命題2.名もなき旅人 3
治療院は南向きで、とても日当たりが良い。
玄関を出た正面は、村祭りくらいなら余裕でできそうなほどに広く開け、陽光がたっぷりと降り注いでいる。
広場を先にはさらさらと流れる小川が横切り、しばしば精霊たちが集まっている。そこにかかった小さな橋と“人外専門治療院”の看板を下げた若い木を横目に通りすぎると、森の木々が地面に影を落とし、複数ある道のどれかに進むよう、葉音を立てて誘ってくる。
「まずは東南の方角ね。」
アダムスはそう言って、手に持った空の水桶を揺らしながら、向かって右から二番目の道へと進む。
同じく水桶を持った
山育ちの少女にとって、精霊の森は居心地が良い。手錠から垂れ下がる鎖が水桶とぶつかる音さえ、木々のざわめきに溶け込んでしまうほどに清々しい。
午前の爽やかな空気は、故郷の匂いと少し似ていた。
地面の起伏が少ないのにはまだ慣れないが、整えられた道は痛みに軋む身体に優しく、歩きやすくて助かっている。
道は途中で何度かに分岐しており、目的地までの順序を一回で覚えるのは、少し難しい気がした。分かれ道に差し掛かるたびに自信なさげな顔を浮かべる少女に対し、アダムスは、
「外にいるときは、精霊たちが見てくれてるから大丈夫だよ。」
と笑った。
それに応えるように、いくつかの小さな光の玉が少女の周囲を飛び回り、そのうちの一つが尖った鼻先に留まった。
暫く歩いていると、水の匂いが鼻をくすぐった。
森を抜けた時、少女は眼前に広がる光景に驚き、思わずため息をついた。
そこには、見たことがないほど大きな大きな水溜まりが広がっていた。
向こう側がやっと見えるほどの、巨大な水溜まりだ。風で少し水面が揺れて、太陽がキラキラときらめいている。向こう側に立つ木々が小さく見えて、その距離を物語っている。
大量の水を前に、少女は呆気にとられた。うっかり、尖った口先が開いてしまう。そんな彼女の鼻先に留まっていた精霊がふわりと飛び立ち、さっさと自分の作業に移るアダムスの目の前を横切っていく。
「あぁ、もしかして湖を見るのは初めて?」
アダムスは表情を緩めた。
「大きな湖でしょ? 舟を持ってきて楽しむことこともできそうだよね。これ、ぜーんぶ聖水なんだ。」
おもむろに汲み上げた水をどすん、と置いて、少女の水桶を預かる。
「聖水っていうのは、魔力の元になるマナがいっぱい含まれている水のことなんだ。
聖水がいっぱいに入った水桶を少女に返し、
「だから、毎日汲んで常にある程度置いておきたいんだ。大変かもしれないけど、身体を動かすのは良いことだから手伝ってくれると嬉しいよ。」
少年のお願いに対し、
どうも人間の時より
治療院に戻って聖水を置くと、アダムスは次に台車を押してきた。
両腕で抱えるほどの大きさの、陶器製の植木鉢と小さなスコップが乗っている。
そのまま、今度は中央の道を進み、森の途中で止まる。
こんなところで何をするんだろう、と少女が思っていると、アダムスがスコップと植木鉢を持って、草木を掻き分けていった。
「待合室に何もないから、ここに生えてるアロエを少し持って帰ろうかなって思ってさ。」
少年についていくと、地面からはツンツンと尖った肉厚の植物が生えていた。初めて見るが、草と呼ぶには高さがあるし、小さなトゲがたくさん付いている。茎なのか葉なのか判断しかねるが、とても興味が惹かれた。
試しに爪先でつんつんと触ってみると、肉厚ゆえかしっかりとした手ごたえを感じる。
「火傷や切り傷なんかに有効な薬草なんだ。独特な見た目だしお世話するのも簡単だから、観葉植物にちょうどいいかなと思って。見つけたのは偶然なんだけどね。」
そう言って、手早く
