命題5.蒼空の騎士 ブラウシルト 4
じっとりとした空気が少女の体毛を包み、湿気をはらんだ草の匂いが尖った鼻先をひくつかせた。
木々の隙間から差し込む光で、雨上がりで濡れた木の葉たちがチカチカと光る。その反射には、確かな生命力を感じる。
だが、ほんの少し横に目をやると、草花は
枯れ枝ばかりの森は見通しがよく、ずっと先まで見渡せた。
この向こう――北には泉がある。どろどろとした黒い呪いが、こうして精霊の森を蝕んでいる。
これは、元気になってきた少女の仕事の一つである。運動にも良いからと、何かと忙しいアダムスにお願いされたのだ。
白日の治癒術師・アダムスがこの精霊の森で治療院を開くために、精霊たちから課された条件は二つある。
一つは、この森に迷い込んだ者への対応。元の場所に帰したり治療したり、もし亡くなった場合は埋葬してあげている。
もう一つは、北の泉の呪いを解くことだ。
アダムスは条件を呑んだが、実際のところ、治癒術師の彼は呪いについては専門外なので、どうにもできないらしい。
だが蝕まれた森そのものの治療は、アダムスの得意とするところ。治癒術師の本領発揮である。
基本的に聖水を撒けばどうにかなるが、それでは回復が遅すぎる。精霊の森に降る雨だって、効果は弱くとも聖水に変わりない。そのため、アダムスが調合した薬を混ぜた特製の聖水を、こうして蝕まれた部分に撒いているのだ。
梅雨とカーバンクル達の看病で作業は止まっていたが、長雨で呪いの浸蝕は停滞している。
放置すれば浸蝕は進んでいくので、梅雨明けの今日からこの仕事を再開するに至ったのだ。
道なき道の中、
ブラウシルトが、大きな水瓶を
「こんな作業をずっと一人で続けているのですか。大変ですね。」
聖水を振りまく少女を見ながら、ブラウシルトは呟いた。
少女は首を振って、水瓶に杓子を入れる。
否定はしたが、確かに一人で作業するのは大変だ。片手に水桶、片手に杓子を持って移動し、特製の聖水が無くなったら道に戻り、台車で運んだ残り聖水を持ってもう一度元の場所まで歩いて――普段はこれを昼食の後から始め、お茶の時間になったら切り上げる。
北の泉を中心に広がる浸蝕部分をぐるりと一周するのに、二週間ほどかかる。これを延々と繰り返し、少しずつ範囲を狭めていくのだ。
この作業の着手は梅雨前の事だ。まだまだ範囲は広く、一人でやるには大変な作業ではあった。
だが、今日はブラウシルトがいる。アダムスとイヴリルがカーバンクル達の面倒を見て、ブラウシルトと
「あの……本当に今朝はすみませんでした。」
少女は杓子を振りながら、首を横に振った。
アダムス達は心配していたが、ブラウシルトの失言も、謎の診察室での行動も気にしていない。
むしろ、人手が増えて頼もしいと思っていた。
少女の顔色を伺うように、ブラウシルトが上体を屈める。
「あと、先ほどの事もどうか気にしないでください。手違いです。なんでもありません。」
「キュウ――。」
少女は先に進みながら、とりあえずうんうんと頷いた。
治療院で使う用の聖水汲みから帰ってきた時、あまりの騒がしさに診察室を覗くとアダムス、イヴリル、ブラウシルトの三人はもみくちゃになっていた。アダムスやイヴリルが涙を浮かべていたから、込み入った話だろうと思いすぐに立ち去ったのだ。
そしたら彼らは何か勘違いをしたらしい。アダムスが謎の弁明をしてきたが理解できなかったため、とりあえず頷いていた。
「……………………。」
「……………………。」
特に会話もなく、作業は進んでいく。
「俺は会話というのが苦手で……交渉とか、いつもイヴリルさんにお願いしているので……。」
元々、話す事ができない
彼が話すことと言えば、
「いいお天気ですね。」
「カーバンクル達、早く良くなるといいですね。」
「俺、こんなに喋るのは久しぶりです。いつも話そうとすると、誰かと被って言えなくなるので……。」
といったものばかりだ。話が広がらない。
アダムスやルヴァノスとは盛り上がるのだ。今更ながら、彼らが少女でも返答しやすい言葉を選んでくれていたのだと気付き、胸が温かくなった。
