第10話 相馬 美央
―――― side 相馬 美央
私の記憶は兄の笑顔から始まっている……一つ上の兄、相馬 夏希。
いつも一緒に居てくれて、困ったことがあったらなにも言わなくてもすぐに助けてくれる。
一緒に笑って、一緒に喜んで……一緒に泣いて。
私の思い出には必ず兄がいた。「美央」って見惚れるくらいの笑顔で呼んでくれる兄が私は大好きだ。
兄はすごくモテる。当たり前だ、私のにぃになんだから。
でも、いつからかにぃにが女の子と話したりしているのを見ると、なんだかもやもやとした気分になった……変だなって、何だろうってずっと思っていたけど、それが「嫉妬」なんだってわかったのは中学生になってからだ。
――――
ある日、いつものようににぃにの部屋に行くとそこに姿は無かった。帰って来てるのは間違いはない……だって、一緒に帰ってきたんだから。
トイレかな? じゃあすぐ戻ってくるよねって簡単な気持ちでいつものように部屋で待つことにする。ふと目にした机の上の広げられた学生鞄の中に、見慣れない封筒が入ってるのが見えた……その瞬間、胸がギュッと締め付けられる感覚を覚える。いつものようなもやもやっとしたものじゃなく、もっともっと強い感情……堪えきれずにふらふらっと机に歩み寄ってそっと封筒を取り出してみる。
綺麗なレターセットで書かれたその封筒。私にだってわかる……ラブレターだ……。
――誰かがにぃにに「好き」だって伝えている。
にぃにはもう返事をしたのだろうか? この子とお付き合いをするのかな? 私は妹なんだから応援してあげるべきだよね……。
そんなことを考えていると、階段を上ってくる足音が聞こえてくる。(にぃにが戻ってきた!)と慌ててラブレターを戻して何食わぬ顔でベッドに腰掛ける。
(大丈夫……普通にしていればラブレターを見たなんて気付かれっこないし……)
必死に落ち着こうとしてる中で、戻ってきたにぃには私を見てぎょっとした顔をしている。どうしたんだろ……?
「にぃにおかえりー」
「あぁ……どうした、美央……なにかあったのか?」
「えっ……何もないけど? なんで?」
「だって……お前、泣いてるじゃん」
私が……泣いてる? そっと目尻に指を這わせてみるとそこには薄っすらと涙が残った。なんで? どうして涙が出るの……?
「あ……あはは、欠伸をしたからかな? 昨日少し夜更かししちゃったから……」
「なんだ、びっくりした。眠いのならそこで寝てもいいぞ?」
「ううん、大丈夫。宿題まだだったからやっちゃわなきゃ……また後でね」
にぃにの部屋を出て、隣の自分の部屋に戻る……そのままぼふっとベッドに寝転がった。
「何でだろ……胸が苦しいよ……」
もしかしたらにぃにが私の知らない誰かと一緒に居るようになるかも、なんて思うとどんどんと胸が苦しくなる。何だかすごく落ち着かないし、にぃにの声が聞きたくて……いつものようにぎゅってしてって、頭を撫でてって言いたくてたまらない。
我慢が出来なくなった私は改めてにぃにの部屋に行くことにした、通い慣れているすぐ隣の部屋が今は何だか遠く感じてしまう……。
それでも、やっぱりにぃにの顔が見たくて仕方がないので、大きく深呼吸してドアをノックする……コンッコンコンッ
「にぃに、開けてー」
ノックの後に声をかけるとすぐにドアが開き目の前にはいつものように優しい笑顔のにぃに。何かを考える前に私はにぃにに抱きついていた……。
「ん?どうした美央」
そう言いながらそっと頭を撫でてくれるにぃに。いつもの手つきに思わず目を細めて甘えてしまう。
「んー、ぎゅってしてー」
ふぅ、っと息を吐いたにぃには両手で私を抱きしめてくれる。さっきまで苦しかった胸がすっと軽くなっていくのがわかった……あぁ、やっぱりこうしてほしかったんだ……って改めて実感する。
「甘えん坊だな、美央は」
そう言われたので顔を上げてみると、とても優しい目のにぃにがいる。あぁ、私はにぃにが離れてしまうのが怖かったんだ……寂しかったんだなって……この気持ちは「兄を取られる妹の嫉妬なんだ」と、そう思った。
中学に入ってから私は大きく変わった……主に体つきが。胸はどんどん大きくなるし、背も伸びた。友達と一緒に居ても「お姉ちゃん」って言われることが多かった。
そんな自分が少し嫌だったけど、にぃにと出かけるのは嬉しくって大好きだった。
だって一緒に出掛けていても「妹」だって言われることが無かったから。
男の子に声をかけられることも多くなった。ラブレターを貰ったこともあるけど、友達が言うようにドキドキなんてしなかった。
胸ばかりを見てくる男子が大っ嫌いだったし、ちゃんと私を見てくれるにぃにがますます好きになっていく。
そして私が中学2年になってからのある日、あの事件が起きた……にぃにがクラス中、あるいは学年、学校中とも言える女の子からアピールされ始めたのだ。
