魔女裁判とランドセル
森亞ニキ
第1話
──あぁ、どうか否定しないで。
あなたの真実はあなたのもの。全ての人間は、自分の中に真実を持っている。人間の数だけ真実がある。たとえ、あなた以外の人間、世界中の全員が否定したって、あなたさえ否定して殺さなければ、あなたの真実は、紛れもない真実。
そしてあたしは。あなたのその真実を信じて守り通す。そういう仕事だと思うの──。
──『彼女が依頼人Bに宛てるはずだった手紙より、抜粋』──
メイクは楽しくも面倒だ。
まず顔があって、次に下地を広げる。ベースができたら、後はフェイスパウダーをつけて頬骨にチークをちょんと乗せる。睫の間を埋めるようにアイラインを黒く濃く引いて、ほんの一息つく。
この一息を境にして、ほんの少しこだわりが加わる。まるで蝶々のように重なったダイソーのつけまつげに接着剤を塗って、二秒待ってからアイラインのリードにしたがって右目につけまつげをセット。目頭と目じりを抑えながら三秒待つ。左目も同じようにしてから、マスカラで自分の睫毛と繋いでやる。
これで完成だ。この過程を経て鏡に映っていた三十手前の冴えない男は、今やぱっちりした目の可愛らしい女性の顔になっていた。彼女がよく言っていたように、つけまつげはダイソーのものがベストだ。あれこれ試してみたが、接着剤が違うのだ。くっつけた傍から離れてしまう接着剤なんてなんの意味もない。吸い付くような、若干の引きつりを感じるくらい強力な接着剤で、値段も手ごろなんて素晴らしい。
ただし、この接着剤でもくっつけられないものは当然ある。彼女が私にくれたマグカップも、先日、手から滑って粉々にわれてしまった。カケラの一つでも捨てるのが惜しくて今も流しの隅に包んでおいてある。何故もっと大切に扱えなかったのか……もう嘆いていても仕方ない。あとは、私が彼女のプレゼントと決別するための時間が必要なだけだ。カサついた唇にリップクリームを塗っていると、電話が鳴った。
「はい、早乙女法律事務所です」
「おはようございます早乙女さん、弁護士派遣委員です。いやはや今日もいい天気ですね」
電話の相手は、私が仕事の斡旋を受けている派遣委員だった。雲一つない空ですね、と私も返す。
「もう本当に、綺麗な秋晴れで。あ。それでですね、今日は確認のためにお電話させていただきました。今回の依頼人の裁判の日程は明日です。昨日斡旋して調書を届けたばかりですが、準備に今日一日あれば、早乙女さんなら大丈夫ですよね?」
ちょうど良かった。今日、これからその依頼人に会いに行こうと思っていたのだ。その旨を伝えると、派遣委員はよろしくお願いしますと電話を切った。私は胸元で煌く弁護士バッチがついたスーツに袖を通す。
──そう。私、早乙女フユキは弁護士である。
人口と犯罪者の急激な増加により、法廷は変化していった。検察側が起訴した被告人の裁判は、一週間以内とされている。その起訴自体、逮捕から最短で半日程なのだ。老若男女一切の区別をされず、幼児から老人まで、判決の結果が有罪となると犯した罪に応じた償いをするのだ。目には目を、窃盗には押収を……殺人には死刑を。
裁判までの期間が短いことに加え、数多くの依頼人たちの人生を握る弁護士は多忙だ。弁護士の数は、依頼人たちに対して絶対的に足りていない。被告人に選任させると、スケジュールが重なってしまうこともある。だから弁護士は依頼されてかつ弁護が請負える場合を除いて、全てが派遣制になった。派遣委員側がスケジュールの空きを見て、一番早く仕事に取り掛かれる弁護士に依頼を斡旋し、効率よく裁判をしているのが現状だ。さらに裁判所の数にも限界があり、法廷の数は限られているため、今回のケースのように裁判の二日前に仕事の斡旋が……なんてことはよくあることなのだ。
おそらく、この国の現状にこの制度が一番マッチしていると誰もが思っているから、誰も文句は言わない。依頼人側が言えないのはもちろんのこと、弁護士側も、多忙でも仕事を効率よく受けてこなせばそれに見合う報酬は得られるからだ。裁判までの最高一週間以内に情報を掻き集め(最近はその武器となる情報や証拠さえ、派遣委員から送られる依頼人の調書だけで済ます弁護士も多い。あとは法廷で証人や検察側から引き出す)、法廷で戦うスタイルは、既にこの国では定番となっていた。
依頼人が待つ留置所の前でタクシーから降りて、私はヒールを鳴らして足を進めた。見知った顔の警察官は軽く会釈をしてくれるが、あとの者は大抵驚いて一瞬足を止めるので、私は優雅に笑ってやる。すると、とたんに顔を青くして足早に去っていく……私はもう、こんなことは気にしていない。他人にはただのヘンタイにしか見えなくとも、私には女装は大切な意味があるのだ。そうでなければ、少々キツイ女性物のパンツスーツの上にメイクバッチリの顔とセミロングのウィッグを誰が乗せるか。
今回の依頼人は最短起訴コースだ。事件があったのは二日前。事件当日の夕方に逮捕され、半日後、つまり昨日の朝には起訴されて、その日のうちに私の元に依頼の電話と、速達で供述調書が届いた。私は、裁判の二日前に弁護の依頼が斡旋されることは何度か経験したものの、事件発生から二日で裁判を受けるという依頼人は初めてだった。
受付で弁護士バッチを見せながら自己紹介と依頼人の名前を告げると、慣れた対応で案内をしてくれた。気合入ってるなという言葉に、そうだなと男言葉で笑みを返す。そうして案内された先の部屋に、今回の依頼人はいた。
*
「あなたが、ぼくの弁護士さん?」
強化ガラスの向こうから上目遣いに見つめてくるのは、まるで指人形のように、本当に小さな子供だった。ふわふわした黒髪が猫顔の小さな輪郭を飾っている。青い目も子供というより赤子のように澄んでいて、白いシャツがよく似合う。何より印象深いのは、頭に飾られた花輪。服装とあいまって、どこか森の妖精のようにすら思えた。
「そうです。早乙女フユキと言います」
小さな差し入れ口から名刺を渡す。子供は名刺を受け取ると、すぐにサイドテーブルに置く。今回のような子供の依頼を受けるのも、もう慣れたことだ。今は小さな子供だって罪を犯す。少年法も廃止されたため実名での報道もある。ただし連日の事件の多さから、一面にでかでかと載ることは少ないが。
「初めまして。ぼくは魔女野マコと申します」
名前は調書にもあり、派遣委員からも聞いているが、挨拶は大切だ。マコは椅子からおりて会釈をしてくれたようだが、小さすぎて私にはよく見えなかった。警察はずいぶんと高い椅子を用意してくれたようだ。再びその椅子に座って、マコは短パンから伸びる膝にきっちりと手を置いた。私は子供に対してのフランクな口調に切り替えてたずねる。
「ねえマコちゃん、君のことを教えてくれないかな。安心して、私は君の味方で、君の無罪を勝ち取ってみせる。……君を信じてるから、どうか嘘はつかないで欲しい。裁判で不利になっちゃうからね」
「派遣委員さんから聞いていませんか? あちらがお話をしてくれるものかと思っていましたが」
「調書は貰ってる。でも君の口から聞きたいんだ。情報は多いほうが嬉しいし、会話をして信用してほしいっていうのもあるよ」
「そうですか。では、何から話せばいいですか」
君の犯した罪について、と訊ねようとして、私はと口ごもる。この子は、何故ここまで落ち着き払っているのだろう。大抵、子供は罪の自責に泣き叫んだり、自分は無実だと暴れる。今回は、始めは緊張するあまり、私に対して余裕を見せようとしているのかと思ったが……どうやらそれも違うようだ。マコの隣の小さなサイドテーブルには今、私が渡した名刺の他に、カップやポット、お菓子などが並んでいる。ガラスの向こうで平然としているマコを見ると、まるで、私がお茶会に私が招かれているだけのような錯覚すら覚える。それほどまでに、マコは自然体に見えた。
しかし、マコの罪は軽いものではない──殺人である。それも、自分の祖父を、だ。
「まずは家族について教えてほしいな」
「家族はもう誰もいませんよ」
マコの言葉に相槌を打ちながら、私は手元の調書を広げ、情報を確認する。
──魔女野マコ。十一歳。数々の大企業を起こした富豪、魔女野慶治の孫。母親はロシア人で、長男で跡継ぎ候補だった父親と駆け落ち。一族から勘当扱いにされるも、両親の事故死により、赤子だったマコだけが一族に戻ってきた。数多い親戚一同の手には渡らず、慶治の手によって育てられる。慶治から英才教育を施され、厳しいながらも愛されていたようだ。豪邸の本家に二人と数名の使用人だけで生活していたらしい。祖父の意思で学校には行っていない。勉強やその他の学習活動は前記した通り、祖父や家庭教師から施されていた。
