第8話 聖母、目覚める
◇◇◇
フラッシュバックする記憶の情景。
塗りつぶされる視界の赤に、頭上高く振りかぶられる鋭い何か。
その迫りくる恐怖に、反射的に目覚めたのはつい先ほどのことだった。
動悸と眩暈が同時に襲い掛かりひどく疼く頭痛に頭をしかめる。
そして、まばゆい光に阻まれ、呻きながらも慣れた瞳孔が『ありえない光景』を捕らえたとき、マリアは気だるい身体も構わずに反射的に上体を起こしていた。
「はぁっ、はぁっ――、ん、いまのは、夢?」
動揺は疑問に変わり、疑問はいつまでも答えのでない袋小路に追い込まれる。
しかしマリアの内側にある何かは、それが現実だと訴えかけるように思えた。
背中に張り付く汗が不快で、心臓がやけにうるさい。
混乱する頭を抱えてあたりを見渡せばそこは、身に覚えのない部屋が広がっていた。
窓があり、机があり、椅子がある。
一見してみれば大きな家具と言えば衣装ダンスくらいなものか。一人暮らしにしてはやや広すぎる部屋。
日常的な風景。
しかしその目の前の現実がいかに異常事態なのかをマリアは本能で理解していた。
「ボクは一体、どうして――ここに?」
開け放たれた扉を見る限り、ここは誰かの私室だったのだろう。
どこか使い込まれた家具の数々は明らかに人の手が加わっており、最近までここに誰かが住んでいたことがわかる。
持ち主の気質なのかパッと見た限り小綺麗に整理されている部屋は埃一つなく常に清潔な状態に保たれてあった。
およそ一般的に普及しているような間取りなのに落ち着かない。
それも当然だ。
なにせ、マリアはここ三か月間森の中で生活していたはずだ。
こんな光景、身に覚えがない。
「ボクは……いったい」
そうして混乱する思考をどうにか整えようとしたところで、遅れてやってきた頭痛にマリアは眉間を歪めた。
「いっつ――ッ!?」
まるで針を無理やり何本も頭の中にねじ込んだような頭痛。
本来ならすぐにでも逃げ出したいのに、身構えることもできずにマリアは顔をベットにうずめてみせる。
ここまでに至るまでの記憶が全くない。
しかも改めて自分の身体に視線を落とせば、信じられないことに見慣れない清潔なシャツに着替えさせられているではないか。
いつも肌身離さず携帯していた業物のナイフは紛失しており、どことなく身ぎれいに整えられている自分の姿が違和感だらけで落ち着かなかった。
思い出せることは正直少ない。
眩しさを覚えて瞼を持ち上げたと同時に、マリアは勢い良くベットから起き上がれば、そこは見覚えのない一室だったのだ。
マリアが唯一、自信を持って言えるのは『魔獣と戦い、勝利した』という記憶だけ。
それがマリアがはっきりと覚えている最後の記憶だった。
正直、そこから先の記憶をマリアは持ち合わせていなかった。
「質の悪い夢とか、そういうわけじゃ――ないみたいだね」
いままで寝かされていたと思われるベットを僅かに軋ませれば、肌触りのいい毛布を押しのける。
こんな上等な毛布、マリアはいままで使ったことはない。
だからこそ今置かれている現状が不可解で仕方がなかった。
まるで意識だけが時間を跳んだような奇妙な感覚。
混乱する思考をどうにか宥めて、逸る心臓を右手で抑えれば、やけにうるさい心臓の音を聞いて、ようやく己のおかれた異常事態にマリアは息を呑んだ。
生きている。
当然、息を吸って吐いているのであれば生きて得いるのは当然だ。
死を受け入れたつもりはないし、生きるのを諦めたわけではない。
しかし、それは本来ありえてはいけない現象のように思えて仕方がない。
マリアはあの時死んだはずだ。
意識は朦朧としていたが、いまならはっきりと思い出せる。
衝撃と同時に迫りくる樹木。視界に広がる地面と砂利の感覚。
そして、死んだはずの魔獣の唸り声。
その理由は凡人のマリアでは見当もつかないが、ああして背中から襲われたところを見るとはっきりと断言できる。
そして背中ごとバッサリと斬られ――
