整形外科医南埜正五郎追悼作品・兵庫きのさき温泉リハビリジイジと孫孫よろず相談ネット(スタップ事件の真相に迫る)
南埜純一
第1話 我が最愛の孫たち
三つ子の魂百まで―――という諺ほど強烈ではないが、それに類する印象に襲われる光景がある。我が人生の大きな反省材料の一つで、長女の娘、実はジイジこと私の孫でもある八歳のひな(正式名は日向代)に、大学の受講生だった人物からの電話の内容を聞かせてしまったことだった。
「ね、ジイジ。ジイジに電話かかってきたよ」
母親と里帰りしていたひなが、コードを目いっぱい延ばして受話器を書斎、といっても畳一畳分の天板デスクと本棚だけの殺風景な八畳間だが、そこへ運んできてくれたのだ。
「ごめん、ひな。ジイジは手が離せないから、そこのボタン押してくれないか」
統計資料と首っ引きの私は、孫にスピーカボタンを押すことを頼んだ。すると、いきなり耳に飛び込んできたのは、伊勢神宮を管内に持つ県庁幹部の教え子の声だった。
「先生、紅福に無期限の業務停止命令を下そうと思うのですが、何か、法律上の問題はありますか?」
「えっ! 無期限って、そんな命令を出したら、紅福はつぶれちゃうよ」
「いいんです。お伺いしたいのは、何か法律上の問題はあるかという点なんですが」
消費期限改竄(かいざん)をくり返す紅福に対し、改善命令を何度出しても、〈ウチは宮内庁御用達や!〉 と、〈宮内庁御用達〉を笠に着て、一向に応じてくれないと教え子はこぼしていたので、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだろう。ただ私まで一緒になって教え子をあおる訳にはいかないので、冷静さを取り戻させるべく、すでに把握している事実ではあるが敢えて尋ねてみた。
「これは消費期限改竄に対する処分だと思うんだけど、伊勢の名物紅福もちを食べた人で、誰か食中毒を起こした人でもいるの?」
「いえ、いません」
当然、予期した答えが返ってくる。
「それじゃ、雪っこ印の伊丹工場の生乳の消費期限の改竄事件とバランスを失するように思うんだけど。あのときは確か、半年か一年程度の業務停止命令で、しかも因果関係は定かでなかったけど、高齢者が一人亡くなっていたよね」
「確かにそうです。ただ先生にお聞きしたいのは、無期限の業務停止命令を下すことについての法律上の問題はあるかという点なんです。お答えいただけませんか」
宮内庁にまで迷惑をかける紅福に対し、よほど腹に据えかねているのか、温厚な教え子が急いで結論を知りたがる。
「食中毒もなしでしかも無期限の業務停止なんて、食品衛生法での対処は無理だから、JAS法で行くしかないね。JAS法を根拠にすれば、法律上は可能だけど、ただ‥‥‥」
「分かりました。JAS法を根拠にすればいいんですね。有難うございました」
まだ迷っている私を無視して、教え子は結論を知ると直ちに電話を切ってしまった。
「エーン! ひなの大好きな紅福つぶれちゃったら、ひな、もう伊勢の名物紅福もち食べれないよー!」
なんと! とっくに居間へ戻ったと思っていた孫が部屋の片隅にとどまっていて泣き出したではないか。
「大丈夫だよ、ひな。伊勢の名物紅福もちはこれからも食べられるから」
「でも、ジイジ。さっき紅福つぶれるって」
「うん、紅福は悪いことしたから罰を受けなきゃいけないのは分かるね。それの話を今していたんだ。もし紅福がつぶれても、受け皿と言って、紅福と同じものを作る会社に同じものを作らせるように、さっきのおじちゃん達が持って行くから、大丈夫だよ」
大きな会社の破たんにゴーサインを出す時は、従業員の就職先確保等の社会的安全を考え、行政は大抵受け皿企業を用意する。北海道拓銀(拓殖銀行)の破たん処理以降慣例となっているといってよく、これは不二ペコちゃんケーキが消費期限改竄事件を起こしデイでいヤマザッキの傘下に入った時も同じ処理がなされている。だから、私には教え子の考えている先は手に取るように分かった。が、八歳のひなにはもちろん分かる道理がない。
「ね、ジイジ、どんな会社なの?」
「おくふっていう会社だろうね。紅福とほとんど同じものを作っているから」
「でも、ひな。紅福がいい。ジイジ、紅福を守るためにはどうすればいいの?」