事件当日は魔女野慶治の八十二回目の誕生日で、親戚一同が祝いに集っていた。慶治は昼前から自室で休んでいたが昼食に現れず、返答もない。不審に思った親族が自室のドアを蹴破ると、ナイフで胸を刺されて刺殺された慶治がいた。現場には、彼が絶命する前に書き残したと思われる『マコ』の血文字が残っていた。一方、マコは自室で眠っていたのだが、ベッドの下から慶治の血のついたシャツ、手袋が見つかる。このことから警察はマコを逮捕。……とある。今回、この依頼人が事件発生から二日で裁判を受けることになった理由はこれだ。老若男女区別なしとはいえ、まだ十一歳という年齢から体力、気力の考慮と、自室から逃げも隠れもしなかったため、その日のうちに逮捕ができたからだ。
ちなみに、ボーイッシュな口調だが魔女野マコは女の子だ。カップには花模様が、頭には白の花輪が。そんな小さなものから少女らしいと感じられる。
「父も母も、それからおじいさまも亡くなりましたから。もう、だれもぼくの家族はいないんです」
「親戚の人たちは?」
「あの人たちは家族じゃないんです。何かにつけてお金お金って……おじいさまが亡くなる前から、遺産の分与がどうのこうの言ってます。だから、嫌いです」
「そのおじいさんは君にとってどんな人だった?」
「孫のぼくをきちんと育ててくれた親代わりです。それから歳のワリにはイタズラ好きな人でした。世間からはそんな面白味はなく、厳しく頑固な人というイメージをもたれていたようですが」
「君は本当に殺してないんだよね」
「……どうせ、信じてくれませんから」
「信じるよ。言ったでしょう、私は君の味方だって」
マコは答えずに、カップを手に持って紅茶を一口飲んだ。落ち着いた、という印象は間違いだった。マコは自分が家族である祖父を殺した犯人として起訴されたことに……もう、諦めきってしまっているのだ。私に対しても最低限の礼儀を返しただけで、まるっきり信用していないようだった。
ならば、どうしたら良いか。……とても簡単だ。私のことを知ってもらえばいい。まず私を少しでも信用してもらってから、裁判で戦う意思を持ってもらえばいいのだ。
「じゃあさ、マコちゃん。逆に私に聞きたいことないかな?」
「特になにも」
「何でもいいよ。好きな食べ物でも、趣味でも自己PRでも」
「……なら、その口調。ぼくのことバカにしてませんか?」
「してないよ! 気を悪くしたのなら謝ります。それから口調も改めますよ」
「いまさら改めなくていいですよ。それから、ずうっと言いたかったことがもう一つ。弁護士さん、男の方ですよね。それなのにそのカッコウはなんなんですか? そういう趣味の方ですか」
……妖精だなんてとんでもなかった。冷ややかな口調でずばずばと言い放つマコに若干圧倒されながら、私は苦笑いを浮かべて佇まいを正す。
そりゃ今まで当然のように問われてきた女装だけど、ここまで冷たい目と口で言われたのは初めてですよ。あぁいけない、軽蔑の目に変わる前に事情を話さないと。
「私には尊敬できる女の先輩がいたんだ。それでその人は私の恋人だったんだけど」
「……じゃあ、いわゆる女同士の、ああいう趣味の方だったんですか?」
「違うよ、そのときは私も普通の男だったよ。……だけど二年前、彼女は事故死してしまった。私はまだ弁護士として新米で、後輩として聞きたいことがたくさんあったのに、彼女は突然死んでしまったんだ。途方に暮れながら彼女の残した仕事に一人で取り組んだんだけど、やっぱり私は新米で未熟者だった。追い詰められてどうしようって思ったときに、何を思ったのか彼女の真似してみたんだ」
「型から入ろうとしたんですね」
「そう。そしたら自分でも不思議なくらい落ち着いて、冷静に対処できたんだよ。それ以来、彼女の遺したものを全部吸収しようとあれこれやっているうちにこうなってるんだ」
マコは眉間に皺を寄せて、苦い表情になった。私はまた苦笑する。
「なんだかきもちわるいです」
「うーん、そうだよねえ」
「仕事熱心なのかなんなのか……化粧品も自分で買ってるんですか?」
「そう、二年間で何度かデパートに行って、同じメーカーの同じ商品を買ってるよ。つけまつげはこだわりがあってね、ダイソーのなんだ。恥ずかしいけどもう慣れたなあ」
大抵、この辺りで今までの依頼人は笑って、打ち解けるきっかけになってくれたのだけれど、マコは呆れたようにため息をつくだけだった。会話には乗ってくれるものの、社交辞令だったのか。どうしたものかと考えていると、マコから口を開いた。
「……弁護士さんは自分を信じられないんですね」
「私が?」
「彼女さんが遺したものを身に着けて、彼女さんになりきることで戦ってる。それって二年経った今も、彼女さんの力がないと仕事ができないってことになるじゃないですか」
……図星だった。けれども、それは私も承知の上だ。彼女の幻を追いかけながら、彼女の幻を拾い集めては身に纏い、弁護士の仕事をしている。だが結果は裏切らない。この格好で法廷に臨んでからはほとんど負けなしなのだ。
しかし、そう伝えても、マコは首を横に振るだけだった。
「自分を信じられない人に、ぼくを信じてもらえると思いません。もういいです」
「ちょ、ちょっと待って。まだ決めないで欲しい!」
ガラスに顔がつく勢いで迫ると、マコはほんの少しだけ視線をこちらに寄こした。言葉はぴしゃりとしていたが、その目はまだ私を見ている。
「確かに私は彼女の真似をしている。君の言うように、彼女になりきって戦っているよ。でも、もうほとんど吸収した。あともう一つだけ、それを完全に理解するまで、私はこの格好を止められないんだ。優秀な弁護士だった彼女から全て学んで、それを超える男になりたいんだよ!」
すでにこの女装は、女々しい妄執では説明がつかないことを私は実感していた。……少しでも決意が伝わっただろうか。汗でメイクの崩れてきたであろう私の顔から視線を落として、マコはまた横に首を振った。
「弁護士さんの決意については保留にします。あなたにはあなたの思いがあるようですが、ぼくにはわかりません。でもあなたの『君を信じている』は軽すぎると感じました」
「だけど、私は本当に君のことを信じているんだ。君の無罪を、無実を……」
「……ぼくは」
私の言葉を遮って、マコは言う。
「ぼく、おじいさまのこと……嫌いでした。あの日の前日もケンカして、それで死んでしまえって思ったんです」
「それは偶然だよ。思いだけじゃ、人間は殺せない」
「でも、ぼくは人間じゃないんですよ。──魔法使いなんです」
何をばかな、という言葉は出てこなかった。マコは真剣で、あまりにも真っ直ぐな目で言うのだ。私から一瞬も目を逸らさず、不思議な輝きを持つ青い瞳で。
そして言葉に詰まった私の反応を予想していたように、もう一度首を横に振った。今度はゆっくりと。
「……ほら。どうせ信じてくれないでしょう。帰ってください。もう、何も言うことはありません。調書に書いてあることが全てです」
それきり、マコはもう何も言ってくれなかった。面会時間が終了するまで、私の前で紅茶を飲み続けていたのである。
留置所から事務所に帰ってきて、私はため息をついた。これっぽっちも依頼人に信用してもらえなかったのは初めてだ。今までは大抵、私の女装の理由やその後の成績を見て、私を信じてくれていたのに。
そして私も……魔女野マコのことがよくわからない。自らを魔法使いと言ったあの子は祖父を殺害したのか? その、いわゆる魔法で?……信じられない。しかし、あの子は肝心なところについては『どうせ信じてくれないから』という理由で何も言ってくれなかった。結局、私が信頼を得られなかったことが大きい。……あぁ。ほら、私の『君を信じている』は軽すぎると、実感ができてしまったじゃないか。
──全ての人間は、自分の中に真実を持っている。人間の数だけ真実があるの。そしてあたしは、それを信じて守り通す。弁護士ってそういう仕事だと思ってるのよ。
……かつて彼女が私や依頼人に何度も言っていた、口癖になっていた言葉を思い出す。手紙にすら書いていた言葉だ。私が最後に、唯一理解しきれない、彼女の遺したものはこれだ。
言葉通りに受け取れば、依頼人も検事も証人も、全員の主張を信じる必要がある。これではないだろう。……私たちは弁護士だ。弁護士が何よりもまず考えるべきなのは、依頼人のことだ。
ならば、依頼人の無実と、その主張はどんなにムチャがあっても信じて検事や世間から守れ、ということだと解釈していた。だがしかし、動転していたり興奮している依頼人の言葉全てを信じるのは無理なのだ。だから実感できない、納得できない。今回のケースに当てはめれば、マコが魔法使いであることを前提に、無実であることを考えろと言うことか? そして死んでしまえと思った、すると祖父が死んだ、だけど無罪ではないと?……あぁ、頭が痛い。論理もクソもない。そんなのは破綻している。
