第7話 形勢逆転?
鬱蒼と生い茂る樹木を見渡せば、マリアは注意深く二体目がいないことを確認して魔獣を見下ろす。
人類を食い殺す魔の獣。
人類を脅かし、一時期は人類を絶滅の危機にまで追い詰めたとされた存在が非力な人間の前で頭を垂れていることに、マリアはひどく戸惑いを覚えていた。
おそらく倒れ伏している方も、なぜ自分が倒れているのか理解できていないはずだ。
獣にそのような理性があるとは思えなし、考えても無駄なのはわかっている。
ドレイドではないマリアでは動物の言葉を聞き分けることはできないのだ。
ただ、はっきりと言えることは、ここには一人の勝利者と一匹の敗北者しか存在しないということだ。
「形勢、逆転――だね」
そう呼吸を荒げ、負傷した左肩を空気に晒すマリアの口から飛び出た言葉はそんな弱々しいものだった。
血に濡れた額を拭い、外れかけた肩を無理やり嵌める。
痛みに神経が嬲られるが、いまはそれすら気にならない。
おおよそ満身創痍の出で立ち。
勝利の快感などこれぽっちもない。
あるのはただ、生き残れたという現実味のない事実だけ。
卑怯な手を使った。
誰もが非難し、軽蔑するような非道な手を。
それでも生き残るためなら何でもすると誓った身だ。
「君も魔獣なら、卑怯だなんて言わないよね」
「――ア、――ウゥッ」
森を震わせ地形を一部変えるような災厄を振るっていた怪物は、嘘のようにおとなしい。
まだ息はあるもの、おそらく指の裂き一本動かすことすら難しいだろう。
そういう『調合』をしたし、そうなるように『誘導』もした。
実際、運頼みの作戦だったのは理解しているが、そんなもの終わり良ければなんとやらだ。
払った犠牲がマリアの身体だけで済むのなら、それは大金星と称えられる功績であるべきだろう。
僅かに香る刺激臭に顔をしかめれば、いつしかその匂いも風に流され消えていく。
恨めしそうな赤黒い瞳と再び交錯し、マリアは嘲るわけでもなくただ同情めいた視線で魔獣を見下ろすと、
「備えあれば憂いなしとは言うけど、ここで使うとは思わなかったな」
最後のダメ押しの意味で左手に握りしめた小さな小瓶を地面にたたきつけた。
紫色の液体が地面に飛び散り、小さな泡を吹き出して、白い煙がもうもうと立ち昇る。
「魔素たる邪悪な力を糧に変異した君たちが、生命たるマナの恵みにやられるとはなんとも皮肉な話だね」
なんて事のない自然の恵み。
しかしそれは、近くに咲く花は瞬く間に枯らし、水辺に戯れていたはずの魚たちをは溺死させるほど強力な毒となる。
そう――、毒。
そこいらに当たり前のように植生し、誰もが当たり前のように避ける毒草に価値をつけ、人類の知恵で味付けした非道な兵器。
マリアは全ての状態異常を解毒する『万能薬』を口に含んでいるから何ともないが、生き物がいる間近でこんな劇薬を使えばどうなるかなどマリアが一番よく理解している。
使用に躊躇いはあったものの、この距離ならもはやその必要もない。
でも――
「ひどく不快な光景だね、これは――」
あれほど猛威に溢れていた魔獣が見る毛げもなく弱り切っていく。
剛毛に覆われた魔獣の顎が不自然に痙攣し、口から噴き出す涎に赤い
喉から地を這うような呻き声が耳朶を震わせるも、その声はどこか命乞いをするにはあまりにもおぞましい。
まるでマリア自身を呪っているように聞こえるそれは、生きる全てのものに憤怒するその瞳と混ざり、交わらない言葉を訴えかけているようだった。
「……そんな目でボクを見るなよ。君たちが人を殺さなきゃいけない理由があるみたいに僕だって生きなきゃならない理由があるんだ。これはそういう戦いだったはずだ」
獣に話しかけるなんて馬鹿みたいだが、それでも言わずにはいられなかった。
卑怯な手で生き残ったことに言い訳したかっただけか、胸を張ってアマリの下に帰りたかったからか――今となってはわからない。
そんなことを考えた途端、万能薬の副作用がマリアを襲いはじめた。
痺れにも近い思考能力の低下。
ひどく発熱する身体が体内に入った毒素を中和しようと忙しく動き始める。