「一番てっとり早いのはね、受け皿を無くすこと。さっき言ったおくふを調べて、紅福と同じように、しちゃいけない食べられる期間の延長。例えば5日までしか食べられないのに、15日まで食べられることにしてしまう、消費期限の勝手な延長って、知ってるよね。あれを紅福と同じようにやってたじゃないかって、攻撃すればいいんだよ。もしおくふに不正が見つかれば、紅福はすぐには潰されず、上手く行くと持ちこたえられるよ」
おくふも同じ不正に手を染めていれば、教え子の行政チームは泡を食って先へ進めなくなるが、紅福の立場に立てば生き残りをかけてその程度の調査は当然仕掛けなければおかしいのだ。
「ふぅーん。ジイジのしていること、面白いな。ひな、ママのようにお医者になるんじゃなく、ジイジのように困った人やつぶれるような会社を助けるお仕事をしてみたい」
あのとき、八歳の少女の目が将来を見据えてキラリと光ったのを覚えている。しかも、紅福の処理が説明通りになったことも、母親の呪縛を離れ、祖父の生き方に傾くきっかけを作ってしまったようで、長女との関係を思うと、ジイジは何とも後ろめたい気になってしまったのだった。
さて、あれから十年の月日が流れ、八歳の孫のあのときの瞳の輝きもすっかり忘れ去られようとしていた平成から令和の時代にかけて、我が家に激震というか、我が家は激動の渦に巻き込まれてしまった。
まず平成最後の年、というと令和の元年に当たるのであるが、この年に、我が家にとって最初の大事件が起こった。しかも、それから一か月の時を空けず第二の同様事件が起こるというオマケつきだった。まず一月に次女が離婚すると、まるで共謀を巡らしていたかのように長女も離婚してしまった。しかも私と妻には三月になって初めて、事後報告という形の何とも手の施しようのない、問いただし修復する余地もない残念極まりない結果報告だったのだ。
「マーちゃん(雅子)と一緒になっちゃったけど、私も旦那と別れちゃったの。マーちゃんとこが一月で、うちは二月に協議離婚が成立したから。―――あ、ちゃんと離婚届けは出してあるし、子供の親権は両方とも、母親である私たちが持つことになってるから安心して」
長女の祥子から三月二十三日。桃の節句から二十日経って、ようやく我が家へかかってきた電話だった。後で分かったことだが、孫たちの公立大学の前期日程の合格発表に合わせての報告だった。
「昭和の時代にたっぷり浸かった我々と違って、昭和より平成の方が長い娘たちには、離婚は大した問題ではないのだろうか。孫たちは傷つかないのかね」
祥子の清々した口調での伝達に、私はひとこと苦言を呈したかったが、言っても無駄。そう、親の言うことなど聞いたためしのない娘だったのだ。いつものように苦笑いを浮かべ、私は妻であるバアバにため息交じりに長女からの電話内容を伝えたが、危機状況下での妻の行動は単純明快。くどくどと愚痴っぽい言葉を発することはなく、即、行動であった。
黙って、本当に黙って二階へ上がると、バアバは整理ダンスの奥から大きなオレンジ色のリュックをビニール袋に入ったまま取り出してきた。居間で黙々とリュックに衣類その他を詰め込むと、私に断りも入れず、それを背負ってJR山陰本線城崎温泉駅へ小走りに駈けて行った。
「いま家を出たって、雅子に電話し―――」
庭先から、私はバアバの背中に一声かけようとしたが、途中でやめてしまった。隣家の山田さんちの角を曲がって姿が見えなくなっていたし、自分で駅から携帯で連絡を入れるだろう。それにバアバの行動はシンプル極まりなく、簡単に予測が立つのだ。
まず、三重の松阪で整形外科医をする次女のところへ今夕に着くと、恐らくそこで一泊。翌早朝には松阪を出て、千葉の成田で小児科医をする長女宅へ向かう。これ以外に考えられなかった。
―――今月末に、ひなもつつ(包子)も高校を卒業するというのに。
同い年の孫のことがどうしても気になってしまう。バアバが城崎温泉駅に着く頃、私はゆっくりと玄関へ入って再びため息をついてしまった。娘たちの男親である私は、彼女らの夫には全くといってよいほど興味はなく、ただ孫たちだけが関心の対象であった。
そもそも娘たちの二人の夫には当時も今もほとんど、いや、まったく興味はなかった。結婚にしても、何も親が学生結婚だからといってその真似をする必要もないのに、というのが、すでに二十年も前になってしまったが、結婚報告に訪れた義理の息子たちへの私の偽らざる心情であった。