マコは魔法使いでもなんでもない、ただの小さな子供だ。この主張が無実への一番への近道だと思うのだが、それでは彼女の言葉が理解できないままだ。……今までどおり。どんなに鏡を見つめても、答えなんて見えるはずがなく、彼女の面影を追い求める三十手前の疲れた男しか映らなかった。カップがわれてしまったので代わりに買ってきたアイスコーヒーを飲みながら、私は明日の裁判に頭をまた痛めるのであった……。
*
──魔女野マコ、裁判当日。
流れ行く時間は決して待ってはくれない。今日が魔女野マコの裁判である。
今日も化粧は完璧だ。こだわりのつけまつげだってばっちりぱっちり問題ない。早乙女フユキ、纏うは彼女の幻。彼女の手を借りているというのに、こんなにも不安な裁判はあっただろうか……。
タクシーで裁判所についてから、法廷に入る前にマコを探す。被告人控え室として宛がわれた部屋の中に、マコは昨日と同じ格好でいた。パイプ椅子の上に座って、きっちりと両手は膝の上。逮捕から連日の取調べ、そして今日の裁判。本来ならば大人でも疲労の色が顔に出るはずなのに、マコは小さな背筋をぴんと伸ばして、凛とした目で私を見た。
「マコちゃん、おはよう。昨日はよく眠れたかな」
「はい。今日はよろしくお願いします」
……言葉とは裏腹に、やはり私を信頼していないようだ。視線と声は冷たいが、相変わらず礼儀と返事だけは素晴らしい。今日は椅子に座ったままのぎこちない礼だ。私が近付くと、マコはまた元の姿勢に戻って言う。
「ぼくは死刑になるんですよね」
「まだ決まったわけじゃないよ」
──信じて、私は君の味方だから。つい言ってしまいそうで、慌てて飲み込む。もちろん、慌てなんて見せないように、表情は余裕で不敵そうなものを貼り付けて。しかし、マコは水色の瞳を逸らしてしまった。
「無理はしないでくださいね」
「私の心配なんてする必要はないよ。……あぁ、マコちゃん、頭の花がちょっと痛んじゃってるよ」
気付いたのは偶然だ。目を走らせたら、花輪の白い花びらの隅が変色しているのが目に付いたのだ。マコはぼんやりと手を伸ばし、確かめる。……まるで、マコ自身が花のようにしおれているように私には見えた。
「……この花輪、おじいさまが殺される前日にくれたんです。永久に枯れない、そしてぼくを守ってくれる魔法が掛かってるって言ってました。でもそのあとケンカして、それから事件が起こって……本当にぼくを守ってくれるのかどうか、少しだけ疑ったから……このまま枯れてしまうのでしょうね」
「君のおじいさんも魔法使いだったのかい?」
──おじいさん『も』。私の言葉に、マコがこちらを見る。もっとも私は、彼女の言う魔法を肯定したわけじゃない。少しでも会話を長く持たせるようにと最善の相槌を打っただけだった。だから少しだけ、心が痛い。
「そうです。おじいさまは、ぼくに勉強と魔法を教えてくれた師匠です」
「さっき、君は疑ったから花が枯れたと言ったね。疑ってはいけないのかな?」
「ええ、魔法とは、信じ続けることで永遠に存在します。でも信じなければ、簡単に消えてしまう。……いいんですよ。あなたも思い込みだと解釈して、どうせ信じてないんでしょう?」
あぁ、また図星だ。この子の口癖に私は冷や汗を背中でかきながら、それでも真剣な顔でそんなことはないよと言おうとした瞬間、マコが席を立った。私を見ずに、一人歩いていく。
「時間ですよ、弁護士さん」
その一言で私は顔を引き締める。もう戦うしかない。
××裁判所・第十三法廷。傍聴席からの好奇の目が、いつもどおり女装弁護士の私に、そして被告人席のマコに突き刺さる。しかしマコは背筋を伸ばし、まず中央の証言台に立つと一礼した。その目は初老だが厳しい目の裁判官や書記官、そして傍聴人たちを見ても怯えているようには見えない。ますます美しく、強く光る青い瞳だった。裁判官がこの国でも見慣れた槌を鳴らし、ざわめきを抑える。厳かに、そしてヒリヒリとした緊張感を持って、今裁判が始まったのだ。
「それでは、これより魔女野マコの法廷を開廷いたします。まず人定質問から入りましょう。被告人、あなたの年齢は十一歳、誕生日は十二月五日。職業は諸事情により無職。魔女野マコ、本人でよろしいですね?」
「はい。……でも、ぼくの職業は」
マコはちらりと私を見た。何を言うつもりだ、ただ頷けばいい。私の狼狽を見抜いたのか、マコは唇を噛んだ。そして、言い放つ。
「ぼくは魔法使いです」
その一言に、静まり返っていた法廷がざわめいた。何あの子、あぁ、そういう子か、頭バグってんだろ、嘲笑が響く。私が頭痛のするこめかみを押さえようとするのと、裁判官が槌を鳴らすのは同時だった。
「静粛に。職業魔法使い、ですか。しかし……」
「いいじゃないですか、裁判官。本人がそういうのならバーバ・ヤーガでも。ここで貴重な時間を使うわけには行かないんです。こちとら、別件が山積みなんですよね」
言葉を濁らす裁判官に、検事が笑いながら宥める。裁判官はまだ納得していない顔だったが、検事の言葉に頷いた。
「わかりました。では被告人、被告人席に戻りなさい。弁護士側、検察側、準備のほうは整っていますね?」
「……弁護士側、準備完了しております」
「検察側、同じく。噂に聞いてますよ、女装弁護士。そのぱっつんぱっつんの女物のスーツも不気味ですねえ」
今日戦う相手は、歳は私と同じくらいで線の細い男の検事だ。艶やかな黒髪をきっちり七三に分け、神経質そうに眼鏡のズレを頻繁に直している。……アンタのがよっぽどオカマっぽいぞ、こっちはまじめに女装してるんだと悪態をつきたいのを我慢してやる。と、検察側、余計な挑発は控えてくださいと裁判官から注意されていた。ざまあみろだ。
「それでは検察側、冒頭陳述をお願いします」
「了解しました。じゃあ、頼みますヨ」
刑事が指を立てると、後ろに控えていた青年が進み出た。優しい顔立ちの、まだまだ若い青年だ。一礼すると手に持っていたリモコンを操作する。すると、法廷の上からスクリーンがするすると下りてきた。これが最近の冒頭陳述だ。このスクリーンは一見平面だが、裁判官、弁護人、被告、傍聴席、もちろん検察側のどこからでも映像をみることができる。もっと視覚化することにより事件の概要をわかりやすく、印象付けを強める効果もあれば、逆に強めたことで自分たちの主張の穴をさらけ出してしまうこともある。また実際の人物の姿を再現するのではなく、名前の書かれたCGの棒人間を使用することでモデリングの苦情から予算までカットできるという話を聞いたこともあった。涙ぐましい工夫に、その話を聞いた晩はやけにビールが美味く感じた。
「警視庁捜査一課、東城真と申します。本日は冒頭陳述を担当させて……」
「いいから、君、早くしたまえヨ。我々には時間がないんだ」
「は、はい……では皆様、スクリーンをご覧ください。事件があったのは今から三日前のことです」
スクリーンに豪邸の写真が映る。
「これが、被害者魔女野慶治の本家です。皆さんご存知の方も多いと思われますが、魔女野慶治は数々の大企業を起こし、富を築き上げた富豪です。妻とは十数年前に離婚。家族構成は、子供六人、孫六人。子供六人の中の長男は、十数年前に妻とともに事故死。それが被告人の両親です。被告は赤ん坊のうちに両親を亡くし、被害者の手によって育てられました。本来ならば学生ですが、先ほどの諸事情について説明させていただきますと、被告人は被害者の意思で学校に通わず、自宅で教育を受けていました。普段はこの広い本家の中で、二人と数名の使用人で生活していたようです」
豪邸の写真から、バラの咲き乱れる庭園、もはや森のような裏庭、噴水……と富の象徴のようなものが映っていく。
……家に閉じ込められて、学校も行ってないなんて可哀想に。頭おかしくてトーゼン? 傍聴人たちの好奇のざわめきが再び起こる。
私はマコに視線を送る。大抵の依頼人は傍聴人のざわめきに苛立ったり悲しんだりしていたが、マコは相変わらず凛としていた。思えば、あの子は初めから私を信用していなかったものの、最低限の礼儀はもって接してくれたのだ。それのどこが、頭のおかしな恐ろしい子供なんだ……落ち着こう。私が傍聴人に惑わされてどうするんだ。
屋敷の写真が見取り図に変わる。
「──時件当日は、魔女野慶治の八十二回目の誕生日でした。親戚一同が祝いに集っていたようです。被害者の子供五人、そしてその配偶者五人。それから孫が六人。加えて七名の使用人と、被害者と被告人を加えて二十名が、朝八時時過ぎに本邸二階の食堂に揃っていました。少し遅めの朝食でしたが全員が全員の顔を見ています」
