命題6.碧岩病 1
分厚い雲に覆われた空の
全身に白銀の鎧を
彼が抱える少女・イヴリルが持つランタンが大きく揺れる。細い腕を恋人の首に回し、白髪の髪ごと頭を埋めて小さく震えていた。
荒い呼吸が冬口の空気で白く色づき、後ろへ置き去りにしていく。
「ねぇ……アダムスは大丈夫よね?」
「口を開かないでください、舌を噛みます。」
震える声に警告し、勢いのまま斜面を駆け降りる。
恋人の言葉を
ずっと先、暗闇の奥に小さな灯りが目に入った。ブラウシルト達の目的地である。走る足に一層に力を込め、枝を踏みつぶし落ち葉を撒き散らして、身体を前へ前へと運ぶ。
森が途切れ、小さな洋館が現れる。灯りは二階の端の部屋だ。速度をそのままに、客人を歓迎するように開いたドアに駆け込んだ。館内に灯りは無い。ランタンの灯を頼りに分厚い絨毯を蹴り、正面の階段を数段飛ばしで昇る。
そのまま方向を変えると、暗い廊下の先で部屋から漏れた光が伸びていた。
勢いよく扉を開いたところで、ブラウシルトはやっと足を止めた。
室内の視線の全てがこちらに向けられる。
肩で息をする青年から転がり落ちるようにイヴリルが降りる。着地に失敗した少女は両手と両膝を着きながら這いずるように立ち上がり、部屋の中央に立つ男の腰に飛びついた。
「
フィルルと呼ばれた青年は鋭い左目に悲しみの色を浮かべ、イヴリルを見下ろした。
すらりと背筋が伸びた人間の身体に、狼の耳と尾、脚を持った、獣人らしき青年だ。紫がかった長く柔らかい銀髪が印象的だが、右目を覆う眼帯がその柔和さを打ち消している。だが、その声音には深い情愛が滲んでいた。
「連絡したとおりだ。ここ数日、アダムスの気配が感じられない。悪いがそれ以上は……僕にもわからない。」
少女の肩に手を置いて、青年は悔しそうに言葉を吐いた。
それから誰に向かってでもなく確認をする。
「アダムス以外はこれで全員だな。みんな揃うのは二十五年振りか。」
その言葉に、呼吸が落ち着いてきたブラウシルトが部屋を見回した。長テーブルとソファの置かれた、広々とした応接室だ。見知った顔が並んでいるが、一様に表情は暗い。
机の上の子狼と目が合った。隣に置かれた羽ペンと同程度の高さしかない、灰銀の毛並みを持つ彼は、一声吠えて二人を歓迎する。
「
野太く力強い声が部屋に響いた。深紅の帽子に深紅のインバネスコートの青年、ルヴァノスの手元からだ。扇状に開いた羽細工のうちの二枚が発光し、そこから声が聞こえてくる。
ブラウシルトは、目の前に立つ
最後の一人、
ルヴァノスが持つ羽細工と同じものを、ここにいる全員が所持している。
それを通じて「アダムスの気配が無くなった。」と連絡があったのは、二日前の夕方の事だ。以来、ブラウシルトはイヴリルを抱え、商人として活動する
「……
「自由気ままな彼ならともかく、アダムスはマメな性格だ。あの子がそういった状態にいるとは思えない。」
ブラウシルトが放った、あえて楽観的に見た言葉はすぐさま否定される。フィルルの言葉に頷くように、
「
黄金の賢者の男とも女とも付かない中性的な声に、イヴリルが肩を震わせた。
そんな少女の頭を撫でながら、フィルルは首を振る。
「それはない、壊れれば僕がわかるからね。でも、最悪の事態を考えて行動しよう。」
「誰か、アダムスの居場所に心当たりのある者は?」
ブラウシルトは首を傾げた。イヴリルも強張った表情で各々の顔を覗くが、誰もがお互いの顔を見合わせ、力なく首を振っていた。発光した羽細工から、
だからこそ、本人の連絡が無いと居場所が特定できないのだ。
数年前まではアダムスの弟子、エドアルド・ダールマンという人間の男と共に旅をしていた。だが現在、彼はエクセリシア帝国で良い人と出会い、身を固め定住している。もし彼がアダムスと同行していれば、手がかりができたかもしれないのに。
いや、とブラウシルトは思考を改めた。
「エドアルド――」
部屋中の視線が騎士の青年に集まる。
「エドアルドなら、もしかしたら何か連絡を取っているかもしれません。」
聞き終わる前に、ルヴァノスが羽細工の一枚を指で弾いて光らせる。エドアルド、と呼び掛けていると、眠たそうな男の声が聞こえてきた。
「ん……どうしました、ルヴァノスさん? こんな時間に何か急用でも――」
「アダムスの居場所を知りませんか?」
羽細工の向こうで息を呑む音がする。通話先の男は一瞬で睡魔を
「彼の気配が、ここ数日で無くなりました。一刻を争う事態も視野に入れています。居場所に心当たりがあれば、教えてほしいのです。」
「……そういえば、ここ数カ月は先生からの手紙もありませんでした。忙しいのもあって、何故か気にしていませんでしたが――」
「最後の手紙はいつの物だ?」
口を挟むフィルルに、エドアルドは「少しお待ちください。」と返事をする。引き出しを引く音と紙がの擦れる音が続き、集まった全員がそれに集中した。
「ありました。」と再びエドアルドの声が羽細工から聞こえだした。
「最後の手紙は四カ月前です。場所はカルネ村、ここを出るが行先はまだ決まっていないとあります。そうだ、だから連絡が無いのを気にしなかったんですよ。先生はめぼしい場所に着いたら手紙を送られていましたから。」
