第2話
「懐かしいなあ」
シャワーで濡らした奥村の髪はすっかり乾いていたが、奥村は自分のことが書かれた絵日記を読み進めていた。
なぜ自分の過去の書かれた絵日記が図書館にあったのかなどと野暮な疑問よりも、奥村は付きまとってくる現実から逃れられる絵日記にすがりついていた。
なるほど、司書の言っていたとおり、普段から本を読まない人は絵日記から始めるというのもあながち嘘ではないのかもしれない、なんてことを考えながら奥村は絵日記のページをまた一枚めくる。
いつのまにか、お風呂上りに淹れたばかりの紅茶は湯気を収めていた。
奥村には小学六年生の夏休み以来絵日記を書いた記憶はなかったが、読み進めている絵日記のなかには奥村の幼稚園から現在にいたるまでの思い出が鮮明に書き綴られていた。
紙質はいやに新しい。いったいだれがおれの絵日記なんかまとめていたんだ。それも社会人になってからまでなんて、我ながら退屈な人生にだれも興味がないだろうに。
絵日記にしてはボリュームのある内容で、奥村がふと目をあげたときには日付をまたいでいた。
「もう、こんな時間か」明日も仕事だと、奥村は懐かしい思いにひたりながら絵日記を閉じた。あのころの楽しかった思い出も、つらかった思い出も、絵日記によって思い出させられた記憶は昨日のことのようによみがえる。
「懐かしいな、そういえばおれは、魔法使いになりたかったんだ」
小学校の卒業と同時に下駄箱に置いてきた夢を思い出している奥村は、またあのころの下駄箱を開けると思い出があふれてきた。いまでは疎遠になってしまった渡辺くんも、あの頃好きだった廣田さんも、まだ若かった両親ですらも奥村の抱いていた魔法使いになりたいなんて馬鹿げた夢の存在のことは知らない。
小学生の奥村は、魔法使いになって世界を支配したかった。手のひらから火の玉をだして歯向かってくるやつらをけちらしてしまう無敵の魔法使いは、いつか戦争を止める抑止力として世界指導者になって、空中から争う人々を監視する平和の使者としての役割を果たすんだ。
笑うもんじゃない、子供なりに世界平和を真剣に考えていたんだ。
奥村は、ぼんやりとだが小学生のころの自分が考えていたであろうことを思い出していた。
「夢か、変わっていたんだな」
絵日記のなかの奥村の中学生のころの夢はプロのテニスプレイヤーだった、部活に入っていたというだけの理由で、世界をまたにかける有名選手になるつもりでいた、高校のときにも夢は変わらず、大学生になるとテニスを辞めて格闘技を始めたものだから、プロの格闘家を目指していた。そして社会人になって、自分の会社で営業のエースを夢見て、奥村は大人になっていった。
我ながら短絡的だと自嘲するように奥村は笑った。
「気づけば、手の届く夢を追いかけていたのかもしれないな」
魔法使いになる事と営業のエースになることは、大人してどっちが正しい夢なのだろうかなんてことを奥村は考えるまでもなく答えを導くことができた。
「おれは、大人になったんだ」
奥村は自分が成長したことを教えてくれた絵日記の表紙に視線を落とした。小学生ならだれしも使ったことがあるだろう大きな虫の写真が表紙の絵日記帳は、その存在だけで奥村の気持ちをノスタルジックにさせる。
「しかし、だれがこの絵日記を書いたんだ?」
奥村は自分のことをずぼらだと評価していた、今日にいたるまでなにかひとつのことをやり遂げたことがなかったからだ。なにをするにしても中途半端で、真剣に取り組むでもなく、かといって辞めるわけでもなく、これが自分の趣味であると自分に言い聞かせてずるずると続けていることも多い。けれど、奥村の不毛な趣味のなかに絵日記は含まれていない。
奥村は懐かしさから一転して不安と恐ろしさの入り混じった感情に足元から冷やされた。身に覚えのない絵日記なんてよく考えれば不気味でしかない、もしかすると自分は触れてはいけない世界に触れてしまったのかもしれない、奥村は背後に視線を感じて振り返った。だれもいない壁も疑心暗鬼になった奥村には不気味に見える。眠ってしまえば朝がくる、たった一時の恐怖から逃れるためには、さっさと寝てしまったほうがいいに決まっている。