父親である私ですら、とっくの昔に制御をあきらめた娘たちなのだ。どんな結婚生活であったか想像でしかないが、よく十八年余りも結婚生活が続いたものだ。ご苦労だったね。本当にご苦労さん、そしてサヨウナラ。
おそらく直接かける機会はないであろうが、元義理の息子たちへの私の正直なねぎらいと別れの言葉であった。
そんなことを考えながら、妻がいなくなった我が家の玄関へ上がると、娘たちがいたころはそれなりに活気があったが、妻と二人きりになるとだだっ広いだけが目立つ印象の家になってしまった。それも今日から当分、私一人になってしまう。
妙にセンチ(センチメンタル)な気分で、玄関右手の書斎から、ガラスサッシ越しに庭のモクレンと遅咲きのピンクの椿を眺めていると、十時過ぎに役所勤務の教え子からの電話がベルを鳴らせた。五年前に政令指定都市の上級職に合格して、昨年から税務課に配属されていた。
さて、相談の内容は、二十年以上にわたって固定資産税を過徴収していたことに気付いたが、どうすればよいかというものだった。税務債権は公法上の債権だから、一般の民事上の債権と違って、時効期間は五年。この裏返しとして、多く取られ過ぎていた税金の返還請求権も時効期間は五年。
結局、多くとり過ぎていた五年間分だけ住民に返せばよい。しかしこんな杓子定規な解釈でお茶を濁されたら、長きにわたって余分に税金を払わされていた住民はたまったものではないだろう。さすがに最高裁もこのような解釈を捨て、近時に至り、ほん最近に至ってであるが、本件事案のような場合、国家賠償法の適用を認めて二十年分の過徴収分を損害として認める方向にある。つまり公務員の過失によってもたらされた損害の発生があるとして、トータル二十年分の過徴収分を返還させようとする解釈である。
ただ教え子の相談は、このような単純なものでなく、自分が上司に報告することによって、これまで気付かずに過徴収してきた人たちの責任問題が発生することであった。彼らに嫌われることをしたくないだ。
「税の徴収という権力的行為の場合は、大学の講義で何度も言ったように、特に透明性の確保が必要な分野だから、すべて、すっかり明るみに出すべきだね。もちろん、過徴収してきた住民に対する謝罪は当然として」
今回の私のアドバイスは、危機状況下におけるバアバの行動と同じく、単純明快であった。
「分かりました。やっぱりそうですよね。すぐ、課長に報告しに行ってきます」
「あ、その時ね。課長がもみ消す気配を見せるようだったら、既に私に相談したことを伝えればいいよ」
あるべき方向でなく、よくある、あらぬ方へ向かう懸念は払しょくせねばならなかった。教え子にとって、隠ぺいの片棒を担がされてしまった挙句、結果、後々にまで類が及ぶことだけは避けさせねばならないのだ。既に私に相談してしまったと伝えれば、上司にとって、覆い隠したいという誘因は消し飛んでしまうので、こういう場合は、最後のダメ押しに私の名前を使ってもらう。
午前の相談はこの件の一つだけで、あとは庭へ出て木蓮の木の下で柔軟体操をこなす。娘たちがいたころは、うっそうと茂る木蓮の太い枝をつかみ五十回の懸垂。これが日課だったが、さすがに六十を過ぎるときつくなったというか、六年前、トラックにはねられ体に無理がきかなくなってしまったのだ。
書斎へ戻り、コーヒーメーカーに豆を入れ、手順に従ってカップに降りてきた香ばしいコーヒーをブラックで味わう。色々と便利なものができてきて、どっぷり昭和のアナログ人間には本当に助かる。この最新鋭だったコーヒーメーカーは二年前、最々新鋭とでもいうべき二代目が販売されると、お払い箱になってしまい、祥子宅のシンク下収納庫に長い間、眠っていた。それをバアバがもらい受け、我が家で復活デビューを果たしたのだった。
時間を切り売りして暮らす娘たちは、時間節約の便利グッズに飛びつくようで、新製品が出ると、あっという間に旧製品は引退の憂き目を見てしまう。それを〈勿体ない教〉の信者であるバアバが引き取ってきて、我が家で存分な寿命を全うするのだ。
さて昼近くなったので、観光客で賑わう駅前へ歩き、寿司店大関の涼しげな透かし暖簾をくぐって、格子ガラスの引き戸をスルスルっと開ける。
「いつもの寿司定食、お願い」