朝、家を出るとそこにはもう女の子が居たし、帰るときもすぐに囲まれていた……サイレントモードにしていたけれどスマホも持ち歩けないくらいに鳴り続けていたのも知っている。
日に日に、にぃにから笑顔が消えていった……それでも私に心配かけないように家では明るく居ようとするにぃにを見て思わず涙が出てくる。
そんな日が続いたある日の夜、私は自分の枕を持ってにぃにの部屋の前に居た。このままではにぃにが居なくなってしまう、そんな気がして……。
コンッコンコンッ……いつものノック、私だけの合図。
「にぃに、開けてー」
声をかけると、少し間をおいてドアが開く……そこにはいつもの笑顔のにぃに……ではなく、何処か悲しそうな笑顔のにぃにがいた。
「どうした美央、寝れないのか?」
こんな時でも私を気遣うにぃにに涙が溢れそうになる……見られないようにその胸へ飛び込んで「にぃに、一緒に……寝よ?」そっと呟く。
ふぅ、っと息を吐いたにぃにはそっと私の頭を撫でて「おいで」と部屋に入れてくれる、室内は薄暗くもう寝る準備をしていたようだ。
にぃにに続いてベッドに入ると少し狭い。それもそうだ、この頃の私はもう既に大人と同じくらい育ってしまっていたのだから。
「「おやすみ」」
示し合わせたわけでもなく二人の声が揃うと何だかすごく嬉しい。そのまま少し起きていたが、にぃにも寝つけないみたい……私は意を決してにぃにの方に身体を向ける。
「どうした……寝つけなっ」
にぃにが言いきる前にその頭をぐいっと引っ張って私の胸に押し付けた。ドクンッドクンッドクンッとすごい速さで私の心臓が鳴っているのがよくわかる。
「我慢しないで……いいんだよ?」
今思うと、この台詞は無いと思う……これじゃまるで……。でも当時の私には他の台詞なんて思いつかなかったし、にぃにはそれだけでわかってくれた。
私の背中ににぃにの手が回され、ぎゅっと抱き締められる……少しの間そうしていると胸元からくぐもった声が聞こえてくる……にぃにが……泣いている。
そっとにぃにの髪を撫でながら、私もどんどんと溢れてくる涙を止めることが出来なかった……。
いつも強くて、かっこよくて、明るい笑顔で私に元気をくれたにぃにだけど、そんなものはただの一面にすぎなくって。
本当はにぃにだって誰かに甘えたかったのかもしれない、助けて欲しいと思っていたのかもしれない……そう思うとこみ上げてくる言葉をどうしても止めることが出来なかった。
「いつも私を支えてくれてありがとう……でもね、私だって支えてあげたいの……いつまでも一緒に笑って居られるように、何でもしてあげたい……だから……」
ふっと自分が言いかけている台詞が頭をよぎる。そしてなんとなく……なんとなく真似をしてみただけだった……お母さんの。
「だから……もっと私を頼っていいんだよ、なつ君」
その瞬間、胸がきゅーっと締め付けられたのを覚えている……忘れるわけがない。
ずっと「にぃに」と呼んでいて初めて口に出した兄の名前。そして私は自分が今まで抱えてきた気持ちを一気に理解する。
――「にぃに」ではなく「なつ君」が好きなんだと……「兄」ではなく「夏希」というこの人が好きなんだと……。
――――
気が付いた時にはもう朝だった……どうやら二人ともそのまま眠ってしまったらしい、昨夜の記憶と違い私が腕枕をされているけれども……。
ふっと顔を上げると、そこにはいつものにぃにがいた……私の大好きな笑顔を浮かべて。
それから毎日一緒に寝ていたのでお母さんは絶対気が付いていたはずだけど何も言わなかった……ただ元の笑顔を取り戻したにぃにと私を見て嬉しそうに微笑んでいるだけだった。
その後、女の子のアピールをどうにかしようと家族で話し合った結果、徐々に落ち着いてはいったが完全になくなることは無く、最終的に引っ越すことが決まった。
にぃには私が転校することに申し訳なさそうにしていたが、私の周りに居たのはどうしようもない男子とにぃに目当ての女子しかいなかったので気にしなくていいのに。私にとってはにぃにが一緒に居てくれることが一番なんだから。
こうして引っ越した私たちはようやく普通の生活を取り戻した。もしまた何かあっても今度はきっとうまくやれるはず……もう二度とにぃにに悲しい思いはさせたくない、にぃには私が支えるんだって決めている。
今回の事で私たち家族で変わったことは、多分二つだけ……それは住んでいる住所と……私の気持ち。
あの夜以降、にぃにを名前で呼んだことは無い……もしもまた名前を呼んでしまったら……きっと私は、二度と「妹」には戻れないから。
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