第10話 娘、成長する!!
目の前のスープと同じくらい顔が熱くなるのを自覚し、受け取った黄金色の液体に匙を沈ませる。
皿の底まで見える透き通ったスープ。
掬った匙を口に含めば、マリアは大きく目を見開いた。様々な具材のうまみが空腹の身体に直撃し、滋味がゆっくりと身体に染みわたっていく。
「――おいしい」
「よかった。マチュリさんの特製薬膳スープだから大丈夫だとは思うけど、病み上がりだから無理しない程度に食べてね」
「うん。ありがと」
それからマリアは一言もしゃべらず食事に没頭していた。
クルトの話ではまともな食事をするのは六日ぶりだそうだ。
それまでは栄養価の高いリャンガの希釈液を回数を分けて飲ませていたらしいが、確かにこのおなかの減りようは尋常じゃない。
気づけば空っぽの胃に固形物はまだ早いということで用意された穀物を水でふやかした粥も行儀を忘れて夢中で胃の中にかきこむほどだった。
「――んぐんぐ、プハァ、食った食った。――ごちそうさまでした」
「ははっ、その様子だともう大丈夫そうだね」
「うん。本当においしかった、……誰かが作ってくれたごはんなんてほんといつぶりだろう」
「そこまで満足してもらえたなら、腕を振るったマチュリさんも喜ぶと思うよ」
アマリがまだお腹の中に入っていたころほどではないが、それでも誰かの手料理でここまでおなかが膨れたのは久しぶりだ。
正直、いま動くのはちょっと無理そう。
小さく息をついて少し大きく膨れたお腹を擦れば、クルトも同じように満足そうに息をついた。
「でも本当に回復してくれてよかったよ。慌てて駆け付けた時には本当にひどい状態だったから」
「まぁ、あんな化物に襲われちゃね。……でも」
「ああ、うん。アマリちゃんなら大丈夫。健康体そのものだよ。僕が保証するよ」
そう言って立ち上がったクルトは、動けないマリアの代わりに揺り籠の中で眠るアマリをそっと抱き上げた。
「今は疲れて寝てしまったみたいだけど君の容態が安定するまでずって傍を離れようとはしなかったんだ。赤ちゃんなのに本当に聡い子だよ」
「……うん。ボクの自慢の娘」
胸元そっと娘を抱え直すと、じんわりと温かい熱が胸の内側に広がり、改めて湧き上がった安堵が胸の中に溶けて混ざる。
生きてる。
二度と抱きしめることができなかったかもしれないと思うと余計に泣きたくなる。
改めて実感する現実に思わず娘の頬を優しく撫でれば、むず痒そうに口を動かしたアマリの鼻息が小さく部屋になった。
その間抜けなイビキにマリアは思わず笑みを噴き出すと、
「また助けられちゃったね」
「うう――」
浮かび上がった涙を片手で拭ってその額に優しく唇を押し当てた。
すると、無意識なのだろうか。アマリの小さな手の平がマリアの襟をずり下ろそうとするではないか。
きっとおなかがすいたのだろう。
するといままでその光景を微笑ましそうに見つめていたクルトから声が掛かった。
「あー、僕、ちょっと席をはずそうか? 親子水入らずで過ごすのも大事だし」
「えっ、あ、でも、まだアマリ起きてないし――ッ!?」
「へっ――?」
そこで最悪の事件が起こった。
襟元を握っていたはずの娘の手のひらが勢いよく振り下ろされる。
そんなことをしても普通の赤ん坊なら服が伸びる程度で済んだはずだ。
しかし、忘れてはいけない。この子は普通の子供ではないのだ。を
少し肌寒いなと思った時にはすでに手遅れだった。
いや、もしかしたら無意識なのかもしれない。
それは襟元からへそ辺りまで一気に裂かれ、遅れて胸元から不吉な悲鳴が聞こえ、隠していたはずの柔肌が露わになる。そうなると必然的にその下に隠れているはずのマリアの平たい胸がクルトに見られるわけで――
「あ、あああ、ああ」
