第66.5話 僕の記憶
◇
「おとーさん! 起きてー!」
それは、過去の記憶だ。
僕が小学校に入学したばかりの頃。
ある日の日曜日。
「はーやーくー! おーきーてー!」
疲れて寝ていた父さんの体を、僕は何度も揺する。
「んん……。もう、朝か……」
目をこすりながら、父さんは目を覚ます。
父さんが仕事で疲れているというのは、当時の僕にもなんとなくわかっていた。それでも僕は、父さんを無理やり起こした。
それは、その日が特別な日だったからに他ならない。
「今日はー、一日僕と一緒に出かけるって約束だったでしょー!」
父さんは体を起こすと、僕の頭をよしよしと撫でる。
「わかってるわかってる。それじゃあ、朝ご飯食べたら出かけるか」
「うん!」
僕は無邪気に笑っていた。
その日は、久々に父さんと二人でお出かけをする日だった。
一ヶ月も前から、約束していた事だ。
僕は、今日をとても楽しみにしていた。
仕事が忙しい父さんは、休みが少なく、帰りも夜遅い。
だから、僕と父さんが一緒に出かけることは滅多になかった。
今日は、父さんが久々に一日フリーな日だった。
今日は父さんと遊び倒すって、決めていた。
朝食を摂り、お出かけの準備も整った。
「ねえねえ、どこ行くのー?」
僕は父さんにしがみついて、猫撫で声でそう訊く。
「そうだなー。動物園でも行くか」
「いくー!」
僕ははしゃいだ。
どこへ行くか、なんてきっとどうでも良かった。
大事なのは、父さんと出かける事だった。
――それなのに。
唐突に、父さんの携帯から無機質な音が鳴り響いた。
それは、地獄を告げる着信音。
「あ、ちょっと待ってな洋介。電話だ」
「うん!」
何も知らない僕は、笑顔で頷いて、父さんが電話を終えるのを待った。
「え……。今日……ですか……? ですが今日は……。……はい。………………。……はい、わかりました」
父さんが電話を終えて、僕の元へやってくる。
父さんは申し訳なさそうな顔をしながら、僕に切り出した。
「……すまない、洋介。父さん、急に仕事が入った」
「え…………」
絶望。
楽しみにしていた今日の予定が、全て崩れ去る瞬間だった。
「休めないの……?」
わずかな希望に縋るように、僕は父さんに訊く。
父さんは首を横に振った。
「……ごめんな」
僕は子供ながらに、理解していた。
――仕事なら仕方ないと、どこかで諦めていた。
「今度、絶対行くから」
父さんはそう言った。
僕は、
「今度って……いつ……?」
「早くても一か月後……とかになると思う」
僕から目を逸らして、父さんはそう告げた。
「そっか……。一ヶ月か……」
父さんは、忙しい。
だから、僕と遊べる時間なんてほとんどない。
その日だって、一ヶ月ぶりのお出かけだった。
でも、待たされるのは、慣れてる。
辛いけど、父さんに迷惑をかけたくない。
当時の僕は、そんなマセたことを、考えていたと思う。
わかっているふりを、していたと思う。
「じゃあ、次は絶対ね!」
愛想笑いを浮かべて、僕は父さんを安心させるようにそう言った。
「ああ、約束だ」
「うん! じゃあ、指切りしよ!」
「ああ」
僕と父さんは指切りをして、一ヶ月後に必ず出かけることを誓った。
「ごめんな、洋介。父さん、ちょっと着替えてくるよ」
「うん……」
僕が頷くと、父さんはスーツに着替えるために僕から離れていく。
……………………。
………………。
…………。
……なんで、素直に頷いてるんだよ!
うん、じゃねえよ! もっと足掻けよ!
もっと子供らしく泣き叫べよ!
今日は仕事をサボれって言えよ! 約束破るなって怒れよ!
この一ヶ月、この日をどれだけ楽しみにしたと思ってる!
仕事なんていつでもできるだろ! 僕と父さんの時間は今日しかない! それを奪うな! 簡単に受け入れるな!
泣け! 泣け! 泣け!
そして叫べ!
そんな仕事やめちまえって怒鳴れ!
何大人ぶってんだよ僕! お前はまだ、小学一年のガキだろ!
もっと、父さんに甘えろよ!
だけど、当時の僕は泣かなかった。
全てを、受け入れていた。
スーツに着替えた父さんを、僕は見送った。
笑顔を崩さず、見送っていた。
後一ヶ月だ。
一ヶ月待てばいいだけだ。
大丈夫。待つのは慣れてる。
――その数週間後、僕の父さんは過労で死んだ。
約束が果たされることはなかった。
◇◇◇
目覚めた。
スマホを手に取って、今日の日付を確認する。
六月十八日。日曜日。
六月の第三週の日曜日。
「……ああ、今日は父の日か」
寝起きの声で、僕は呟く。
父の日だから、あんな夢を見てしまったのかもしれない。
右手で自分の頬を触る。
涙を流した様子はない。
「……大丈夫だ。慣れてる」
大切な人がいなくなることには、慣れてる。
物心つく前から母さんはいなかったし、親族もいなかった。
父さんが孤独だったことも、知ってる。
生まれたばかりの僕を育てるために、父さんは仕事を辞めざるを得なくなって、転職した後は仕事が大変だったことも理解している。
育児の悩みを他人に相談することも、恐らく満足にできていなかったのだろう。
だけどそれを、父さんは僕に悟らせなかった。
それだけでも、あの人はよくやっていたと思う。
だから、僕は父さんを責めたりしないし、責めさせない。
「はあ……」
深いため息が漏れた。
大切な人はいつかいなくなるって、僕は知ってる。その時の辛さも、知っている。
――だから、さ。
「お前もいつかいなくなるんだろ、
君は僕を見捨てないと言った。
僕みたいなやつと友達になってくれた。
でも、君はきっと、僕よりも
いつかまた、僕は孤独に戻る日が来る。
その日をずっと、恐れている。
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