欠陥が脈打つのがわかる、心臓が、痛い。
万能薬は体内に流れるなまと共に循環させる必要があるため、魔力をほとんど練れないこの身体では、薬の副作用も激痛もひとしおだ。
肋骨は確実にひびが入っただろうし、あらかじめ血止めの薬を飲んでいたとはいえ、想像以上の出血に目まえがする。
正直なところ、立っているのすらギリギリだった。
一瞬でも気を抜けば文字通り倒れ込んでしまいそうになるほど体が重い。視界は半分ぼやけていて見えないし、肩口を裂いた爪痕だって生半可なポーションでは治せないほど傷が深いだろう。
でも――
「生きてるなら、……なんだっていい」
残るであろう傷跡も、後遺症も、いまはどうでもいい。
生きた。生き残れた。
それこそマリアが気にすべき成果だ。あとからついてくる結果は蛇足でしかない。
それでもどうにか生き残れたのはマリアがいまも握っている『秘策』のおかげだ。
「まぁ、これも君がいままでずっと、油断してくれたから――っ、できたことだけど、……ありがとうって言っても、『元』獣の君には伝わらないか」
握った手の平を解けばそこには、一サンチ大の小さな薬瓶が握られており、その表面には小さな文字でラベルが張られてあった。
死聖薬《しせいやく》――『ネヴュラ』
万能薬の生成の際に出来る毒素を煮詰めた『万能毒』――とでもいえばいいだろうか。
聖堂院で培った薬草の知識をもとに、偶然生まれた『新薬』だ。
透明なガラス瓶に入っている液体そのものは完全に無害なものなのだが、煎じた薬草と混ぜ合わせることによって効力が異なるようにできている。
サンジョク草と調合すれば致死性の毒ガスが、ヒポクク草と調合すれば麻痺毒が生成されるようにその用途は製作者次第という優れモノだ。
どうやら調合の際に空気に触れることによって熱を放ち、気化する仕組みのようで、作り置きできないということであくまで『試薬』として保管していたのだが――、
「まぁ、まさか試験段階のこいつを、ぶっつけ本番で試すことになるとは思わなかったけどね」
実際調合を誤れば、強力な毒素でマリアの手が腐り落ちていたかもしれないのだ。
いくつか実証実験を重ねて、どの薬草がどういった効果を発揮するのかは把握してきたが、あんな激しい戦闘中に調合するのは初めてのことだった。
降り注ぐ魔獣の腕を掻い潜り、薬を調合するのは両足を縛られた状態で綱渡りするより難しい。
もうあんな綱渡りをする気などない。
半分以上減った『ネヴュラ』をポーチに仕舞い、代わりに『緑色の液体』が詰まった小瓶を取り出し、ナイフに滴らせた。
さきほど使った毒ガスにも使われる『サンジョク草』の粉末――それを煮詰めて創り出した純粋な猛毒だ。
例え異常な再生能力があろうと体内に入った毒を自力で解毒するのは難しいのは、今も神経毒が抜けきらないこの魔獣の姿が証明している。
「もう、これで終わりにしよう」
「――――ッッッ!!」
「――無駄だよっ!!」
一瞬、激情を浮かべたマジュが麻痺した身体を持ち上げようとするが、その頭蓋を踏みつけるマリアがそれを許さない。
浮きかけた頭を素早く地面に固定し、身動きを封じる。
やはり麻痺毒の効果で動きが鈍い。
そのまま、突き立てるようにして延髄に全体重を乗せてれば、咆哮とは違う獣の絶叫が森に響き渡った。
骨と筋肉をかき分ける確かな感触が手の平に伝わってくる。
命を刈り取った確かな感覚。
刃に塗布された毒は魔獣の脳髄を犯し、瞬く間に腐らせる危険な劇薬だ。
即死はしないだろうがいくら再生持ちでも解毒される前に絶命するはずだ。
ナイフを引き抜けば間抜けな音と共に血飛沫が噴き出し、徐々に傷口が再生していく。
苦悶に歪む表情が最後の抵抗をもくろんでいるようだが、喉が痙攣していては叫べまい。
苦しみ喘ぐ魔獣の姿を見下ろし、その赤黒い瞳から徐々に光が失われていく。
そして、その荒々しい灯火が完全に消え失せたのを見届けたとき、マリアはその場に崩れ落ちた。
「ハァ、ハァ――んぐ、ハァ、ハァ」
込み上げる吐き気に必死に耐え、傷口が汚れるのも構わずうずくまる。
