第66.5話 僕の記憶

黒崎くろさき洋介ようすけ


「おとーさん! 起きてー!」


 それは、過去の記憶だ。

 僕が小学校に入学したばかりの頃。

 ある日の日曜日。


「はーやーくー! おーきーてー!」


 疲れて寝ていた父さんの体を、僕は何度も揺する。


「んん……。もう、朝か……」


 目をこすりながら、父さんは目を覚ます。

 父さんが仕事で疲れているというのは、当時の僕にもなんとなくわかっていた。それでも僕は、父さんを無理やり起こした。

 それは、その日が特別な日だったからに他ならない。


「今日はー、一日僕と一緒に出かけるって約束だったでしょー!」


 父さんは体を起こすと、僕の頭をよしよしと撫でる。


「わかってるわかってる。それじゃあ、朝ご飯食べたら出かけるか」

「うん!」


 僕は無邪気に笑っていた。

 その日は、久々に父さんと二人でお出かけをする日だった。

 一ヶ月も前から、約束していた事だ。

 僕は、今日をとても楽しみにしていた。

 仕事が忙しい父さんは、休みが少なく、帰りも夜遅い。

 だから、僕と父さんが一緒に出かけることは滅多になかった。

 今日は、父さんが久々に一日フリーな日だった。

 今日は父さんと遊び倒すって、決めていた。


 朝食を摂り、お出かけの準備も整った。


「ねえねえ、どこ行くのー?」


 僕は父さんにしがみついて、猫撫で声でそう訊く。


「そうだなー。動物園でも行くか」

「いくー!」


 僕ははしゃいだ。

 どこへ行くか、なんてきっとどうでも良かった。

 大事なのは、父さんと出かける事だった。

 ――それなのに。


 唐突に、父さんの携帯から無機質な音が鳴り響いた。


 それは、地獄を告げる着信音。


「あ、ちょっと待ってな洋介。電話だ」

「うん!」


 何も知らない僕は、笑顔で頷いて、父さんが電話を終えるのを待った。


「え……。今日……ですか……? ですが今日は……。……はい。………………。……はい、わかりました」


 父さんが電話を終えて、僕の元へやってくる。

 父さんは申し訳なさそうな顔をしながら、僕に切り出した。


「……すまない、洋介。父さん、急に仕事が入った」

「え…………」


 絶望。

 楽しみにしていた今日の予定が、全て崩れ去る瞬間だった。


「休めないの……?」


 わずかな希望に縋るように、僕は父さんに訊く。

 父さんは首を横に振った。


「……ごめんな」


 僕は子供ながらに、理解していた。

 ――仕事なら仕方ないと、どこかで諦めていた。


「今度、絶対行くから」


 父さんはそう言った。

 僕は、


「今度って……いつ……?」

「早くても一か月後……とかになると思う」


 僕から目を逸らして、父さんはそう告げた。


「そっか……。一ヶ月か……」


 父さんは、忙しい。

 だから、僕と遊べる時間なんてほとんどない。

 その日だって、一ヶ月ぶりのお出かけだった。

 でも、待たされるのは、慣れてる。

 辛いけど、父さんに迷惑をかけたくない。

 当時の僕は、そんなマセたことを、考えていたと思う。

 わかっているふりを、していたと思う。


「じゃあ、次は絶対ね!」


 愛想笑いを浮かべて、僕は父さんを安心させるようにそう言った。


「ああ、約束だ」

「うん! じゃあ、指切りしよ!」

「ああ」


 僕と父さんは指切りをして、一ヶ月後に必ず出かけることを誓った。


「ごめんな、洋介。父さん、ちょっと着替えてくるよ」

「うん……」


 僕が頷くと、父さんはスーツに着替えるために僕から離れていく。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ……なんで、素直に頷いてるんだよ!

 うん、じゃねえよ! もっと足掻けよ!

 もっと子供らしく泣き叫べよ!

 今日は仕事をサボれって言えよ! 約束破るなって怒れよ!

 この一ヶ月、この日をどれだけ楽しみにしたと思ってる!

 仕事なんていつでもできるだろ! 僕と父さんの時間は今日しかない! それを奪うな! 簡単に受け入れるな!

 泣け! 泣け! 泣け!

 そして叫べ!

 そんな仕事やめちまえって怒鳴れ!

 何大人ぶってんだよ僕! お前はまだ、小学一年のガキだろ!

 もっと、父さんに甘えろよ!


 だけど、当時の僕は泣かなかった。

 全てを、受け入れていた。

 スーツに着替えた父さんを、僕は見送った。

 笑顔を崩さず、見送っていた。


 後一ヶ月だ。

 一ヶ月待てばいいだけだ。

 大丈夫。待つのは慣れてる。


 ――その数週間後、僕の父さんは過労で死んだ。


 約束が果たされることはなかった。


 ◇◇◇


 目覚めた。

 スマホを手に取って、今日の日付を確認する。

 六月十八日。日曜日。

 六月の第三週の日曜日。


「……ああ、今日は父の日か」


 寝起きの声で、僕は呟く。

 父の日だから、あんな夢を見てしまったのかもしれない。

 右手で自分の頬を触る。

 涙を流した様子はない。


「……大丈夫だ。慣れてる」


 大切な人がいなくなることには、慣れてる。

 物心つく前から母さんはいなかったし、親族もいなかった。

 父さんが孤独だったことも、知ってる。

 生まれたばかりの僕を育てるために、父さんは仕事を辞めざるを得なくなって、転職した後は仕事が大変だったことも理解している。

 育児の悩みを他人に相談することも、恐らく満足にできていなかったのだろう。

 だけどそれを、父さんは僕に悟らせなかった。

 それだけでも、あの人はよくやっていたと思う。

 だから、僕は父さんを責めたりしないし、責めさせない。


「はあ……」


 深いため息が漏れた。

 大切な人はいつかいなくなるって、僕は知ってる。その時の辛さも、知っている。

 ――だから、さ。


「お前もいつかいなくなるんだろ、影谷かげたに


 君は僕を見捨てないと言った。

 僕みたいなやつと友達になってくれた。

 でも、君はきっと、僕よりも太陽たいようさんを優先するだろ?

 いつかまた、僕は孤独に戻る日が来る。

 その日をずっと、恐れている。

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