沸騰しそうになる熱が強制的にマリアの思考を停止させる。
そして混乱する感情が限界を超えたとき――、クルトの私室に絹を裂くような甲高い声が響き渡った。
◇◇◇
「あー、その、古いシャツだったのかな。まさかあんなにきれいに裂けるなんてその思ってなくて、その――ごめん」
「うう、謝らないで、っていうかもう忘れて、お願いだから」
今すぐにでも布団をかぶって震えたいがそうもいっていられない。
扉の奥からは直ちに退散したクルトの声がしきりに謝罪の言葉が聞こえてくるが、マリアの内心は穏やかでいられなかった。
何を機娘みたいなことを言っていると言われようと、マリアは今年で十六だ。
本来なら農家の娘としてどこかへ嫁いでもおかしくない歳である。
マリアとて、冒険者として平穏な最期は望めないことを覚悟していたが、それはそれで羞恥心は別だ。
異性に身体を見られても割り切れるような精神構造はまだできていない。
「ああ、というか。男を知る前に赤ちゃんうんじゃってるんだよなボク」
「あう?」
乳頭から唇を離したアマリが不思議そうに首をかしげるが、たいして気にしていないのか再び乳房にかぶりつく。
今回は、反射的に羞恥に晒されたマリアが繰り出した平手が炸裂するなどというひと悶着があったものの、替えの着替えを用意してもらい事なきを得たが、そう悠長なことも言っていられないだろう。
なにせ、いままではあれがアマリなりのご飯の合図だったのだ。
もし街中であんなことをされれば、今度こそ変態のレッテルと共に羞恥心で死ぬことになる。
「これからはちゃんと、この子にも躾もしなきゃいけないのか。あーちゃんとできるかな」
新たな課題に頭を抱えつつ、娘の成長が嬉しくなるという複雑な感情に思い悩まされながら服のボタンを一つずつ止めていく。
そして――
「もういいよクルト、入ってきても。アマリも満足したみたいだし」
そう言って入室の許可をだすと、向かいの扉が重苦しく開け放たれた。
トボトボと暗雲を頭に乗せたクルトが部屋に入ってくる。
何やら正面は見られないらしい。よくそれで医術師が務まるなと思うが、そうなると付随して身体に刻まれていたはずの爪痕消失の謎にも触れることになるので、強制的に思考を閉ざす。
「あーもう、いつまで落ち込んでんのさ。あんたは騎士様で医術師なんでしょ。年頃の女の柔肌一つや二つ見慣れてんでしょってかホントに忘れてボクまで恥ずかしくなるから!!」
「うう、ほんとうに申し訳ない!! その見る気は全然なくて――」
「いいから忘れる!! ボクも気にしてないから!!」
「けぷっ――」
赤面しつつも娘の背中ポンポンだけは忘れない。
どちらも騒動の被害者なのだが、どうも目の前のお人よし様は善性が過ぎる部分があるようだ。
役得だと思われればマリアもまだ救われたものを。こうまで純情な反応をされるとは思わなかった。
「あと、アマリ!! ああいうことは人前でやっちゃいけません。めっ!! だからね」
「きゃはははははっ」
騒動の原因はすべてわが娘が原因だというのに、マリアとクルトを見比べて満足そうにはしゃぐアマリ。
どうやら何に対して怒られているのか理解できていないらしい。
まだまだ育児の道のりは長そうだ。
「ねぇ、クルトって医術師なんでしょ。育児とかって詳しかったりする?」
「えっ、いや。どっちかっていうと僕の専門は傷の治療とか処置とかでそこまでは――、簡単なお世話程度はできるけど、正直その――自信ない」
「医術師なんだから子供とかで遊んだことないの? 君ならそこらへんの未亡人や子連れの女でもころっと落とせそうなもんだけど」
「あー、さっきの反応で察してほしい」
「なるほど把握した」