広い食堂に二十名の棒人間がずらりと並ぶ。どうやら当日の朝食は立食式だったようだ。被害者と被告はその他と色別にしてあるためわかりやすい。被告と書かれた赤い棒人間と、被害者と書かれた青の棒人間は、常にぴったりとくっついている。その他の十八名が思い思いにテーブルの間を動き回り、時折挨拶に手を上げて近付いてきても二人は離れない。
「被害者は朝食後、体調の不調を訴えて自室に戻りました。時間にして朝の十時十分ごろ。被告人も付き添って食堂から退室したようです」
青と赤はくっついて並んで歩き、見取り図の上を移動する。階段を下り、食堂の真下の、正面の部屋に青は入った。そして赤は再び階段を上り、食堂前で使用人と書かれた一人の棒人間、また被害者の子ABCとそれぞれ書かれた三人、計四人とすれ違った。
「どこに行くのか、という被害者の子の一人の問いに、被告人は自分も自室で休む、と答えたそうです」
赤は廊下を歩くと、食堂の斜め前の部屋に入った。そしてベッドに横たわる。調書によるとこれから事件発覚まで自室で眠っているのだ。
「しかし被害者は一時を過ぎても昼食に現れず、迎えに言ってAが声を掛けたが応答もない。ドアは施錠されていたが、A、B、Cは不審に思い、Aが自室のドアを蹴破り、Bが最初に室内に入って、ナイフで胸を刺されて被害者が、椅子に座ったまま絶命しているのを発見しました。続いてAが椅子の肘掛に、被害者が絶命する前に書き残したと思われる『マコ』の血文字が残っているのを発見。万年筆と数枚の手紙が被害者の足元に落ちていたこと以外、室内は荒らされていなかったといいます。そして血文字のことからCが呼んできた他の兄弟D、Eとともに、五人は被告人の部屋へ。部屋の鍵は壊れていたので意味がなかった。あ、ちなみに現場検証しましたけど、鍵は少し前に壊れてそのままだったようです」
壊れた鍵の写真がスクリーンに映る。
「被告人はベッドで寝ていたが、Cがベッドの下から被害者の血が付着したシャツ、手袋を発見。司法解剖の結果、死亡推定時刻は昼の十一時二十分前後。他の親族は十一時十分ほど前から、さきほどお見せした写真の庭に居ました。バラ庭園にA夫妻とE夫妻、裏庭にB夫妻とC夫妻。D夫妻と被告人以外の被害者の孫たち六人全員は噴水で遊んでいました。使用人四名は本邸一階の厨房から茶菓子の用意を運んだり昼食の用意をしたりと、被害者の部屋の前の人通りがありました。使用人三人は、それぞれの庭、噴水で給仕していて、アリバイの保障をしています。十二時半まで庭遊びは続き、それから全員で食堂に戻り、談笑をして一時になるが、被害者が現れず……となります」
「裁判官、証拠品を提出します。司法解剖記録、指紋は検出されませんでしたが凶器となったナイフ。それから血文字の写真、鑑定の結果被害者の血液だと確定したシャツ、手袋なんかもありますよ」
東城を差し置いて、検事が眼鏡を光らせながらいくつかの証拠を提出した。裁判官は一つ一つに小さく頷いている。傍聴人のざわめきが、もう決まりじゃないかと聞こえてくる。
「それからもう一つ、遺された遺書」
「遺書ですって?」
「そうです。殺された被害者の足元にありました。発見者はC。筆跡は被害者本人のもので、日付は事件当日。状況から見て、殺害される前まで書いていたようです。被害者は自分の死期を悟っていたようで、色々懺悔だかなんだか書いております。読みましょうか」
「……判決に関わることならどうぞ。それ以外ならお断りします。私は死者の心を必要以上に荒らすことはしたくありませんから」
「そうでしょうね。もっとも読めるのは前半まで。この手紙は、『マコを、この手で育ててしまったことは何よりも罪深い』という一文のあとは破られていますから。ア、ちなみに破られたほうは未発見です。とっくに隠滅されていると思われます」
ざわつきが大きくなった。はっとしたようにマコを見ると、やはり背筋を伸ばしていた。……しかし、その目から、涙が一つ、ふっくらとした頬を流れる。涙が落ちた瞬間に私は声を張り上げていた。
「待った! 被告人には被害者を殺害する動機がない!」
「動機はこれからお話しようと思いますヨ、女装弁護士。外見に倣って言葉はエレガントにね。東城君、スクリーンが邪魔。あともう君は下がって」
「ですが、冒頭陳述は私の役目です」
「君は情に流されてるだろう。同情しちゃ駄目ですヨ」
東城は素直にスクリーンを消し、そのまま退廷した。ドアの閉まる音が聞こえないうちに、検事は遺書を掲げた。
「弁護士君。君の疑問は簡単に答えられる。被告はこの遺書を見た。そして殺害に及んだんです。この手紙の裏にはね、遺産分与の件が書いてある。読める範囲で見ても親戚一人当たり莫大な遺産だ。ところがどうだい、被告人、魔女野マコの名前だけはない。……いいですか、これがどういう意味かわかりますか?」
「破られ、現場には残らなかったほうに、被告人の名があった」
「そう! 何故持ち去ったか? ここからは私の推理ですけれどね!」
検事は整った七三を優雅に揺らして見せながら、片手で眼鏡を持ち上げる。
「不満があったんだヨ、遺産配分にね!」
「だからって殺害する理由にはならない!」
「ホワイダニットは深読みする必要はない! 人間の動機は単純なんだ。いいですか、調書によると被告は被害者を嫌っていた。加えて、この手紙は被害者の懺悔が書いてある。『マコの両親の事故は、私にも責任がある。二人の死のきっかけは私にある』被告人はこれを読んだ! そして被害者である祖父を恨んだ。自分の両親を殺すきっかけを作って、自分を育てたことを後悔している。そして遺産配分としては、自分を傷つけた対価としてはつりあわない内容が書いてあったんでしょうヨ。だから殺した! どうです裁判官?」
「……検察側、あなた私が渋ったのに結局すべて読みましたね? 弁護人、採用しますか?」
「証拠は証拠ですから。しかし、検察側の推理は飛躍しすぎだ。それこそ証拠がありません。たった一文だけで長年一緒に暮らした家族を恨むでしょうか? 嫌っていたとしても、殺害を決意するまでに?」
私はあくまで冷静を装って喋るものの、検事はニヤニヤ笑いながらまた眼鏡を直す。そんなにズレてるなら叩きわってやろうかとすら思う。
「恨みますヨ」
「何故そう言い切れるんです?」
「証拠は被告人本人が言った。……自らを『魔法使い』だと。つまり、被告人は思い込みが強い性格である」
思わず唇を噛む。マコには魔法使いの件は黙ってもらうべきだった。あの時、時間がないからと急かしたのはこのマコの思い込みが強いと主張する証拠にするためだった……ッ。
マコに視線を向ける。……もう俯いてしまっていた。細い肩が震えている。マコが無実なら、こんな酷い遺書のことは知らないはずだ。自室で逮捕されたのだから。
「しかし現場は密室だった。被告人はどこから侵入したというのですか? もちろん、解明済みですよね? 被告が密室に侵入し、被害者を殺害できる方法は」
何とか頭を落ち着かせる。息が苦しいのはこの細身のスーツのせいだろう。焦ったほうが負けなのだ。しかし、私の挑発には検事はまったく乗ってこない。にやにやしたまま、肩を竦めて言って見せた。
「ハウダーニット! その答えも出ている。だって、『魔法使い』なんでショ? 密室殺人なんて簡単簡単。お茶の子さいさいチチンプイプイでございますヨ、これは魔法殺人ですから」
「なにをバカな。検察側、あなたはふざけてるんですか? そんな論理は認められない」
「ええ、私も裁判官として弁護人に同意します。検察側は魔法による殺人、つまりこの事件は魔法殺人だと主張するつもりですか? この被告、魔女野マコが魔法使いだとした上で」
裁判官が首を捻りながら検事に問う。検事は頷かず、また否定もせずに私を見た。相変わらずの薄ら笑いで……こんなにも形勢が不利で、なおかつ反撃の糸口がつかめないのは初めてだ。
「弁護人、この主張を否定しますか。あなたの依頼人は、自らを魔法使いだとこの法廷で証言した。それなのに依頼人を信じるべきあなたが、魔法使いではないと依頼人を否定してしまうんですか?」
「そ、それはない! 私は依頼人を信じている」
だから、否定は……それだけはできない。今は信頼関係より裁判の行方に集中すべきなのだが、彼女の言葉が脳裏にちらつくのだ。人の数だけの、あなただけの……真実。
机にかじりつくような、すでに防戦一方の私に対して対する検事は余裕たっぷりに眼鏡を直す。まだ何か隠しているようだ。