実力以上の相手を討ち取ったのに喜ぶ気になれない。
あとからやって来る震えに両肩を抱けば、マリアの目尻から涙がにじみ出てきた。
「本当に、死ぬかと、思った」
作戦は上手くいったが、それも全て相手がマリアの存在を侮りなおかつ脅威にも感じていない知性体だったからできたことだ。
魔獣の本能がもっと獣に近ければ、あそこに倒れていたのはマリアになっていたかもしれない。
「やっぱり、戦いなんて――、嫌いだ」
今回はたまたま聖堂院で学んでいた『薬学』が生きたから生き残れたが、毎回こうも上手く事が運ぶなんてことはないだろう。
こんなことを続けていれば、いつか絶対にどこかで破綻を生むのは間違いない。
「――いっつ」
呼吸をするたびに痛む肋骨に顔をしかめ、震える手つきで圧迫する革鎧を脱ぎ捨てると、ぐちゃぐちゃに濡れた顔を袖で拭った。
解放された胸部が新鮮な空気を肺一杯に満たし、心の結び目がほどけていく。
下に来ていた白いショーツも赤く染まっているが今だけはどうでもいい。
とにかく、命を脅かす脅威は去った。
いまは一刻も早くあの子の顔が見たい。
「……待っててね。母さん、約束果たしたよ」
何度も呼吸を整えて、震えを落ち着かせる。
はやくあの子の身体を抱いて落ち着きたい。
一刻も早く、あの子の下へ駆け出したい。
右足を引きずるようにして歩き、外れかけた肩を抱いて娘の元を目指す。
今度こそ、平和な場所であの子と暮らすんだ。
その一瞬の気の緩みがマリアの頬に涙を伝わせ――、
「――なっ!?」
マリアの身体が三十メテルほど吹き飛んだ。
枯れ木が折れるような音が何度も頭の中で鳴り響き、遅れてやってくる激痛と窒息が何度も消えかけたマリアの意識を浮上させる。
グルグルと回る視界はやがて暗転し、不自然に震える四肢は言うことを聞かず手足の末端がやけに冷える。
なのに――
(――あったかい、)
それだけじゃない。何をされたのか背中が焼けるみたい熱い。
ジュクジュクと嫌な幻聴が脳髄を掻きまわし、遅れて生温かい水たまりが身体を濡らしていく。
あったかいのに、あったかくならない不思議な感覚。
痛みは――ない。なのに思考だけがやけにはっきりしている
そして鉄臭い嗅ぎなれた匂いを認識した時――、
「あ、あぁ」
マリアは己が血だまりの中にいる事を理解した。
掠れた息づかいはもはや言葉にはならない。
ただ痛みがないのは麻痺毒の所為だろう。
まさかこんな使い方ができるなんて思いもしなかった。
そして視界の端で、のっそりと黒く揺らぐ影を見た。
あの子に、逢わなくちゃいけないのに。
あの子に会いたいのに、それができない。
いや、そもそもマリアはなにをしようとしていたんだっけ?
自分の境界があいまいになるにつれ、思考能力が落ちていく。
自分が何をしようとしていたのかも曖昧になり、零れた涙は何のために流しているのかわからなくなる
ただ大切なものがあったことだけは覚えている。
『――、――――』
あの子の幻覚が見える。
ここにいないはずの娘が。あの子はいま木の上で一人ぼっちになってて。そうだ迎えに行かなきゃいけないんだ。でも身体が動いてくれない。
迎えに行くって、――したのに。
「やく――、まーーって、ごめっ、―――――ね?」
暗がりの視界のなか泣きじゃくる娘の顔が映ったような気がした。
徐々に力のなくなる唇を動かせば、誰かの鳴き声が聞こえてくる。
それが自分のものなのか、他者のものなのか今のマリアには判断できない。
大切な言葉を、伝えられたかもわからない。
それでも死神の足音は鳴りやまず、暗闇の中で赤黒い眼光が爛々とマリアを見下ろしたような気がした。
震える右腕を僅かに動かし、声にならない声を紡ぐ。
それは謝罪か、命乞いか。マリアにもわからない。
ただ一切の容赦なく鋭い牙を剥くそれは、苛立ち毛な声を上げて勢い良く、マリアの喉元に迫り――、
そこで繋がりかけていたマリアの意識がプッツリと遠のいていった。
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