幕話 微睡みのなかで――
――あたたかい。
そう気づいたときには、ボクの意識は目覚めつつあった。
見渡す限りの白い空間。そこにボクというよくわからない意識体が、一人浮かんでいるだけだった。
どうやってここに来たのかも、何故ここにいるのかも覚えていない。
ただ、お湯の中に揺蕩うような不思議な感覚に囚われ、なかなか抜け出せない。
まるで大事な契約があるのに眠りから覚めない、あの感覚に近いかもしれない。
ああ、そういえばあの時は『あの人』にしこたま怒られたっけ。
それ以来、気を付けているけど、懐かしい感覚だ。
笑いそうになったところでふと気づく。
『――あの人って、誰だっけ?』
疑問だけが頭の中を埋め尽くし、解決できない自分がいる。
どうしてこんなところにいるんだっけ?
それすらも思い出せない。
そうして頬を搔こうとしたところで、体がないことに気づいた。
手も足も目も口も――呪われたあの赤髪すらない。
それなのに意識だけあって、気を抜けば自分と空間とが溶けあってしまうようにさえ思えた。
不思議と恐怖はない。
それどころかいつまでもいたいとさえ思う。
ここは静かで、穏やかだった。
危ないことなんて何一つない。
ボクを傷つける者はいないし、誰かを傷つける必要もない。
思い出せないのならそれでもいい。
でも、頭はボーっとして何も考えられないのに、色々な『夢』が頭をよぎるのだ。
いろいろな夢を見た。
たくさんの目がボクを見ている夢。
初任務で失敗した夢。
誰かに手を差し伸べられた夢。
それどれもがボクの心に恥ずかしさと懐かしさを刺激してくる。
なぜ恥ずかしいのかも、懐かしいのかも理解できないけれど、棒はそう感じた。
映し出される少女の顔はどれもつまらなそうで、でもどこか嬉しそうだった。
それが最近になって徐々に表情豊かになっていく。
ここ一年の記録は特に劇的とも言っていい変化だった。
なのに――、
『――なに? この気持ち』
どうしても何かが足りないような気がした。
それがなんだか思い出せない。
いろんな夢を見る。いろんな『夢』を見る。
『家族みんなと暮らしている夢』
『多くの人を救える英雄になれた夢』
『誰かと、《三人》で幸せに暮らしている夢』
その全てに手を伸ばそうとしても、どれもこれもがボクの中からすり抜けていく。
『いかないで――』
そう叫びたいのに声が出ない。
その瞬間、背後にいないはずの誰かに引きずり込まれるような気配がした。
誰? でもそいつは答えない。その代わりに奴は耳元でそっと何かを囁き、意識のなかでいくつもの声が響き渡った。
分化する声、声、声――
そのどれもがボクを責め立てていた。
泣いている声。
怒っている声。
呪っている声。
そのどれもが聞き覚えのある声だ。
途端、浮上しつつあったボクの意識が『虚』の中に落ちた。
訳が分からない。訳が分からないけど、そっちは嫌だ。
必死になって手を動かすけど、意味はない。
あれほど心地よく揺蕩っていた温もりは露と消え、代わりに魂ごと凍てつく冷たさが意識ごと沈んでいく。
もがき、苦しみ、抗おうとしても、届かない。
不意に吸い込んだ何かが喉元を通り、視界が真っ暗になった。
上も下も右も左もわからない。
なのに頭の中に響く『誰か』の声だけはやけに鮮明で、ボクの内側に響き渡った。
『――お前なんか、生まれなければよかったのに』
それはボクの声だった。
ボク自身を責め立てる『ボク』自身の声だった
怖い、怖い、怖い――。
でも抗うことはできないのだと、本能が理解していた。
ああ、どんどんと飲み込まれていく。
どんどん消えていく。
そしてボクは一人になった。いや、もともと最初から――、ボクは一人だった。
増えては減って増えては減って。
手の中に残るのはいつも悲しみだけ。
やり直そうとしても、取り戻そうとしても、ダメだった。
暗くて、寒くて、恋しくて――怖い。
だからボクはずっと一人でいる事を選んだんじゃないか。
もう絶対に傷つきたくないから、一人になることを選んだんじゃないか。
でも、なんか違う気がする。
それだけがやけに胸の奥を軋ませ、出るはずのない涙がこぼれたような気がした。
――ま、ま
闇の中で、聞こえないはずの声が聞こえてきた。
ボクの声じゃない。
振り返っても、誰もいない。
それでも確かに、ボクを呼ぶ声が聞こえる。
誰、――ボクを呼ぶのは。
――ま、ま。
ボクはマリア。ただのマリア。
誰かを不幸にするしかできない臆病者。
そんなボクを呼ぶ声は――
――ま、ま。
まるで小さい頃のボク自身を見ているようだった。
泣きたくなった。悲しくなった。苦しくなった。
それは一人ぼっちになりたくないと。
離れたくない、と懸命に泣き叫ぶ幼子の声だった。
ボクを呼ぶ声が聞こえる。
求めてくれる声がいる。
そうだ。忘れちゃいけない約束がある。
それはまだ喋れないけど。ボクに彼女の名前を呼ぶ資格もないかもしれないけど。いつもボクの隣にいてくれて、いつも僕を笑顔にしてくれる存在だった。
『――アマリ』
胸の奥が酷く――熱い。
失った手足が徐々に戻り、意識に輪郭が形成される。
とても痛くて痛くて仕方がないのに、愛おしくて愛おしくてしかたがない何かが生きたいと訴えかけてくる。
『向こう』には、苦しみしかないかもしれない。
痛みしか、残っていないのかもしれない。
何度も挫折を味わい、後悔するかもしれない。
でも――、
『ボクはあの子のために生きなきゃ、いけないんだ』
胸の内側が燃えるように明かりを照らす。
いつの間にかボクの後ろに張り付いていた『何か』は消えていた。
失いたくない。
悲しませたくない。
手放したくない。
見届けなくちゃいけない『未来』がある。
果たさなくちゃいけない『責任』がある。
だからたとえそれが間違いであると糾弾されたとしてもボクは――。
・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
・
「……ぅん」
ゆっくりと息をつき、瞼を持ち上げる。
落ちかけていた意識が、浮上する。
あれほど冷え切っていた身体は嘘のように温かく、心地よい肌触りが再びマリアを夢の中に誘おうとする。
けれど、どうにかして苦心して瞼を持ち上げれば、白く柔らかい光が瞼の隙間から差し込んできた。
思わず目を細めて、小さく息をつく。
「……生き、てる」
擦れた声音が鼓膜を震わせる。
そうして僅かに視界を動かせば、そこは――見覚えのない小さな一室だった。
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