そんな事を思いながら水を撒いていると、青々とした木々の方から小動物の気配がした。
三匹の小柄なカーバンクルが、カサリと草を踏んで二人の前に躍り出た。
「あれ、着いてきてしまったんですね。貴方によく懐いているみたいだ。」
少女の足元にすり寄る彼らを見ながら、ブラウシルトが口元に笑みを浮かべた。
怪我が浅く、今朝もいち早くテントから飛び出していた子たちだ。まだ若い個体なのだろう、いつも元気いっぱいで、少女によく遊んでもらっている。だから久々に外に出た興奮と共に、珍しく遠出をする彼女を追ってきたのだろう。
少女は、周囲を飛び跳ねる彼らにかからないように聖水を撒いた。
カーバンクル達を杓子でじゃらしながら撒いていると、水瓶にあった聖水は間もなく空になった。
ブラウシルトのおかげだろう。仕事が早く済んだ上に、いつもの数倍は進むことができた。
少女は息を吐き、両腕を空に向けて伸びをする。釣られたカーバンクル達も、背中を逸らして伸びをした。ふるふると素早く首を回して長い耳を振り回す姿を、少女は目を細めて眺めた。
ふと、先ほどからずっと静かだったブラウシルトが、枯れた森を見ている事に気付いた。
いや、彼はその先を見ているようだった。
ブラウシルトはルヴァノスを
少女とほぼ同じ高さの目線で遠くを見つめる青い瞳は、まるで睨むように遠くを注視していた。
「……この先に、何があるかはご存じですか?」
唐突な質問に、答えを知らない少女は首を傾げることで返答とした。
少女は“呪い”としか聞いていない。アダムスでは、北の泉について詳細な調査ができないからだ。当然、ここに立ち寄った治癒術師のエドアルドや、商人のルヴァノスも同様だ。強いて言うなら、過去に幾度か子どもたちの声が聞こえた事があった。少女が知っている事と言えばそのくらいだが、伝える術がない。
騎士であるブラウシルトも、北の泉の正体はわからないだろうと思っていた。だが、御伽噺の王子様のような顔をひどく歪ませる彼には、思いいたる節があるようだった。
気になって彼の肩を叩くと、びくりと肩を震わせる。我に返り少女を見たブラウシルトは、それでもなお青い瞳を曇らせた。
「……少し気に当てられてました。先ほど、壊れかけたアダムスさんを助けに行った時の事を思い出していたので……。」
そう言葉を濁す青年は、はっと顔を上げて少女に取り繕った。
「思わせぶりな事を言いましたね。どうか気にしないで……いや、貴方もここに住んでるんですよね、アダムスさんと一緒に。だったら知っておいた方が……。」
途端、少女の表情が強張った。大きな口を引き結び、自然と眉根が寄る。
ぶつぶつと独り言を呟く青年の方をもう一度叩き、身を屈めて胸に手を当てて見せた。
ブラウシルトには意味が伝わったらしい。だが、逡巡しているのか彼女から逸らした視線を泳がせる。少女はダメ押しで半歩前に出て、渋い顔をする彼に迫った。
いや、恩返しだけではない。純粋に力になりたいのだ。彼が自身をぽんこつになったと評価する理由を知って、少しでも彼を支えることができれば、そう思っている。
上体を逸らした彼は、少女の熱意に
「……わかりました。絶対に誰にも言わないでくださいね。特に俺から聞いたなんて、ルヴァノスが知ったら俺が殺される。その代わり、アダムスさんを支えてください。彼は貴方と顔を合わせると元気になるみたいですから。」
そう言って、水瓶を肩に担いて踵を返す。
ブラウシルトの動きに気付き、各々遊んでいたカーバンクル達が彼の後に続いた。その後ろを、
「道に戻るまでの間、時間潰しにでも聞いてください。十年前、アダムスさんの身に何があったのか。」
ブラウシルトは声の調子を落とし、ゆっくりと語り始めた。
合成獣の少女は背筋を伸ばし、彼の背を追った。
命題5.蒼空の騎士 ブラウシルト ~完~
→次回 命題6.碧岩病
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