第92話 そうして、俺たちは後戻りできなくなる

 舞衣まいを見送った後、俺も学校へ行くために家を出る。

 そうして、いつものように歩き出す。

 しばらく歩いた後、俺はふと立ち止まる。


「あ、そういえば……」


 その時、俺は気づいた。


 ――自分の足が、自然と愛美あいみの家に向かっている。


 俺の口から、渇いた笑いが漏れた。


「はは……。あいつとはもう、別れたのにな」


 そう。俺は、太陽たいよう愛美あいみと別れたのだ。

 だから、彼女と一緒に登校する義理は、もうどこにもない。

 愛美の家には寄らず、そのまま学校へ向かえばいいのだ。

 その、はずなのに……。


 愛美の家へ向かう俺の足は、方向を変えようとはしなかった。


 愛美のいない朝が、彼女と会えない朝が、こんなにも悲しいなんて。

 俺はいつの間に、こんなにも弱い人間になっちまったんだ?

 ぼっちでも平気だったあの頃の俺は、どこへ行っちまったんだ?

 いつの間にか俺にとって、愛美と共に登校する朝が、当たり前になっていた。

 その当たり前を失ってしまったことが、妙に寂しく感じた。


「通り過ぎるだけだ」


 俺は一人、周りに誰かがいるわけでもないのに、ぶつぶつと呟く。


「俺は、愛美の家に行くのが癖になってしまっていて。だからその癖が抜けなくて、愛美の家を通り過ぎてしまうだけの話だ」


 誰に咎められるわけでもないのに、言い訳するようにそう言って、俺は彼女の家へ向かうのだった。


 ◇◇◇


 俺は愛美の家の前までやってきた。すると、


「「あ……」」


 二人の声が、重なった。

 俺が愛美の家に来たタイミングで、丁度、愛美も家から出てきたのだ。

 最悪だ……。

 どうして今日に限って、こんなにもタイミングばっちりなんだよ。

 普段なら、俺が数分待つことになるのに。


「は、はや……」


 愛美が驚いたように目を見開いて、俺を見る。

 しかし、すぐに気まずそうに俯いてしまう。


「………………」

「………………」


 一生にも思えるほど長い沈黙が、俺たちを襲う。

 お互い気まずくて、声が出ない。


「ど……」


 愛美の漏らした声が、空気を震わせる。


「どうして……」


 短い言葉だったけど、彼女が何を言いたいのかは、理解できた。

 どうしてここに来たのか。

 彼女はそう、訊きたいのだろう。


「間違えたんだ」


 俺は、先ほども自分にした言い訳を、愛美に伝える。


「なんか、癖になっててさ。ここに来るの。もう来なくていいんだって、ここに着いてから気づいた」

「やめてよ……」


 悲しげに、愛美は言う。


「そうやって、勘違いするようなことするの、やめてよ……」

「悪かったよ。じゃあ、俺もう行くから」


 そう言って俺は、歩き出そうとする。

 けれど、どうしてなのだろう。

 俺の足は、立ち止まったまま、動いてくれなかった。

 くそ……。今日の俺の足は、思い通りに動いてくれない。


「……行かないの?」

「く……」


 そのまま俺は、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 何かを探るように、言葉を交わす。


「愛美が、先に行けよ……」

「う……、それは、ちょっと……」

「なんでだよ?」

「なんと、なく……」


 このままここに立ち止まっていたら、お互い遅刻してしまう。

 妥協するように、俺は一つ提案してみる。


「よく考えたらさ、別に俺たちって、付き合う前から一緒に登校してたよな?」

「うん……」

「だったら、別れた今も、別々に登校する必要ないんじゃねえの?」

「付き合う前と、別れた後じゃ、気持ちが違い過ぎるよ……」

「なら、愛美が先に行ってくれ。俺は、どうにも足の調子が悪い」

「……ずるいよ、そんなの。私に選択をゆだねるなんて」

「選択を委ねた? それは違うだろ。俺は、一緒に登校してもいいんじゃないかと言ってる。後は、愛美次第だろ」

「何その上から目線。ムカつく……」

「ムカつくなら、先行けよ」


 会話も、足も進まず、時間だけが過ぎていく。


「私より、元カノが好きなくせに……。未練がましい態度して、最低」

「俺はお前が好きだって言ったよな?」

「でも、一番じゃないんでしょ?」

「そんなこといつ言ったんだよ?」

「言わなくてもわかるもん」

「く、お前に俺の何がわかんだよ!」


 俺は声を張り上げる。

 対抗するように、愛美も声を上げる。


「わかるよ! 誰よりも君を見て来たんだもん!」

「はぁ? お前は所詮、学校での俺しか知らないだろ!」

「でもわかるもん! 君が、私を好きでないことくらい!」

「好きだって何回も言っただろうが!」

「一番好きとは一度も言われてない!」

「それでなんで元カノが好きって話になるんだよ! ふざけんな!」

「じゃあ嫌いなの? 華咲はなさき美優みゆさんのこと嫌いなの?」

「嫌いじゃねえよ!」

「ほらやっぱり!」

「元カノと自分を比べてんじゃねえよ面倒くせえな!」

「私は! 一番がいいの!!」


 ヒートアップしていく、俺と愛美の言い合い。

 喧嘩をしてしまった、いつかのようだった。


「一番にこだわりすぎなんだよ、お前は!」

「恋人として当然のことでしょ!?」

「愛が重いんだよ!」

「重くちゃダメなの!? 私は、軽い愛の方が嫌だけど!」

「そういう極端な話をしてるんじゃないんだよ! 俺はお前が好きだって言ってんだから、それでいいだろって話をしてるんだよ!」

「だから、それは紛い物でしかないでしょ!?」

「紛い物じゃねえよ! それこそ俺に失礼だ!」

「じゃあ、一度でもいいから、一番好きだって言ってよ!!」

「ああ、もう……!」


 イライラしてしまって、俺はまた、同じ過ちを繰り返す。


「――こんなことなら、元カノの方が断然良かったかもな!!」


 ピキン。

 何かが壊れる音がした。

 勢い任せで放った俺の言葉が、修復できたかもしれない何かを、完全に壊してしまった気がした。

 愛美の顔を見ると、彼女は目を赤く腫らして、目尻から涙をこぼした。


「そんなの……一番言っちゃダメでしょ……」


 鼻をすすって、嗚咽を漏らして、彼女は泣き出す。


「ひぐ……。最低、最低! うう……もう無理だよ。私はただ、一番好きだって言ってほしいだけなのに……」


 ああ、またやっちまった。

 成長してねえな、俺。


「もう、隼太君なんて……隼太君なんて……」


 指で涙を拭って、鼻やら目やらを赤くしたまま、彼女は告げる。


「――もう絶交だよ!! バカ!!」


 そのまま、愛美は走り出して行ってしまった。

 呆然と、俺はその場で立ち尽くす。

 俺の目から、一滴の水が零れ落ちた。


「絶交……」


 いいよな、女は。

 感情のままに泣いて、泣き終わった後はすっきりできるんだから。


 俺は、泣きわめく事すら、満足にできねえよ。

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