げんなり重い溜息を吐き出し、子供慣れしてそうなクルトを見ればいないなことに申し訳なさそうな声が返ってくる。
どうやら本気で女性が苦手なタイプの人種らしい。
いまどき珍しいタイプだが、この世にはいろいろな
「でも君が女嫌いだなんて意外だね。その甘い顔で多くの人を騙してそうなのに」
「嫌いなんじゃなくて苦手なんだ。むかし、ちょっと厄介なトラブルがあってね。それ以来、女の人が怖くなって」
「へー、じゃあボクは平気なんだ」
「え? だって君はむぅ…………………………なんでもない」
「おい、こっちを見ろ。というかいまなにを見て、いいかけた?」
「あー、いやその別に僕はそこだけを見て判断している訳じゃなくてね? ただ純粋にわかりやすくていいなーと、ちょっと苦しいからこの手を緩めようかマリア」
咄嗟に言い直したようだがもう遅い。
スープのおかげか活力の戻った腕を吊り上げていけば、マリアの眼光が三割増しで鋭くなる。
「へぇーほぉー、やっぱり胸か。胸か胸なのか。男はケダモノだってよく聞くが、やっぱり君もそういう奴だったんだ。この裏切り者!!」
「なんのことかわからないけど落ち着こうマリア。たしかにスープの中に入ってる薬草には若干の興奮作用があったけど――ってマリア、ちょっ締まってる締まってる!!」
「うるさい!! 男なんかに期待した僕が馬鹿だったよ!!」
「なんのことッッッ!?」
掠れた叫びも虚しくマリアの手によって前後左右に揺さぶられるクルト。
あと少しで絞め落とせるという段になって力を込めようとしたところで、マリアの鼓膜に鈴を鳴らすような音が聞こえてきた。
「まま」
「ああ、ちょっと待ってって久々だから頭に来ちゃった。出会ってまだそんなに立ってないけどさすがにこれだけは譲れない。今からその腐った性根を叩き――」
「まま」
「だからちょっと待って、いまコイツの――ん?」
そこで勢い良く動いていた思考が唐突に止まった。
あたりを見渡してもクルト以外誰もいないし、クルト本人も大きく目を見開いている。
「ねぇ、子供の声しなかった。近所に悪ガキでもいるの?」
「いや、確かに子供はいるけどそんな悪戯好きの子はいなかったと思うけど」
「でもいま、ままって――まさか君じゃないよね」
「周りからは若いとか子供っぽいって言われることが多いけどさすがにそれはないよ」
「まま」
「ほら聞こえた。えっ、じゃあこれって誰の声」
するとクルトの指先がマリアの胸元やや下に落ち、なぜか微笑ましいような顔でこちらを見ていた。
そしてそのしたり顔に従って視線を落とせば、
「ままっ!!」
力いっぱい明るい声でこぶしを握る娘と目が合った。
「アマリ、おまえ――。遂におしゃべりできるようになったの!?」
「まま、まま」
いつの間に!!
少なくとも今までは「あー」とか「うー」とか唸り声だけだったのに。
「あー、それはマチュリさんのおかげかもね。君が昏睡している間、アマリちゃんのお世話は僕と彼女が交代でやってたから」
喉元を抑えて咳を苦しそうに繰り返すクルトの言葉に納得する自分がいた。
なるほど道理で知らないはずだ。
きっとその女性が世話をしているうちに口調がうつったのだろう。
どちらにせよこんなに嬉しいことはない。
思わず娘を持ち上げれば楽しげな声と共に何度も同じ言葉を連呼する。
まだ一単語だけだが、どうやら自分が『まま』だと認識してくれたらしい。
まさかこんなに早く自分の名前を呼んでもらえるなんて思ってもみなかった。
そうして太陽のように顔をほころばせる娘をしっかりと抱きしめると、マリアは愛おしげに娘の頬に自分の頬をすり寄せるのであった。
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