魔法使いになりたい

サボテンマン

第1話

 残業が当たり前になってきたのは、いつからだったろうか。

 奥村はちかちか光っていまにも消えそうな街灯に照らされる道をぼんやりと考えながら歩いていた。

 入社したばかりのころは、絶対に定時に帰ってやると強い気持ちで仕事をしていたけれど、仕事の量が増えてくるにつれて、かつての情熱はすっかり冷えてしまった。そもそも定時に帰ったところでなにをするわけでもない。

 いったい自分は何のために生きているのだろうか。

 奥村は何度となく繰り返した考えたくもない自問自答を今日もまた自分に投げかけて自分を追い詰めた。

 会社に自分の時間を捧げたところで、見返りに得られるものは雀の涙ほどの給料だけで、尊敬してもいない上司からお褒めの言葉をいただいたところで、苦労が報われるわけでもない。

 だったら会社をやめてしまえばいいじゃないか。奥村は自分のなかに潜んでいる悪魔に囁かれた。

 やかましい、会社を辞める勇気があったらとっくの昔に辞めているさ、せっかく乗った平凡な人生というレールを自ら脱線することはできないんだよ。

 奥村が無気力な態度を見せると、悪魔は寂しいやつだと悪態をついて消えてしまう。

 どうだ、悪魔退治をしてやったぞ。

 奥村は満足げに月を見上げた。今日は満月なのだろうか、月の満ち欠けに詳しくない奥村にはわからないけれど、満月だとしたら、月の明かりなどとでかい面をしておきながら消えそうな街灯にすら劣る矮小なものではないか、月なんて所詮は手の届かないところにあるから敬われているだけだ。

 ふと、奥村は足をとめた。

「こんなところ・・・」

 奥村は見慣れない図書館に立っていた。

 いつもの帰り道のはずだった、振り返ってみても見慣れた道が伸びている。しかし、奥村の前には見慣れない図書館が明かりをつけて建っている。

「初めて見る場所だ、いままで気づかなかったのか」

 決して些細な変化とは言いづらいほど唐突に奥村の前に姿を表した図書館は、奥村を待ち構えていたかのように街灯よりもずっと眩く蛍光灯の光で奥村のことを誘っていた。

 せっかく営業中のようだし、はいって、みようか。

 奥村は深く考えることなく足を踏み出していた。たまたま今日の仕事でチャレンジ精神のないことで上司から叱責をうけた反動なのかもしれない、奥村はいないはずの上司に後押しされて、未知なる領域へと足を踏み入れていた。

 明かりのなかにはいってみれば、そこはなんの変哲もない図書館だった、しんっと静まり返ってはいるが、だれもいないわけでもない、奥村以外にお客さんらしきひとはいないが、司書と思われる女性が、ゆっくりとした動きで左から右へ本を運んで後片付けをしているようだった。

 もしかして、閉店間際だったろうか。奥村は足をとめて場の空気をよんだ。自分は閉店間際に飛び込んでくる迷惑な客になってしまっているのではないだろうか。

 引き返そう。奥村は闇夜を振り返る。けれど、好奇心が足をつかんでいた、いま引き返したら大嫌いな上司に言われた通りのチャレンジ精神のない人になってしまう。

 さっき退治したばかりの悪魔が帰れ、帰れとささやいてくる。うるさい、おれは、そんなつまらない人間じゃないと、奥村は図書館の中へと足を踏み入れた。

 司書はちらりと奥村のほうを見たが、いらっしゃいませも会釈もなく仕事に戻った。どうやらご機嫌斜めらしいと、奥村は勇気をだしたことを危うく後悔しそうになった。

 いけない、いけない、せっかく勇気をだしたのだから、本の一冊でも借りないことはにはもったいないではないか。

 とはいったものの、普段から読書はまともにしないし、読むとしても紙ではなくスマホで読むばかりだ。

「いったい、なにを借りたらいいのか」

「これなんかオススメ」

 まるで友達にすすめるかのように本を紹介してくれる人はだれかとおもえば、さっきまでのんびりと仕事をしていた司書ではないか。接客業であるにも関わらず敬語を使わないことは社会人としてどうかと思うが、久しぶりに見知らぬ女の子に話しかけられて、奥村は悪い気がしなかった。

 まだ未成年だろうか、近くで見ると綺麗な子だなと司書のことを観察しつつ「どんな本ですか?」と尋ねた。

 奥村は差し出された本を受け取って中身をぱらぱらとめくった。「歴史書?」

「そう、世界中の偉人の生涯について書かれているの。歴史から学べることはとっても多いの」

 いかにも自分より年下の女の子から学びについて説かれると、自分が無知といわれているよな気になり、社会の荒波にもまれてすっかり角のとれた奥村といえど、やや腹立たしくもあったが、図書館の主人である司書の言っていることであれば、無視もできない。

「しかし、文字が細かい」そして文量が多い。これでは読み終えるまでに一生が終わってしまうかもしれない。

「困ったわね、ここは歴史ある図書館なのだけれど」

「難しい本ばかりですか?」

「そうでもないけど、退屈な本ばかりね」

 じゃあ、借りれるものはなさそうだ。奥村の脳裏に漫画は借りれないのですかと幼稚な質問は浮かんだものの、漫画を読むくらいであれば、図書館で借りる必要もない。

「だったら、こっちね」

 司書が差し出してきたもう一冊は、たしかに読みやすくて文量もすくない。なにより文字が大きい。

「これは、絵日記?」うすっぺらいノートは圧迫感もなく、歴史書を読むよりはずっと楽だろう。「しかし、極端な提案だ」

 普段から本を読まない人はまず絵日記を読むことから始めるものなのですと読書のスペシャリストであるはずの司書に真面目な顔で説得されると、奥村はそういうものなのかと納得させられてしまった。

「借りていく?」

 見ず知らずの人の絵日記を読める機会なんてそうそうあるものではない、と縁を感じた奥村は司書に進められるがまま借りていくことにした。

 

 奥村は、家に帰ってから夕食など一通りのルーティンワークをこなしたのち、濡れた紙が乾くまでの間をつかって絵日記を読むことにした。あの図書館はなんだったのだろうか、奥村は司書の顔が可愛かったなと思い出しながら絵日記を開いた。

「これは・・・」

 奥村はしばらく読みすすめてから、あることに気がついた。

「おれの、日記じゃないか」

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