子?」
『そう……そうなのかもしれません』
「帰りたくないの?」
とうとう、ステラの動きが止まる。静かに手をテーブルの上に置き、俯いて答えを探した。
帰りたいのか、帰りたくないのか、ステラ自身もよくわからない。会いたいけれど、もしこの姿を拒絶されたら怖い。
だが、どちらにしろこの治療院を離れる事はできない。急いで治療をしなければ死んでしまうのだ。今は考えなくてもいい。治療に専念しよう。そんな言い訳が、ずっと心の中に渦巻いている。
そんなステラの胸中を知ってか知らずか、リチャードはあっけらかんと言った。
「ステラ。治療が終わったら、必ず家族を探して会いに行こうよ! ステラが余を助けてくれるように、余もステラの家族に会うのを手伝ってあげるから! 約束だよ、絶対手伝ってあげるからね!」
『……ありがとう、リチャード』
リチャードの真っ直ぐで純粋な言葉に、ステラは少し寂し気な顔で笑ってみせる。
彼はそれに気付かず、満面の笑みを浮かべた。
昼食の後、二人は手を繋いで外に出た。
リチャードに、行きたい方向に進むよう伝えると、彼は小さな手で西の方角を指す。
二人は、精霊たちと共に森へ入っていった。
* * * * * *
心細さがなくなったのか、リチャードは足取りも軽くはしゃいでいた。そこら辺の木の枝を拾い、軽く振り回して鼻唄を歌っている。彼が小さな足を大きく蹴り上げると、赤い落ち葉がふわりと舞った。
そんな幼い少年の周囲を、精霊たちが飛び交っている。揺れる木の枝に近づいては避け、彼と遊んでいるつもりらしい。
ステラの五本の細いしっぽも、鼻唄に合わせて楽し気に揺れている。繋いだ手をしっかりと握りしめながら、少女はぐるりと辺りを見回した。
北に近い。この辺りに来るのは久しぶりだ。
精霊の森は、北の泉の呪いに蝕まれている。泉を中心に生命力が奪われ、森が弱っているのだ。もっと北へ行けば枯れ木ばかりの寒々しい景色が広がっている。
これの治療も、アダムスが精霊たちに頼まれた仕事の一つだ。だが、泉の呪いの正体は死霊の塊である、という所までしか判明されていない。死霊相手の事となると、治癒術師のアダムスには手に余る。
以前、この影響を抑制するために、ステラは北側の森一帯に聖水を撒いていた。
しかし、イヴリルとブラウシルトが来訪した際に、一時的に北の泉の呪いが活発化した事がある。あれ以降、危険だからと聖水撒きをしていない。
ステラの胸に不安がよぎった。ステラは何故か、北の泉が怖くない。だが、アダムス達には脅威なのだ。実際に、北の泉から風が吹いてきた時、ブラウシルトは怯えていた。
死霊は魔力をかき乱す。そして、
そうでなくとも、死霊とは生者を攻撃してくる存在なのだという。
できればリチャードをここから離したい。自然と繋いだ手に力が入った。
ふと、彼の足がぴたりと止まった。辺りをきょろきょろと見回し、
「こっちじゃない。あっち」
そう言って、来た道を引き返す。
ステラは安堵した。彼が思うままに道を辿る。北から離れられる、そう思った瞬間。
北から冷たい風が吹いてきた。
季節がらおかしい事ではないはずなのに、自然と二人の足が止まる。風に揺られ、森の木々がざわめいた。
リチャードが不安そうな顔でステラを見上げる。彼をそっと抱き寄せ、ステラは周囲に注意を払った。
風が止んだ途端、森の音が消えた。
耳が痛くなるほどの静けさに、緊張で身体が強張る。腕の中のリチャードが微かに震えている。
――うふふふ
――あははは
子どもの笑い声が聞こえた。声を主を探そうと頭を巡らすと、右から、左から、上から、ともすれば足元から。からかうように至る所から耳朶を打つ。
――こっちこっち
そしてその笑い声は、森中のどこもかしこもから溢れてきた。
――お友達?
――お友達だね
――新しいお友達だ
――死んだ子供がいる
瞬きを――目を瞑り、開けたその直後、ステラは息を呑んだ。
森を埋め尽くさんばかりのたくさんの子供たちが、二人を取り囲んでいた。
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