「……まァ、こちらも密室なら密室、魔法なら魔法でもどうにでもね。……裁判官。重要な証人を呼んでいるのですが、どうやら渋滞に巻き込まれて到着が遅れているようです。この忙しい中申し訳ありませんが、十五分ほど休憩をいただけないでしょうか? いやァ、このまま証人なしに判決にいたるのも、ちっとも働かない女装弁護士に悪いですから。そうですヨね、女装弁護士さん? 証人への尋問くらいやっとかないと立場的にまずいですヨね?」
「弁護人、どうですか?」
「……異議なし。ええ、証人を召喚していただきます」
自分でもわかっている。これは時間稼ぎだ。
しかし諦めるな。諦めたら終わりだ。まだ私は何も守れていない。けれども否定もしていない。だから、殺してもいない。ここで諦めたら……確実にマコは救えないのだ。
私を見て、裁判官は頷いた。そして手に持った槌を三度振り、よく通る声で宣言した。
「では、これより証人の到着まで十五分の休憩に入ります。検察側、十五分後に開廷できるよう善処してください。以上!」
──魔法殺人だなんて。
誰かがマコが魔法を使っているのを見たって? その証拠でも? 魔法殺人なんてバカバカしい。否定して切り抜けることが、最善の選択だったかもしれない。しかし、それはマコを否定することになる。依頼人を信じられなくてどうする。いや、何もかも信じるなんてそれこそ愚かだ。……あぁ、自分の中の思考さえも、悲しいほどに堂々巡り。
あれこれ考えているうちに被告人控え室の前にたどり着いていた。ノックの音で思考を止めて、そしてやっと、私は室内からすすり泣きが聞こえてくることに気付いたのだ。
返答がないので声を掛けて室内に入ると、やはりマコが泣いていた。祖父からの贈り物である頭の上の花輪に触れながら……。花はもう、ほとんど枯れていた。魔法か、時間か。原因がそのどちらでも、マコは『疑ったから枯れた』と思っている。
──マコは、祖父を嫌いだと言った。しかしそれは本当のことだろうか。法廷で遺書の内容を聞いた瞬間、これまでずっと何事にも動じなかったマコが……泣いた。
マコちゃん、と声を掛けると、椅子の上に膝を抱えて泣いていたマコが顔を上げた。初めて見る歳相応の子供の顔が、泣き顔とは。自然と、私は気遣うような笑みを浮かべる。マコは静かに涙を零しながら、私に言う。
「弁護士さん。ぼく、おじいさまに嫌われていたんですね。あんな遺書を書かせるくらいに、ぼくの存在はおじいさまの重荷だったんですね……」
「……君、本当はおじいさんのことが好きだった。ううん大好きだったんだよね? 嫌いだなんて嘘ついたのはどうして?」
「それは……」
「もう嘘はつかなくていいよ。……君の右手が、ずっと花輪に触れているのを私は見ている。それが証拠だよ。大事にしてるんだもんね、そのプレゼント」
そっと手を伸ばして頭を撫でる。……すると、マコの顔がくしゃりと歪んだ。堰を切ったかのようにぼろぼろ泣き、顔を真っ赤にして、それでも私を見ながら震える口から一言一言を搾り出す。
「……一人になってしまったの。おじいさまがいなくなって、もう、誰も家族がいない。大好きな人がいなくなって悲しいより、嫌いな人だと思ってたほうが、少しだけ楽だった……っく、それに、死刑になれば、おじいさまに会えるって……」
「そうだったんだね。……そうだよね、君はまだこんな小さいのに、色んな不幸がありすぎた。留置所で気付けなくてごめん……本当にごめんね」
「いいの、もう、全部いいの。死刑になってもいい。それで、おじいさまに謝りにいくから」
「だめだ、まだ諦めるのは早い」
マコはもういいと首を振る。しゃくりあげながら、こんなにも話しにくそうなのにマコは私と会話してくれる。
──昨日、留置所で初めて会ったときもそうだった。私の目を見て会話に乗ってくれた。……あぁ、今ようやく気付く。マコがどうして私を拒絶しなかったのか。花輪を大切にしているのも、ただのプレゼントだからではない。
この子は最初から私に助けを求めていたのだ。信じない信じて欲しくないといいながら、魔法使いであるという彼女の真実を教えてくれた。魔法は、信じなければ簡単に消えてしまうというのに。そして今、祖父がマコを守るために魔法をかけたという花輪に、小さな手で縋っている。
私はマコの薄い両肩を掴んで告げる。
「……マコちゃん。嘘も自暴も、もう私には効かないよ。さあ正直になって。君は生きたいんだよね。私を信じようとしてくれてるんだよね?」
「だけどおじいさまにあんなに迷惑かけて、生きているなんて許されない。そんなの……耐えられない」
「あの遺書は破られていて不完全なものだ。もしかしたら本当に、ご両親の死におじいさんがきっかけとしてかかわっていたとしても。自分だけが君の家族として愛を注ぐことに、子育てできなかった君の両親に罪悪感を感じていたのかもしれない。不完全なんだからわからないだろう? そんなものより、君は、君の中の真実を大切にするんだ。今まで一緒に暮らしてきたおじいさんとの記憶はどうだったんだ? 君の事を愛してくれて、君も大好きだったんだろ?」
マコの目が見開かれる。でも、と小さく唇が動くのを見て、私は首を振った。
「まだ迷うのなら証拠をあげる。君のその花輪に、込められた魔法は何だっけ……?」
──あなたの真実はあなたのもの。全ての人間は、自分の中に真実を持っている。人間の数だけ真実がある。たとえ、あなた以外の人間、世界中の全員が否定したって、あなたさえ否定して殺さなければ、あなたの真実は、紛れもない真実。そしてあたしは──
……私は気付いていた。ついにわかった。理解し、そして実感できたことに。
ようやく、本当に長い時間を掛けて理解できた、彼女の口癖の本当の意味。私はマコのおかげで実感へと到達できたのだ。……簡単なことだった。依頼人の真実を私が信じて、そして依頼人にも信じてもらうだけだった。魔女野マコが魔法使いであることを、何故否定する必要があるのか。マコが魔法使いと言ったのなら、信じればよかった。その上で犯人ではないと声高く主張すればよかった、マコの真実を守ればいい、ただそれだけのこと。
「人の数だけ真実がある。だから君が否定しなければ君の真実は本物なんだ。そして私は」
私はマコの肩から手を離し、ウィッグに手を掛けて外すと床に投げた。続いて窮屈だったスーツのジャケットを。さらにつけまつげをかなぐり捨てると、仕上げにポケットから取り出したクレンジングティッシュで顔を適当に拭いた。あれほどこだわった理由の睫毛用接着剤が無理にはがしたために痛かったが、もう気にしない。
「──俺は、君だけの真実を守り通す。弁護士はそういう仕事なんだ。俺は君を信じる。そして俺自身のことも信じている。君もどうか、俺と君自身を信じて欲しい。誰かが君に罪を被せようとしただけだ。君は魔法使いだけど、犯人じゃない!」
もう彼女の幻に頼る必要はない。私──俺は、もう大丈夫。
すると、じっと俺の言葉を聞いていてくれたマコが、俺の前で初めて首を縦に振って、こっくりと頷いてくれた。
「……ぼく、信じます。弁護士さんも自分も信じます。だから……ぼくを助けてッ!」
俺の腕の中に飛び込んで、マコは大きな泣き声をあげた。その背をあやしながら、俺は囁く。あぁ、やっと依頼してもらえた、マコの口から。状況は何も変わっていないけれど、俺の心は雲泥の差だ。もう主張はブレない。
「……大丈夫、俺たちはお互いを信じてるから、絶対に勝てるよ。だって、それが魔法なんだろう?」
マコは何度も頷く。
「じゃあ、そろそろ泣き止もう。もうすぐ休憩が終わる。泣いたままのぐずぐずで出廷するんじゃなくて、いつものマコちゃんみたいにきりっと背筋を伸ばすんだ。傍聴人のざわめきも、検事の主張、何を聞いても、ぼくは犯人じゃない、それをぼくの弁護士が証明してみせるから好き勝手言ってろって顔で見返してやれ!」
「は、はい、わかりました。威張ってます」
「そう。それで、辛かったら俺を睨むんだ。お前がふがいないせいであいつらが好き放題言ってるぞって。さ、顔拭くハンカチとかあるかな?」
マコは俺から離れると、まだ涙の残る顔で今度は笑ってくれた。
「ちゃんと持ってます。……弁護士さんの顔も、もう少し丁寧に拭いたほうがいいと思いますよ」
「そんなに酷いかな?」
「きらきらが広がってます。カツラがないから、より不自然だと思いますよ、ふふ」
「よし、舐められないようにちゃんと拭くか」
マコが笑ってくれた、それだけでとても嬉しい。鏡を見ながら手早く顔を拭っていると、床に投げたままのジャケットから携帯電話のバイブ音が聞こえだ。……見知らぬ番号だがメイクオフしながら出る。
「もしもし、早乙女ですけど」
