命題7.黄金の賢者 ソルフレア 3
ソルフレアが治療院に住み込み始めてから、一週間が経った。
「今日も二人はお勉強ですか?」
治療院のリビングで、汗をかいたグラスを片手にルヴァノスは天井を見上げる。氷がカランと涼し気な音を立て、冷えた紅茶を泳いだ。
テーブルを挟んで対面に座るアダムスが、同じように天井を見上げる。
「そう。毎日頑張ってるよね、二人とも。ソルフレアのおかげで、あの子の身体についても色々わかってきたよ。」
「それは
「それにあの子、結構頭が良いみたい。前々から物分かりの良い子だとは思ってたけど、勘が良くて飲み込みも早いってソルフレアが言ってた。思ったより早く文字を習得できそうだって。」
「頑張り屋さんですねぇ。」
アダムスはにっこりと笑って、ルヴァノスのグラスに紅茶を
開け放った窓から爽やかな風が吹き抜け、同じく開けっ放しの扉や別の窓へ流れていく。
涼を運ぶ心地よい空気を感じながら、アダムスは紅茶に口を付ける。
ソルフレアは、巨大樹の根の上のツリーハウスに滞在している。広くて静かで集中しやすい環境が気に入ったらしい。
勉強自体が始めてだった
ルヴァノスは、少女のために小さなボードを用意した。大判の本程度の大きさで、粒子の細かい砂状の物が敷き詰めらている魔法道具だ。この粒子はボードを逆さまにしても零れ落ちず、少女の爪で文字を書く事ができ、枠についた飾りを一撫ですると書いたものは一瞬で消える。ソルフレアのお下がりで売り払おうと思っていた所だったが、丁度良いので彼女に譲ったのだ。
少女も頑張っているんだ。そう思うと、アダムスも負けていられないと思った。
アダムスは、ずっと
初めて会った時もそうだった。彼女は冷たい地下の檻の中、アダムスの声に応え強く呼吸をした。生きる事を諦めなかった。
その姿に、百年以上を生きた
自分も、前に進まなければならないと。
「ねぇ、ルヴァノス。」
アダムスがぽつりと声を
「お願いがあるんだ。あの子の故郷――家族を、探してほしい。」
隣の椅子に置かれた紙束を、ルヴァノスに差し出した。
ルヴァノスはそれを一枚めくり上げ、内容を確認する。
「……イヴリルに言われたんだ。患者に――あの子に向き合っていないって。自分が治療したいから治療しているだけだって。すごく、ショックだった……。」
「それは……」
ルヴァノスが言いかけて目を伏せた。慎重に言葉を選び、もう一度赤い瞳をアダムスに投げる。
「それは致し方の無いことです。私もヘリオス王国の惨状を見てきました。我々は魔法生物、とはいえ人間と同等の知性を備えています。だからあんな事があったら、身体が直っても、心の傷を癒すのは簡単なことではないでしょう? 普通の人間だってきっと発狂しています。」
「でも……だからこそ、僕も頑張らなくちゃいけないんだ。人の姿でなくなったあの子が前を向いて進むように、僕もいい加減、歩み出さなくちゃいけない。」
そう言い切ったアダムスは、美しい弧を描く眉を下げ、小さく肩を竦めた。
「そう決意しても、結局僕にできる事って少なくて。君に頼っちゃってごめん。」
「いいえ。友人に頼って頂けるのは、とても嬉しい事です。」
首を振り、ふっと笑って見せる。
アダムスは目を細めた後、真剣な面持ちをルヴァノスに向けた。
「どう? その情報だけで探し出せそうかな?」
ルヴァノスは紙面を睨みつけ、右手を口元に運ぶ。
資料に記載された少女の情報は少ない。年齢すらはっきりせず、少女の生い立ちや故郷に目星をつけるのは難しい。
「この魔術師に関わっていた奴隷商は裏世界の者たちらしく、追いかけるのも難しいのです。というか、既に追っています。表の世界の商人たちにも被害が出てましたから、彼らがね。ですがもう少し情報が欲しい所です。」
「……本人から聞き出せないかな?」
「もしかして、家族の元に返すつもりですか?」
片目を