と、備州檜の白無垢カウンター越しにマスターに注文する。ネタが新鮮なうえに茶わん蒸しがついて、値段も手ごろだった。バアバがいないときは、ここか筋向いの広島で定食を食べるのが私の楽しみの一つになっていた。食後の茶と雑談を堪能し、
「ごちそうさま」
マスターとママに別れを告げて、私はリハビリを兼ね、円山川に沿った散歩道を城崎街道海の駅まで足を延ばす。街路樹の新緑が目にまぶしく、肌をなでる風も春の息吹を含んで甘く心地よかった。まさに風光明媚、この形容は城崎の街にこそふさわしい。しかも穏やかな一面を持ちながら変化にも富む気候においしい魚。訪れる観光客に喜ばれるのは当然としても、一年を過ごす住民にとってもこれほど住むのに快適な土地柄はないのではないか。住めば住むほど、ジイジたる私は城崎に魅了され、日々新しい魅力に身も心も洗われるのだった。
いつものように、たっぷり二時間かけて散歩から帰ってくると、家の電話が鳴っていた。バアバからだと思う。携帯を家に置いたまま出かけたので、連絡できなかったのだろう。
「あ、お父さん、やっと戻ってきたのね。私はさっき雅子とこへ着いて、今一緒にお茶飲んでるとこ。うん、―――つつ(包子)もここにいる。全然平気みたい。今年は休学するんだって。そう、大学へは通わないらしい。ひなも今年は大学休学するんだって。明日、つつと一緒に成田へ行くから、しばらく私は成田と松阪を行ったり来たりだから。食事は栄養を考えて、ちゃんと作って食べてね」
孫たちは母親が出た大学の、前期日程の試験に合格したが、休学届を出したとのこと。敷かれたレールへの反抗のため、恐らく連携を取りながら、母親に対する共同の抵抗戦線を張るつもりなのだろう。医者になるにしても、ゆっくり考えたいというのが二人の口癖だったし、この点は、母親たちにも全く異論がなかったのだ。
「こちらは全く大丈夫だから。心行くまで手伝ってあげたらいい。もしご飯作るの面倒になったら、日替わりで駅前の食堂街の一軒一軒を訪れるから」
冗談半分、本気半分で、私はお気に入りの食堂の名前を出して、妻を安心させた。温泉町城崎は食道楽には天国のような街で、美味しい料理店には事欠かなかった。
―――さて、ゆっくりと男の一人所帯でも味わうか。
バアバが娘たちのところへ出かけてしまった夜の、書斎横の寝室、そこの布団へ入った私の独り言で、定年後の妻の長期不在を楽しむつもりだったが、目論見は一週間もせずに外れてしまった。孫たちは卒業その他の手続きを済ませると、高3の春休みの延長気分そのままに、それこそ足取りも軽やかに、まさにルンルンと城崎町桃島の我が家へやってきたのだった。
バアバが出かけた日から六日後の三月二十九日、金曜日の正午前のことだった。今日も駅前の大関か広島で定食を取ろうと、コーヒーカップを流しへ運ぼうと立ち上がると、
「ピンポーン!」
単なる気のせいか、それとも全く異次元のチャイム音であったのだろうか。妙な胸騒ぎに襲われながら、インターフォンを取らず玄関戸を開くと、
「ワッ!」
対照的な二人の孫が同時に声をあげ、
「ジイジ、バアバの代わりに私たちがジイジの世話をしに来たからねー!」
超特大リュックを背負ったまま、両サイドから私に抱き着く。高1の春休みに会って以来の、懐かしい、それこそお宝のお目見えだった。
「おーお!」
私は声にならない声を上げ、喜びで顔をくしゃくしゃにして孫たちを抱きしめた。ホント、涙が出そうになる。
「しかし、まあ……」
二人を見るといつも同じ言葉が頭に浮かぶ。
―――足して、二で割る。
私の理想だが、このフレーズにはこれまで完璧に裏切られてきた。娘の祥子と雅子もそうだったが、すらりと背の高い美人顔のひなと、背の低いまるみをおびた愛嬌満点顔のつつ。身長に限っていうなら、ひなはジイジ似で、つつはバアバ似であった。足して二で割った孫たちであったなら、恐らく芸術作品との評価が与えられるのではないか、とまではいわないが、ともかく両極端な二人で、これは性格についてもいえることであった。
さて、孫たちが城崎の我が家を訪れた、この三月二十九日を境に私の生活は一変してしまうのだが、これは単なる序章というか予告に過ぎなかった。ワクワク、ハラハラ、ドキドキの何ともジェットコースターのような、そんな日々が待ち受けていたのだった。
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