『初めまして、ではないんですけどこんにちは。警視庁捜査一課の東城です。今日十三法廷でお会いしましたよね。冒頭陳述を担当した者ですけど』
「あぁはい。その東城さんが何か? 何故俺の番号知っているんです? 職務乱用ですか?」
『ち、違います誤解です! そんなに敵視しないでくださいよ、私の友人が留置所で受付をしていて、あなたの名刺を持っていると聞いていたので電話番号を聞いたんです。あんまり良くないことですえけど……』
「あぁ、別にいいですよ。用件は何ですか? 早くしないと休憩が終わってしまいますよお互いに。あ、もう今日はお帰りになってましたっけ」
『そ、そうです。その後の流れも聞いています。……それで今、事件のあった本邸に来ているんです。もし、私に何かできることがあったら言ってください』
思わぬことに、剃って書いていた片眉までメイクオフしてしまい、眉毛が片方なくなった。これは残しておくべきだったか? いや、そんなことより。
「なんですって? 協力するっていうんですか? あなた検察側でしょう」
『そうですけど、私には魔女野マコは犯人に見えないんです、どうしても。きっとまだなにか証拠はあるはずです。逆転できる証拠が』
「……素直に嬉しいですよ。使えるものは有効活用させていただきます。何か見つけたら連絡をください。こっちからも何かあったら連絡します。……しかし事情を聞いてもいいですか?」
『お金目当てじゃありません。……ただ、放っておけなくて。私にも、同じくらいの妹がいたもので』
「なるほど、わかりました。ではお願いします」
『早乙女さん、なんだか少し感じが変わりましたねえ?』
「そういう話はまた今度」
通話を切り、胸ポケットに入れた。とんと背中が叩かれたのでマコを見ると、すっかり落ち着いた様子だった。
「時間ですよ、弁護士さん」
その一言で私は気を引き締める。さあ、勝ちに行こう。
「それでは、これより魔女野マコの法廷を再開いたします。弁護側、検察側、準備はよろしいですね?」
俺は力強く頷く。被告人席のマコと目が合ったが、マコは涼しげな顔をしていた。傍聴人がさっそくざわめいたが、それでもマコは動じない。
「弁護人、先ほどまでの検察側の主張に対し、なにか言うことは?」
「ありますよもちろん。検察側の主張である魔法殺人、そして動機の遺書やらなにやら。……言わせていただきます。魔法殺人があったかどうかは別として、それが被告の手によるものかは断言できない。被告人以外の魔法使いがいないと証明できませんからね。さらに動機の遺書のくだりですが……裁判官、被告人の頭をご覧ください」
「白い花輪を付けていますね。少しだけ痛んでいるようですが……それがなにか?」
「あれは被害者が死亡する前日、被告人にプレゼントしたものです。嫌いで、検察側からすれば殺害の動機になるほど恨んだ人間からのプレゼントを、今も大事に身に付ける被告人。……ありえません。つまり被告人は被害者を恨んでいない。嫌ってもいない。むしろたった一人の家族として愛していた!」
裁判官は興味を持ったようだが、検事は違う。机を叩いて異議有りと叫ぶ。
「今更フーダニットを引っ張りだすなんて! それにプレゼントは被害者が買ったという証拠と、愛していたという証拠は!」
「購入した記録は警察が調べればすぐにわかるでしょう。その辺のデパート駆けずり回って、お得意の人海戦術でどうぞ。……愛の証拠を求めるなんて無粋な人ですね。そんなんだから彼女できないんですよ」
「うるさい黙れ、出来たことはある! はぐらかさないで答えたまえ!」
「お望みなら被告人自身が証言してくれますよ。それか、使用人に二人の日常を聞いてみるのもいいでしょうね。殺意を持つ関係の二人の日常を」
「は……ぐ、片眉なしィ……」
「あなたはずいぶんとお忙しいようですが、あんなに時間を割いた前半の法廷がまったく意味のない無駄なものだったと弁護側は主張しています。裁判官、どうですか?」
「認めましょう。前半は検察側の推理で成り立っていましたから。……しかし、女装をやめて今度は片眉ですか。片眉になったとたんに勢いがつきましたね」
「もう女装弁護士でいる必要がありませんから。それから迷う必要も」
「しかし、法廷は弁護側が有利になっているわけではなくゼロに戻っただけですよ」
「構いません。被告は魔法使いです。否かどうかの審議は、この法廷では行う権利はありません。決めさせない、笑わせないッ! そして無罪であることを、俺が必ず証明するッ!」
裁判官に向けて、だけの言葉ではない。聞いているか傍聴人ども。わかったら大人しく傍聴に専念しろ!
裁判官は俺に頷き、次に検察側を向く。検事はずれた眼鏡を忙しなく動かしていた。
「検察側、異議はありますか?」
「……動機については保留にしますヨ。ただし、魔法殺人については主張を変えさせてもらいましょう。せっかく、子供の夢を守ろうとしてやったのに、酷い人ですね片眉し!」
「どうでもいいですけどお時間が圧してますよ?」
「黙れ、くだらない主張は撤回だ! 被害者の部屋には隠し通路があった! 屋敷に精通している人間しか知るはずのない隠し通路だ! 密室ではなかったのだヨ!」
検事は懐から取り出した写真を突き出す。レンガ造りの、暗く狭い通り道に、何かが落ちている。隠し通路か、そんなもの隠し持っていたのかと俺は腕を組む。焦る必要はまったくない。検察側が無理に余裕を持とうとしているのがわかるからだ。
「それを被告人が通った証拠は?」
「何か落ちてるの、見えません? 手袋ですヨ、手袋。……血の着いた、犯行に使われた手袋の片割れ。うっかりして落としちゃったんでしょうねえ。この通路を被告人が通ったのは間違いないでショ。ちなみに、全長二十メートルで、出口から一メートル以内の写真です」
「屋敷に精通してるのは、親族皆同じだ。他の親族が知っていてもおかしくありませんよね?」
「いやいや惜しい。あの屋敷は被害者の子供が皆家を出たあとに建て直されているんですよ。その後、親族は正月と被害者の誕生日の二日間しか本家に寄っていない。それも半日以内。隠し通路探すことなんてほぼ不可能と言ってもいいでしょう!」
「待った。その言い方からして隠し通路は外にあるんですね? 被告が当日、隠し通路から出ることは不可能です。被害者の死亡推定時刻、外には親戚たちがいたんでしょう?」
「ああ、さらに惜しい。そうです、裏庭にあります。しかし死亡推定時刻に隠し通路付近をうろうろしなくていいんですよ。自室で休むと宣言して、人気を伺いながら被害者の部屋にいれてもらう。被害者が書いていた遺書を読んで殺害し、そして親族がいなくなったら穴を出て、素早く自室に帰ればいい。……しかし、その姿が見られていた!」
「それが重要な証人ですか」
「その通り! さあ入廷していただこう、被害者の子供Bこと魔女野リカ!」
検事が手を上げると、一人の女が入廷してきた。茶色に染めた髪の毛にど派手なネイル。ヒョウ柄のシャツの首筋に光る金のネックレスと、あまり品のない印象を受ける。若ければまだいいが、その顔の皺は誤魔化せていない。裁判官が問う。
「証人、名前と職業を」
「魔女野リカ、主婦やってるわ。あ、マコ元気? リカおばさんよ。あんたも可哀想ねえ、お父様が亡くなったらあんたにお屋敷と全財産の半分がいく予定だったのに。死刑になっちゃパーね」
「証人、勝手に被告に話しかけないでください。あなたの見たことだけを証言してくださいね」
「あら、厳しいおじい様だこと」
リカはウィンク一つ投げてから佇まいを直す。メイクも若い女性と同じものだ。
「事件当日の十二時半過ぎ。一緒に裏庭でお茶してたルカと、もうすぐお昼だからって邸内に戻ろうとしたら物音が聞こえたの。そしたら、隠し通路から走っていくマコを見たのよ」
「なるほど、それは決定的ですね。ちなみにルカさんというのは?」
Cです、とリカに変わって検事が答える。裁判官は頷き、俺を見た。Cか。遺書、シャツなどを発見した人物。そしてこのBは死体の第一発見者である。
「弁護人、尋問を開始してください」
「わかりました。証人、あなたが見たのは魔女野マコで間違いありませんか?」
「ないわ。頭に花輪乗せてるおめでたい子なんて、そんなにいないでしょ。少なくともあの日の本邸には一人しかいなかったし、とても小さかったもの。使用人含めてマコより小さい子はいないの。間違えるわけないわ」
リカが見たのはマコ確定か。……本当に見たのなら。
俺は深呼吸してリカを見据える。マコが無罪である以上、それ以外の誰かが真犯人なのだ。だから情報は逃がさない。そして、嘘も許さない。この法廷の場で俺が守るべき真実はマコの真実だけ。それ以外は暴く!