「では、そこからどこかへ移動したきり、というわけですね。南大陸の入り口ですか。移動しようとすれば他の大陸にも行けてしまう場所ですね。」
ルヴァノスが机から地図を出し広げて見せる。指さす場所は中央大陸のすぐ近くだ。中央大陸は他と比べて小さいが故に、時間を要さず北東西の大陸に移動する事もできる。灰銀の子狼が指示された場所を小さな鼻で嗅ぎ、お手上げと言わんばかりに力なく座り込んだ。
覗き込んだ全員が苦い顔をした。
「エドアルド。そこからアダムスが行きそうな場所に心当たりはないか?」
切迫したフィルルの声に、エドアルドは暫し思案する。
ブラウシルトも考えを巡らせたが、良い案が浮かばない。恋人のイヴリルに視線をやると、白銀の大きな瞳が震えていた。考え込んではいるようだが、
「…………
ポツリと、エドアルドが呟いた。
「ヘリオス王国を滅ぼした
その言葉に、ブラウシルトは納得した。
最終的には死に至るか、生き残っても変化の酷かった部分は再起不能か切除され、特に目まで回ってしまった場合は視力の回復は見込めない。
この病気は、南の大陸に位置するヘリオス王国で、春先から突如として流行した。異常なほどの感染の早さに治癒術師たちも成す
そんな状況だから、助けに行く治癒術師自体が少なかった。死にに行くようなものだから、入国すら止められた。
だが、魔法生物ゆえに疫病に罹患しないアダムスなら行くのではないだろうか。
「行くわ。」
イヴリルが断言した。
「あいつなら行くわ。一人でも多くの人を助けるために、もしくは少しでも苦痛を和らげて看取るために。きっと……いいえ、必ず行く。そこにアダムスはいるはずよ!」
確信を持って放たれる言葉に、各々が頷いた。
顎に手を当てて考え込んでいたルヴァノスが言う。
「商人たちの間の噂ですが、ヘリオス王国から逃げてきた人が、あまりに人がバタバタ死んでいくものだから気が狂ってしまった治癒術師がいる、と語ったそうです。さすがに誇張かと思って気にも留めていませんでしたが、結果を見るにもしかしたら……。確かその人は王都から逃げてきた、と。」
「ヘリオス王国なら一刻を争うわ。あそこは今、死霊で溢れかえっているの。」
ゆったりとした妖艶な女性の声が、緊張感を孕んで忠告をする。
死霊は現世にとどまり続けた魂が生命あるものに危害を加えるようになった存在だ。世界の理から外れた存在の彼らは、魔力の源・マナを乱し、魔族や魔術師など、魔力を多く有する者に対して強敵となる。
ましてや、魔法生物や身体のほとんどが魔力で構成されている。その脅威は魔族から見た時の比ではない。
「ブラウシルト、ルヴァノス、すぐにヘリオス王国へ向かい、アダムスを捜索してくれ。
「了承した、全力で大地を駆けよう。到着は明後日の昼頃だ。」
灰銀の子狼がその姿に似合わぬ威厳ある声で答え、テーブルを飛び降りる。
「ブロスケルも頼めるか?」
「いいよ、王都じゃよね? 儂の方が近いから先に行って探しとくよ。」
そう聞こえたきり、羽細工の光が一つ消えた。ルヴァノスが手短かに挨拶し、残り二つの光も消える。
狼王と呼ばれた子狼が、部屋の入口で急かすような視線を投げる。
「二人ともお願いね!」
甲高いイヴリルの声が飛ぶ。ブラウシルトは彼女の白銀の髪を撫で、その場を後にした。
両手を組んで祈るイヴリルの目からは、とうとう涙が零れ落ちていた。
* * * * * *
館を出ると、一層冷たくなった風がブラウシルトの頬を突き刺した。明け方が近い。青いマントがなびき、白銀の鎧を冷やしていく。
ブラウシルトは目の前の光景を注視した。
一足先に外に出た灰銀の子狼の周囲では濃密な霧が漂い、彼の者を取り巻いていく。大きな塊となって蠢く霧は、瞬く間に馬車ほどの大きさとなり、その鼻先から霧散していった。
灰銀の毛並みの巨大な狼が姿を現し、金色の瞳でこちらを睨みつけた。
「早くしろ、ランプ共。」
すかさずルヴァノスが地を蹴った。一瞬で彼の身体が血のように赤い煙に包まれ、飛び乗った時には本来の
至る所にナイフを取り付けた、長身痩躯の稜線がはっきりと浮かんだ黒い衣装に、ボロボロの深紅のマフラー。顔を隠すように黒いマスクで口元を覆っている。振り乱した金髪の隙間から覗く深紅の瞳が、ブラウシルトを急かす。
ブラウシルトが背中に乗った瞬間、
突き刺すような風が髪を後ろへ引っ張っていく。呼吸をする度に喉と肺が冷やされた。イヴリルを抱えここに走ってきた時とは比べ物にならない速さだ。猛スピードで通り過ぎる木々を横目に見ていると、その中にちらちらと白い物が混じっている事に気付く。
顔にも冷たいものがぶつかった。触れてみると、かすかな水気が指を滑る。
「雪……。」
「口を開かないで、舌を噛みますよ。」
ルヴァノスの忠告に青年は口を引き結び、両太ももで狼王の胴体にしがみついた。
もしかしたら、ランプが一つ消えるかもしれない。その不安と恐怖を消し去るように前を注視して、頭を空っぽにした。
* * * * * *
※本編更新は水・日定期+書いた時に追加の最低週2回以上になります。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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