「こういう、部屋になに飾ろうかなーって考えるのも楽しいよね! 君も何か飾りたいものがあったら遠慮なく教えてね。」
満足げな顔で台車を押すアダムスに向かって、少女はこくりと頷いた。
とはいえ、何か飾りたいものと言われてもすぐには思いつかない。花を、と思ったが、実は今朝、待合室のカウンターに空の花瓶が置いてあるのを見かけたのだ。既にアダムスは花を飾る気満々だ。真新しい案とはいえない。
あれこれと考えていると、周囲に精霊たちが集まってきた。どんどん数を増やす光の玉に戸惑っていると、唐突にアダムスが足を止めた。
精霊たちの声を聞いているようだが、ご機嫌だった表情がどんどん曇っていく。
「……ちょっと用事ができたみたいだ。早く戻ろう。」
急ぎ足になる少年の様子に首を傾げながら、少女は置いていかれまいと後に続いた。
* * * * * *
台車を置いてまた森に入る。精霊たちに案内された場所は、ちょっとした空き地のようになっていた。
真上にきた太陽が、青々と茂る草花を照らしている。
さあっと通り過ぎる春風の向こうで、木陰に座り込む一つの人影が目に留まった。
アダムスが、人影にゆっくりと近付いていく。知らない人の姿に、少女は後に続くか逡巡し、やっぱり付いていこうとして、はたと足を止めた。
人影に、強烈な違和感を覚えたのだ。
その間にも、少年は歩を進める。普通、こんな人気のない場所で誰かが近寄って来たら、振り向くなりの反応を示すはずなのに、その人影はぴくりとも動かない。
アダムスが人影の隣にしゃがみ込んで、顔を覗き込んでいる。
失礼とは思いつつ、大回りしながら人影の正面へ行き、距離を開けて様子を伺った。
そして、少女は息を呑んだ。
人影は、茶色いボロのマントを着けた、薄汚れた男性だった。少しの荷物を持っただけのその男は、尋常でないほど真っ白い顔をしていた。口をだらしなく開けて、薄目のまま微動だにしない。
「亡くなってから、少し時間が経ってるね。」
男の頬に触れながら、少年が呟いた。
少女は思わず口を引き結んだ。故郷から少し離れた小さな村では、たまに人が亡くなってはいた。だが、直接死体を見るのは初めてだった。
男のぼさぼさの髪とマントは風で揺れているのに、身体は一切の生気なく、ただ不動のままそこにある。
「僕が気付いていれば、助けてあげられたかもしれないのに。ごめんね。」
そう男だったものに語り掛けた後、少女に向き直った。
「彼は旅人さんだね。多分、昨晩辺りにここに迷い込んで、そのまま力尽きちゃったんだろうな。」
旅人、という言葉に、少女の尖った耳がぴくりと跳ねた。ずっと考えていた、エドアルドの言葉が脳裏をよぎる。
――人生は旅のようなもの。
旅の果てが、その最後が、こんな姿で一人寂しく死ぬことなのだろうか。
もう一度、男の顔を見る。不自然なまま固まった表情が、音もなく迫ってくるような錯覚がした。見えざる手が、少女を逃がすまいと何本も伸びてくるような恐怖に背筋が凍る。
「この森に迷い込んだ人を送り返すこと、そして運悪くそのまま亡くなってしまった人を埋葬するのも、精霊たちから頼まれた僕の仕事なんだ。荷車を持ってくるから、君はここで待ってて。」
すかさず踵を返す少年の後を追う。
付いてくる少女に対し、
「ずっと歩き続けで疲れたでしょ? すぐ戻ってくるし、ここで休んでていいよ。」
と言うアダムスに向かって、ぶんぶんと首を振った。
「無理しないでね。」と言う少年にぴったりとくっついて、少女はそそくさとその場を立ち去った。
あの男には悪いが、このまま二人きりになるなんて到底無理な話だった。
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