「証人は被告人が隠し通路から出てきた瞬間は目撃しましたか?」
「してないけど……その辺りから出てきたから」
「では証人、何故そこに隠し通路があるとあなたが知っていたんですか? 普通に玄関から出てきたと思わなかったんで?」
「使用人に聞いたことがあったのよ、お父様の部屋から裏庭に通じる隠し通路があるって」
「ならば屋敷に精通した人間以外にも、隠し通路の存在を知っている人間はいることになりますね」
「そうね、現に私がそうだもの」
「被告人、あなたは隠し通路の存在を知っていましたか?」
突如話を振られたことにマコは驚いていた様子だったが、すぐに頷く。
「はい。おじいさまはイタズラ好きな方でしたから、屋敷のあちこちにおじいさまが作った隠し扉や通路があります。裏庭へ続くのもその一つです。ぼくも、おじいさまの真似をして宝物の隠し場所をこっそり作ったこともあります」
「複数あるのですね。被告人は隠し通路や隠し扉を全て把握していますか?」
「全てかどうかはわかりませんが、大体は。通路は五つで扉は二十八枚。隠し扉については、ぼくとおじいさまの部屋にはありません。その他の部屋にはたいていあります。猫の出入り口風から屏風の裏までデザインは色々です」
「では隠し通路は?」
「おじいさまの部屋から裏庭に続くものが一本、使用人に教えられているのはこれだけだと思います。その途中、分岐してぼくの部屋に続いています。厨房から外が二本目。食堂から隣の客間までが三本目。四本目は屋根裏に続いています。五本目は、途中で飽きたのか放置されたままです。噴水に入り口だけがあります」
マコは、自分の部屋に隠し通路が続いている、というところですまなさそうな顔をした。そんな顔する必要ない。
「被害者から被告の部屋への分岐とはどんなものですか? 出口からの距離は?」
「距離はわかりませんが、奥の方に小さな扉が一つあります。そこから狭い道を通って梯子を上れば、ぼくの部屋の白いクローゼットの中に繋がっています。災害が起きたとき用に設置してくれたようですが、狭いので数年経ったら通れなくなるでしょう」
「そのルートなら、出口から一メートル以内に向かう必要はありませんね」
頷くマコを見て検事が歯軋りをしている。つまり出口付近にマコが手袋を落とすのはありえないのだ。
「ちなみに、さきほど被告自身が作ったことがある宝物の隠し場所とは?」
「白ではなく、黒のクローゼットの床板の下です。この場所は、ぼくが一人で自分の部屋の中で作ったものですから、誰も知らないと思います」
「わかりました。……では証人、今の被告の発言を聞いてましたね?」
俺が向き直ると、すでに飽きていたようにリカは証言台の上に肘をついていた。
「聞いてたわよ。マコの部屋にも通じてたんでしょ?」
「ならば、あなたが目撃した被告人は何ですか? 通路の奥から自室に直行できるルートがあるのに、出口付近で証拠品を落とし、そして裏庭に出るという危険を冒した理由は?」
「知らないわよ、自分で考えて」
「えぇ遠慮なく。犯人は分岐のことを知らなかった。いや知っていたとしても、一番小さい被告人の体に合わせた大きさの通路が通れなかった。だから素直に裏庭に出たんです。以上のことから、犯人は被告人であるはずがない! つまり証人、あなたは嘘をついている!」
リカの額に汗が浮かぶ。メイクが剥がれるのが先か、化けの皮が剥がれるのが先か。
「失礼ね、お父様が亡くなってまだ気が動転してるの! 大体マコの部屋でシャツと手袋片方見つかったのよ?」
「証人、やはり被告の発言は聞いていませんでしたね」
「なにがよ!」
「被告は自室に秘密の宝の隠し場所を作ったと証言しました。何故、その秘密の場所に隠さなかったんですか?……殺人の証拠を。犯人は罪を着せるために、徹夜して眠っていた被告人のベッドの下に証拠を放り込んだんだ!」
リカは目を引ん剥いて俺を睨んでくる。動転している? 笑わせるな。たった一人の家族を亡くし、殺人で起訴されたマコがあんなにも落ち着いているというのに。そして今の俺には、リカの嘘から始まった証言を逃がさない手札が揃っている。
「そ、そんなの嘘っぱちよ。そんな場所なかったんだわ」
やはり来た。予想通り過ぎて思わず顔がにやつく。俺は胸ポケットから携帯電話を取り出し、裁判官に付きつける。
「裁判官! 電話の許可をいただきたい!」
「弁護人、この法廷に必要な電話ならどうぞ。ただし、手短に」
裁判官に礼を言う。俺は履歴から魔女野邸で証拠探しをしている東城に電話をかける。コール音に集中して初めて、俺は法廷が静まり返っていることに気付いた。傍聴人も、検事も。皆、固唾を飲んで見守っているのだ。
『早乙女さん、どうしました?』
「大至急、被告人の部屋に向かってくれ。黒と白のクローゼットがあるから、黒を開けて床板を外した写真を送ってほしい」
東城はすぐに動いてくれた。数十秒後には、証拠品となる写真が贈られてきた。……敵に置いておくのが少し惜しい。今ならどんな証拠を出せといわれても可能だ。
「誰かスクリーンを下ろせ!」
スクリーンが降りてくる。俺は携帯電話ごと係りに渡し、写真を写してもらう。すると、法廷内に感嘆の息が聞こえた。法廷で、マコの作った宝の隠し場所は実在することが証明されたのだ。レースと造花で飾られ、非常に丁寧に作られているのが携帯電話サイズの写真でもわかる。
「……被告人、これはいつ、なんの目的で作ったんですか?」
裁判官の問いに、マコは頭上の花に触れて言った。
「事件の前日です。おじいさまから貰ったこの花輪をしまっておこうと思って、夢中になって徹夜して作りました。前日、おじいさまと花輪をしまうか常に身に着けるかでケンカしてしまいましたが、でもぼくは、いつかお嫁にいくときに被りたくて、大切に取っておきたいと思って……」
花の命は有限だが、魔法使いには関係ない。裁判官はもとより、検事も傍聴人もマコを嘲ることはしなかった。ただ、何かを考え込んでいるようだった。純粋な思いを踏みにじった自分を、悔いているようにも見えた。
そんな中、汗だくのリカだけがマコを睨みつけていた。俺は笑みを浮かべながら問う。
「証人、あなたの証言は嘘だけになりましたが。まだなにか証言することはありますか?」
「うるさいうるさい、何よ、私が第一発見者だから疑ってるの? 結局そうなのね、陳腐なミステリーの読み過ぎじゃないの! それに現場にはルカも兄さんもすぐ入ったのよ!」
「……いいえ。犯人扱いはしていません、けれどあなたの第一証言にも引っかかること少々」
リカの目がゆっくりと見開かれる。汗でふやけたのか、つけまつげがぺろりと剥がれ落ちた。だめな接着剤なようだ。俺は右手を挙げて証人に勢い良く指を付きつける。そのただの指に、証人がナイフでも向けられたかのようにぶるりと震えた。
「破られた遺書に書いてあると思われる魔女野マコの遺産相続の内容を……何故あなたが知っているんですかッ!」
緊急逮捕された魔女野リカ。その弁護を受けるつもりは俺には一切ない。俺と検事が見つめる裁判官は低く唸ると、判決を下すと宣言した。厳かな、そしてヒリヒリとした緊張感が法廷を包む。
「この事件は未だ未解決です。動機も犯人もまだこれから。弁護側が尋問の末に得た数多くの証言を元に、検察側は親戚全員と使用人への事情聴取が必要でしょう。しかし、確かなことも一つ。被告人が被害者を殺害する動機もなく、数々の証拠から被告人が犯行に及んだとは考えにくい。むしろその証拠は、被告人に罪を着せようとしたものでした。よって判決は無罪。罪なき少女に刑が執行される過ちが防げたことを、弁護側に感謝します」