「もしも将来、彼女が家族に会いたい、一緒に暮らしたいと思った時、すぐに会わせてあげられるようにと思って。最後にどうするかは、あの子に任せるつもりだよ。」
「そうですか……。」
ルヴァノスは肩の力を抜き、ぐいっとグラスを傾ける。一息ついてから、一層明るい声でアダムスに告げた。
「必ずお嬢さんの家族を探し出して見せましょう。情報の聞き出しはソルフレアにお願いしてみます。きっと上手くやってくれますよ。お代は、今回もツケにしておきますからね。」
そう言って片目を瞑ってみせるルヴァノスに、アダムスは目頭が熱くなった。ただ一言、「ありがとう。」と笑ってみせるのが精いっぱいで、その笑顔もすぐに保てなくなり、つい俯いてしまう。
そんな少年の様子を、ルヴァノスは暖かい目で見守っていた。
* * * * * *
ここ最近の
午前中は院で使用する聖水を汲みに行き、北の泉に浸蝕された森に聖水を撒く。ブラウシルト達の滞在時に起こった事件により、現在はあくまで安全地帯のみに撒き、浸蝕の拡大を防ぐに留まっている。
それが終わったら昼食を採り、アダムスとソルフレアの診療と調査を受けた後、こうして文字の勉強に勤しんでいる。
ツリーハウスの内部は、治療院と同じ木製でも暗い色合いの内装をしていた。高い位置にあるので、窓を開けると地上よりも涼しい風が吹き抜ける。
床に散乱する書類を
ベッドの端、床に座った少女の目の前に置くと、白い指先を
まとまった文章となって漂うものもいれば、単語だけが飛び散り、他の文字にぶつかっては弾けるものもいる。挿絵や難解な図解も所狭しと並び、そのどれもが違う書体をしていた。
ソルフレアの
部屋の中を漂っているこの文字たちも、そんな膨大な記録のごく一部に過ぎない。百年以上を生き、本を読み漁ってきたソルフレアだが、それでも世界中の本を読み切るにはまだまだ時間が足りないと語る。未だ識字率が低いこの世界だが、それでも少しずつ本が増えていて、読み終わるより先に新たな本が生まれてしまうそうだ。
ソルフレアは
「今日の分の範囲だ。そこにある文字を書きとっていけ。」
そう言ってボードを指すと、ソルフレアはベッドの上に広げた資料に向かい始めた。
少女の勉強への情熱により、この一週間と少しで、ある程度の“読み”はできるようになっていた。言葉で意思疎通ができない少女に文字という共通認識を叩き込むのは容易ではない。逐一ソルフレアが確認しなければならなかったが、彼(彼女?)は嫌な顔一つせず、根気よく少女に付き合ってくれた。
まだまだ辞書は手放せないが、たくさんの本を読んでいけばいい、とソルフレアは語った。
次は“書き”だ。
現状の少女の手では、ペンを持つのは難しい。だから爪で書いている。歪んで上手く書けず、最初こそ心が折れそうになった。だがソルフレアが「こればかりは何度も繰り返し書かないと上手くなれない。それは人間の手でも同じだ。」と言うので、今日も必死に書きとりをするのだ。
頂点にあった太陽が傾きかけてきたところで、少女の練習は一段落した。
この作業は肩が凝る。肩凝りという感覚は初めてだから、最初は身体が悪化したのかと驚いたものだ。上を向いて首を回し、肩を上げ下げして溜息を吐く。それに呼応したようにソルフレアも両腕を上げて伸びをした。振り向いた黄金色の瞳と目が合うと、
「書き取りは終わったのか?」
小さく頷くと、賢者は少し考える素振りを見せた後、少女の傍らに置かれた辞書を手に取った。
「書き取りの成果を確認する。辞書も使用して会話をしよう。」
* * * * * *
※本編更新は水・日定期+書いた時に追加の最低週2回以上になります。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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