早く寝てしまえ。耳元でささやいてくる悪魔を奥村は三度振り払った。
「挑戦するって、決めたんだって」
今日の奥村はひとあじちがう、恐怖に立ち向かうことに決めたのだ。絵日記を貸してくれた図書館に秘密があると決めつけて、部屋着のうえにジャケットを羽織ると部屋を飛び出した。
まだあの図書館はあるだろうか、もしかすると忽然と消えてしまって、図書館があった場所はもとの駐車場になってしまっているのではないだろうか。
逸る気持ちに押されて、奥村はいつぐらいぶりかの全力疾走をした。
「まだ、あった」
図書館は奥村を待ち構えていたかのように煌々と光をつけていた。
「おれが戻ってくることを、知っていたのか」
図書館にはいるやいなや、奥村は本を抱えた司書に詰め寄った。
司書はきょとんとした顔で「どういうこと?」と質問を返した。「わたしたちは、いつでもこの場所で図書館を運営しているだけで、あなたのことだけを待っていられるほど暇じゃない」
司書のいうことはごもっともだ、けれど、奥村にとっては突然姿を現した得体のしれない図書館であり、奥村本人以外はだれも知るはずのないことが書かれた絵日記を貸してくれる不思議な場所であることに変わりない。
どうしておれのことが書かれている絵日記があるんだ。奥村が尋ねると司書は何度も説明していると前置きをおいてから「ここは歴史ある図書館だから、あなたの歴史くらい置いてある」と答えた。
何度奥村が納得をいく説明を求めても司書は同じことを繰り返した。
ここは歴史ある図書館であり、だれの歴史でも保管されている。
「むしろ、どうしてあなたが自分の歴史が保管されていないと思っているのかわたしには分からない」
話がかみ合わないのは奥村の理解力が足りていないのだろうか、歴史ある図書館がなぜ突如として奥村の前に現れたのか依然として謎のままだ。
「歴史はただずっと同じ場所にある、あなたは、今日、たまたま、自分の歴史と向き合っただけのことじゃない」
「違う、おれは歴史と向き合うことを望んでなんていなかった。あなたがおれに歴史を押し付けたんだ」
歴史はなにも押し付けない。と司書は首をふった。「歴史をどう受け止めるのかなんて、あなた以外にだれが決められるっていうの」
奥村は混乱する頭を整理しようと口をとじた。
おれは、おれの意思で歴史ある図書館を訪れたのだろうか。だとしたら、何のためにまた歴史ある図書館を訪れたんだ、どうして自分の絵日記が保管されているのか知るためだけに乗り込んだのか、違うだろう、挑戦をするために明日の仕事のことを顧みずに歴史ある図書館を訪れたんだろう。
「おれは、魔法使いになりたいのか」
司書は「魔法使い?」と首をかしげる。「なにそれ、バカみたい」
司書の言葉を借りるとすれば「おれは歴史を受け止めたんだ」と奥村は回答した。「おれの歴史は、おれの夢を思い出させてくれた」
「魔法使いになる事が、あなたの夢なの」司書はいい年して夢がすぎるのではないかとバカにしたような目で奥村のことを見ていた。
奥村だって本気で魔法使いになりたいと思っているわけでもなければ、なれるとも思っていない。ただ、いまのままの生活をしていても幼いころに夢見ていた魔法使いには永遠に届かないことを歴史が奥村に教えてくれた。
「だけど、おれは魔法使いを目指す。ひとりくらい、子供みたいな大人がいたっていいじゃないか」
ありがとうと奥村は何をしてくれたわけでもない司書に感謝を伝える。
「わたしは何もしてないけれど、感謝だけは受け取っておくわ」
歴史はただそこにあるだけ。どれだけ時間がかかってもいいから、奥村は自分の歴史と向き合ってみることにした。
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