とたんに、拍手が法廷に響いた。全員が全員納得したわけではないが、マコの無罪を喜ぶ人がいるのは俺にも嬉しいことだ。マコを見れば、花が綻ぶように微笑んで拍手を浴びていた。頭の花輪は美しく広がり、法廷内を甘く優しい香りが包んだ──……。
*
──数日後、早乙女法律事務所にて。
コーヒーを淹れるための湯を沸かしながら、俺は新聞を眺めていた。魔女野慶治殺人事件は、犯人も真相も未だ検察側が総意捜査中とのこと。……犯行方法はほぼ確定している。あとはアリバイの嘘から犯人を引きずり出すだけ。動機も予想はできる。あの検事が言ったように、動機を深読みする必要はない。あの事件が突発的なものでも計画的なものでも同じこと。犯人の目当ては金だろう。俺が予想するに、マコに全財産の半分を渡した上で、子供たちの分が割り振られていたのだろう。半分を五人に割り振っても、その遺産が検事いわく莫大らしいのでそれこそ莫大な時間は掛かるだろうが。
犯人はマコへの遺産相続が気に入らなかったのだ。一度は無縁になった長男の忘れ形見に、自分たちよりも遺産が渡ることに。逆に考えれば、それだけ慶治がマコを大切に思っていたことがわかる。生きていく上で金は必要だ。ただし時として余計な悪意を引き込んでしまうことがある。悪意と不幸から、マコを守りたいと願いが込められた花輪のプレゼント……全てが、先が短い老人の、精一杯の愛だと俺は思う。証拠があれば法廷でも認められるだろうし、マコ自身も自分の思い出から愛を疑わない。だからもう大丈夫だろう。
乾いた音を立てる新聞を捲る。マコの名前は実名報道されていない。持つものとしての特権かもしれないが、あの子はずっと家で暮らしてきたし、世間からの好奇の目に怯えることもないだろう。事件は日々発生し、そして埋もれていく。再び魔女野慶治殺人事件が新聞で取り上げられる頃には、マコの存在なんて書かれずに、犯人と動機だけが書かれるだけだ。あとは他と同じように、数日で新たな事件に埋もれて見えなくなってしまうのだろう……。
湯が沸いた音に新聞を畳む。インスタントのコーヒーを取り出したところで、俺はふと、彼女から贈られたカップが割れたままだったことを思い出した。流しの隅に包んでおいたままのそれを机に広げてみる。改めて心が痛む。まだ捨てる気にはならない。
「接着剤じゃあだめなんだよな……」
できればもう一度、このカップでコーヒーが飲みたい。接着剤はうまく直せないだろうし、どうしたものか。考え込んでいると、チャイム音が鳴った。依頼人だろうか? ドアを開けて来訪者の顔を見ると、嬉しい驚きだった。そこにいたのは数日前に法廷で別れたっきりの、魔女野マコが立っていた。
「お久しぶりです。早乙女さん、その節はどうもありがとうござました」
「これは丁寧にどうも」
マコは相変わらず礼儀正しい。服装は今日もボーイッシュだが、白の花輪が満開だ。室内に招きいれると、マコはお礼にと手に持ったバスケットを差し出してきた。今までも勝訴を勝ち取った依頼人が菓子折りを持ってきてくれることはあった。ありがたく受け取る。机に置いて中を覗くと、ショートケーキをホール丸々、一個入っていた。
「ありがとう。すごいねえ、お持たせだけど一緒に食べる?」
「いえ。今日はお茶をしにきたわけじゃありませんので」
「そっか。でも、よく来れたね。迷わなかった?」
「いえ? 名刺に書いてあった所在地の通りに、車で送ってもらいましたから」
マコは俺の質問にテンポよく答え、にっこりと笑った。俺もつられて笑う。マコはこれから外国に留学するらしい。遺書がまだ全て見つかっていないものの、今ある財産や親戚との縁について話したり、留学の準備をしたり。そんな忙しい数日間が一息ついて、今日ここに来てくれたようだ。
「これからまた忙しいんだね。一人で大丈夫?」
「大丈夫です。……あの日、ぼくは法廷で早乙女さんに救われました。信じてもらえてとても嬉しかったです。あなたが守ってくれた、ぼくの真実を大切にします。だから大丈夫です」
微笑みながら、マコは花輪に触れる。良かった。俺もこの子に大事なことを教わった。これから先、どんな依頼人が来ても俺は信じて救ってみせる。
「早乙女さん、この破片は?」
「これは彼女が俺にくれたカップの成れの果て。ちょっと前に落としてわっちゃったんだよ。危ないよ」
机の上のカケラにマコが興味を示したが俺が制す。危険もある上に、もうそれ以上傷が増えるのは嫌だったのだ。ところがマコはゆっくりと首を横に振り、俺の目をじっと見て言う。
「……あなたに感謝しています。あの日法廷で、ぼくにとってのおじいさまを守ると同時に、あなたはもう一つ真実を守ってくれた」
「え?」
「ぼくが魔法使いであるということです。嘘つきだとか妄想だとか、そんな簡単な切り口があったにも関わらず、ぼくを信じ、最後まで否定しなかった。誰にもさせなかった。信じてくれて、とても嬉しかったです」
「……依頼人を信じるのが弁護士の仕事ですから」
その決意はもう揺るがない。俺の返答にマコは頷き、そして空中に両手を伸ばした。そのまま指揮をするように優雅に指を揺らすと──信じがたいことが起きた。柔らかな白の光がマコを包み、その指が揺れるたびに一つ一つカップのカケラが呼応するように浮かび上がってジグソーパズルように埋まっていく。それは見る間にカップの元の形を作ると、一瞬だけ強い光を発した。直後、部屋中に満ちた光は全て消える。
机の上には何事もなかったかのように、あのカップが鎮座していた。無残にわれていたのが嘘のように、傷一つ残っていない。
「は、……ハラショー」
思わず呟いた一言に、マコがくすりと笑んだ。……自分が魔法使いだと、マコが言うので信じていたけれど。まさか本当に、真の意味での魔法使いだったなんて……ッ!
目の当たりにしたこれは奇跡でも手品でもない。紛れもない魔法なのだ。深く考えていなかったが、マコの花輪もあんなにも枯れかかっていたのに、いつの間にか満開に……。
「あなたが信じてくれたから成しえた魔法です。少しはお礼になりましたか?」
「す、少しどころか……。とにかくありがとう。大切にするよ」
未だ動悸が激しい俺は呼吸を整えながら礼を言う。マコは笑って、腕時計を確認する。
「それではそろそろ失礼します。海の向こうから、あなたの活躍を祈っていますね」
「……ありがとう。マコちゃん、君に会えてよかった。君のおかげで、俺は大切なことに気付いたから。気をつけてね」
「留学から帰ってきたら、今度はお茶を飲みに来てもいいですか?」
「いいよ、カップも用意しておくから。いつでもおいで」
俺が笑うと、マコは赤くなってはにかんだ。それではとドアが開いて、マコの姿が見えなると俺はカップを持ち上げる。とりあえずコーヒーを飲むためだ。もう室内に魔法の形跡はない。けれども、マコの花輪の残り香とこのカップがなによりの証拠だ。……もう一度使いたかった。願いが叶ったことを難しく考えず、喜ぼうじゃないか。そしてコーヒーを飲んだら出かけよう。
少し冷めたコーヒーを注いでいると電話が鳴った。
「はい、早乙女法律事務所です」
「おはようございます早乙女さん、弁護士派遣委員です。今日もいい天気ですね。新しいお仕事をお願いしたいのですが」
……予定が少し変わった。コーヒーを飲んだらすぐに調書を受け取りに行って、そのまま留置所へ向かう。
その帰りに買い物をするのだ。白くて、花柄のカップを一つ探さなければ。いつか魔法使いとお茶会をするために。外出のためのメイクの時間はもういらないので、すぐに出れるだろう。
「了解しました。今度の依頼人はどんな方ですか?」
─完─
魔女裁判とランドセル 森亞ニキ @macaro_honey
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