第9話 聖母、一難去ってまた一難 ≪安堵篇≫
まず初めに目についたのはその覇気のない童顔だった。
年は二十代といったところだろうか。
これと言った特徴のない清潔感のある白いシャツを着ているが、たとえ一般的なセントアレイ市民であってもあの整った容姿は目を引くことだろう。
やや上背のある細身の体に、薄く色素の抜けた金髪。海よりも青く透き通る
おそらく、そこそこの身分の高い人間かなにかだろう。
彼は一度、信じられないものを見たかのようにマリアを一瞥すると、知ってか知らずかまるでマリアと長い間親しい間柄であったかのようにホッと頬を緩めてみせた。
「よかった。ようやく目覚めたんだね。四日も目覚めなかったからどうにか――」
「アマリは、アマリはどこだ!!」
「ちょっ!? 危ない」
頭の中の理性が瞬時にはじけ飛び、反射的に男に飛びつく。
やっと降ってわいた記憶の手掛かりなのだ。
男に掴みかかるようにして壁から手を離せば、案の定バランスを崩したマリアの身体が危うく転倒しかける。
男が慌てて抱きとめなければ、マリアの身体は再び床に叩きつけられ少なからず傷を負ったことだろう。
重力に従って滑落する身体をどうにか男の肩を掴むことで耐えると、その糊の効いたシャツの襟を掴み上げ、藁にも縋る思いで男を睨みつけた。
「アマリは、ボクの娘はっ――」
震える足が頼りなくマリアの心情を吐露している。
もしもがいくつも頭に思い浮かび、その度に心臓どころか胸まで締め付ける思いに目尻が熱くなる。
そうして興奮気味に息を荒げ、男の返答を待てば、一旦大きく見開かれた青玉の瞳がやがて柔らかくなり、その大きな掌がマリアの手に静かに置かれた。
「大丈夫。大丈夫だから落ち着いて、君の赤ちゃんならそこにいるから」
「えっ――」
そして、まるで割れ物でも扱うかのような仕草で背中を擦る男の指先が、マリアの背後を指す。
その指先を辿り、勢いよく振り返れば、確かにアマリはいた。
布にくるまり手押し車のような揺り籠のなかでスヤスヤと寝息を立てている。
マリアが飛び降りた反対側のベットが影になって気付かなかった。
思わず飛び出して抱き上げたい衝動にかられ、最悪の事態に至ってはいなかったことを認識すると、次第に張り詰めた心の緊張がほどけ、それに伴ってマリアは崩れ落ちるようにして地面に座り込んだ。
「――生きてる」
遅れて飛び出る嗚咽を必死に堪えれば、胸に広がる安堵が現実を帯びていくつもの涙に変わった。
本当に、本当によかった。
そうして男の方に顔を押し付けることしばらく。
「落ち着いたかい?」
「え――っ? あ、うん」
頭上から降ってくる優しげな声にきまり悪くなって思わず頷いた。
「その、……ごめん。いきなり掴みかかったりして」
「無理もない。あんな恐ろしい目に合えばね」
まさか異性の肩に抱かれて泣く日が来ようとは思いもしなかった。
歯切れ悪くそう答えれば、何でもないように生温かい微笑みが返ってきた。
先ほど晒した醜態に極まりが悪くなり首をすくめれば、いつまでも異性にしがみついているという事実にようやく気づいて声を上げる。そして――
「ちょっとごめんね」
何の意味か測りかねていたマリアの空白を塗りつぶすように、マリアは驚き身をすくめた。
両足がサッと攫われ、いつの間にか横抱きに抱えられる。
これは、噂に聞くお姫様抱っこと言う奴だろうか。聖堂院で男の萌ポイントなるよくわからない話題で盛り上がったことはあるが、これは、想像以上に恥ずかしい。
そんなことを考えるのも束の間、細い割には逞しい男の身体に揺られ、ゆっくりとベットに腰を下ろさせると、瞳の奥に宿る青玉の瞳がマリアをのぞき込んだ。
「えっと、ありがとう、ございます?」
「ふっ――、どういたしまして。これくらいなんでもないよ」
「なんでもないって――命の恩人だからって初対面の相手にお姫様抱っこってのはちょっと気やすすぎない?」
「初対面? どういうこと?」
「いや、どういうことって聞かれてもボクの方が困るんだけど、え? なにこれ? ボクがおかしいの?」
あたりを見渡してもマリアに賛同してくれる人間はいない。
マリアが浅学なだけで、騎士の間では腐女子は横抱きにして運ぶべしとでも教育されているのだろうか。
頭の上にいくつもの疑問符を浮かべていると、おかしそうに笑う男と何度も目が合い、首をかしげてみせた。
「結構混乱してるみたいだね。……治療前に処置された万能薬の副作用かな? とりあえず無事に目覚めてくれて本当によかったよ」
「……おかげさまでずいぶんな醜態をさらしたみたいだけどね」
「何度も言うけどそれは仕方がないさ。魔獣に襲われて平気な人間はいない。君の身体も十分危険な状態だったっていうのに自分の身体のことより子供の安否を心配するなんて、――やっぱり親子なんだね」
やんわりと伸ばされた右手がマリアの頭を撫でたとき、マリアは言い知れぬ感覚が胸の内に沸いたことに大きく目を見開いた。
いまマリアはなにを考えた?
剣術ですり減った皮の厚い手のひらがマリアの赤髪を丁寧に搔き乱す男の姿を見て、頬を膨らまそうとしている自分がいる。
そうとしているじゃない。実際にしているのだ。
これじゃあまるで子供扱いじゃないか。
年上の男にこんなことされるのは初めてというか、いままでこれほどまでに急所である頭を晒したことも、やすやすと他人に撫でさせたこともなかったのだ。
寝室にいる異性を受け入れる。
それどころか、異性との一対一。
普段なら絶対に寝室に異性を入れないことを心に決めているマリアにとって、寝起きとはいえ相手がここまで接近して即座に身構えないこと事態が異例の事だ。
それがこんなにもあっさり撫でられるなんて。
少なからず他人との関係は疑ってかかるべしのマリアからすればとんでもない出来事なのは確かだ。
自分はこんなにも隙のある人間だっただろうか。
無意識のうちに警戒を解いていたマリア自身は雷に打たれたかのように硬直し、口をパクパク動かしていると、突然男の柔らかな目元が引き締まり、真剣さながらの瞳に強い光を帯びる。
そして床に膝をついて男はマリアと同じ目線に立つと、今度は両手を伸ばして無遠慮にマリアの身体をまさぐり始めたのだ。
「ちょっと失礼」
「えっ!? あ、ちょ――」
ほとんど強制に近いこの蛮行。
憲兵がいれば腐女子暴行で連行されてもおかしくないどころか、声も上げられない恐怖に駆られているはずなのに、その肌に直接触れる指先を許してしまっている自分がいる事にさらに混乱していた。
「頭部の傷は問題ないし、マナの循環もいまのところ正常みたいだね。……うん。ちゃんと骨も繋がってる。顔色も見る限り異常はないみたいだ。違和感があるところとかある?」
「えっと、特には――」
「じゃあ最後に、脈を測らせてもらうね。ちょっとシャツの腕をめくって」
腕や顎に手を添えられ一つ一つ診察される。
その手つきがまるで医術師のように的確で、赤面したまま流されるように触診されれるが緊張で抗うことなんてできない。
そうしてしばらく念入りな触診が続き、難しく眉根を載せた表情が緩むのを見届けると――、
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