「傷が……ない」
思い出したかのように服の中に手を入れれば、その薄い胸中に渦巻く混乱を加速させた。
背中どころではない。衝撃の際にわき腹を抉った一撃すら跡形もなくなっている。ぐちゃぐちゃに折れたはずの骨もきちんとつながり、未だ痺れは残るが身体もちゃんと動く。
やけに痛む頭痛以外これと言った異常は見られない。
いや、『異常』がみられないことこそがいまは『異常』なのだ。
恐る恐る視線を動かせば、正面に大きな姿見があり、そこには髪を肩まで下した赤髪の少女が目を見開いてこちらを見ていた。
「どう、なってるの」
掠れた声が虚空から零れ、絶句する。
そこには何の傷もなくベットに腰かける少女の姿があった。
あの時確かに背中をやられた感覚はあった。
それどころか無傷とは到底言えない重傷を負ったはずだ。
肉は潰れ、内臓は破裂し、間接はおかしな方向に曲がっていた。
医術師も匙を投げて見捨てるようなあの重傷で、自分が生きていることが信じられない。
もしかして今までのことが全てが質の悪い夢だったんじゃないだろうか。
実はマリアはまだ聖堂院に居て、ずいぶんと長いこと夢を見ていた。
そんな馬鹿らしい幻想を抱いてしまうほどマリアは混乱していた。
そしてそんな冗談が考えられる段階になって、はじめて気づく。
いやそもそも気づくのが遅すぎた。
「アマリ。――アマリが、いない」
いつも腕に抱いていたはずの温もりがないことに気づいて、毛布をひっくり返す。
現れたのは相変わらず細い両足だけで、娘の姿が見当たらない。
確かにあの時、あの子を助けたはずだ。
少なくともあの子が襲われているところなんてマリアは――、
「――まさかっ!? いや、そんな、そんなはずない」
たったいま頭をよぎった不安を首を横に振って否定するが、いくら彼女の名前を呼んでも娘の気配が見当たらない。
そんなはずない。
確かに、マリアは確かにあの子を守り切ったはずだ。
それは願望であるが、それでも疑いようのない事実のはず。
最悪な考えばかりが頭を過ぎり、心臓が痛い。
(嘘だ。嘘だよ。だってボクは、わたしはあの時確かに――)
慌てて白い毛布を剥ぎ、ベットから飛び出そうとしたところで――
突如、世界が一転した。
痛みが脳髄を叩き、不意に吐き気が込み上げる。踏ん張ろうにも力が出ない。
自分が転んだのだと理解するのにしばらくかかった。
「なんで、なんで動かないの」
まるで自分の身体が自分のものではないような感覚。
感覚は確かにある。関節も確かに動く。――でも力が入らない。
拳を作った右手で何度も太ももを叩き、痛めつける。こんなことをしていても意味はないと理解しているが今のマリアはそうせずにはいられなかった。
「動け、動け、動けってばっ!!」
そんなの認めない。
自分だけが助かって大切な娘が助からなかったなんて現実。
たどたどしい足取りで体を引きずって壁に寄り掛かる。そして震えるよう腕に力を込め、壁の取っ手に手を伸ばした。
「ん――、くっ」
何度か苦心してようやく指先が壁の突起に掛かる。
そのまま指先に力を入れて強引に身体を持ち上げた。激しく膜どうする欠陥が筋肉に酸素を送り込み、激しい代謝がマリアの白い顔に玉のような汗を浮かび上がらせる。
そしてどうにか身体を起こした瞬間、滑った指先が支えを失い、反射的にベットの近くに置かれた台座をひっくり返した。
湯呑みが割れる音が聞こえ、足元に破片が散らばる。
しかし傾きかける身体をどうにか堪えて、滴り落ちる汗を片手で拭うと、マリアは開け放たれた扉を睨みつけた。
この先にきっと愛すべき娘がいる。
その縋りつくような思いでたどたどしく床を踏み歩き、手を伸ばしたところで――、
呼吸を荒げた一人の男が立っていた。
その顔はどこか見覚えのある、そんな『お人よし』の顔をしていた。
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