第6話 お母さんのたった一つの勝算
駆けだしたときには、後戻りできないと本能が理解した。
先手必勝――とは言い難い突撃。
熟練の冒険者からしてみれば下の下策かもしれない方法にマリアは文字通り命を懸けた。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ああああああああああああああああああああああああっ!!」
化物の咆哮に負けじと咆える。
互いの距離は十メテル。少なくともまだ即死するような距離じゃない。
それでもマリアは過信しない。
相手が魔獣である以上、魔素を用いた魔術を使う個体も一定数いるという話を聞いたことがある。
ただでさえ遠距離からの攻撃手段を持たないマリアからすれば、その一撃はまさしく理不尽な暴力でしかない。
例え、強力な武器を持っていたとしても何もできずに殺されるだろう。
故に唯一の活路と言えば――
(接近戦で敵を翻弄するしか手はない)
そう自分で決断したにも拘らず体が震えるのはマリアが臆病者だからだ。
それでも一瞬だけすくむ心臓を無視して、マリアは魔獣の懐に飛び込んだ。
馬鹿正直に突進してくる『獲物』を見据え、二つの腕を振りかぶる魔獣の姿が見える。
その姿に緊迫した殺気は見られない。
何もせずとも自棄になった獲物がやって来るのだ。
知能のある魔獣からしてみればこれ以上楽な獲物はいないだろう。
だけど――
「いまっ!!」
魔獣が右腕を振りかぶった瞬間を見計らって全身全霊の急停止をかける。
靴底が地表を捉え、身体に圧がかかるが何とか堪えた。
マリアの動体視力で捉えられない一撃が空を切る。
そのまま続く二撃目を飛びのくようにして横に飛べば、剛腕は目標を失い、鋭い爪がマリアを僅かに掠めるだけに至った。
赤い線が肩に走り、遅れて痛みがやってくるが関係ない。
この程度で『隙』が一つ買えるのなら安いものだ。
案の定、がらりと空いた胴体を睨みつけ、逆手に握りしめたナイフを魔獣の首筋に上から下に走らせる。
皮膚を断つ感触が手の平に伝わり、錆び臭い饐えた香りとともに生温かい液体が顔面に飛び散った。
頸動脈は断った――けど浅い。
想像以上の手ごたえのなさに舌打ちし、手の中で素早くナイフを持ち替える。
今ので仕留めたかったが、現実は甘くない。
そのまま目を突こうと顔を上げたところで、マリアの橙色の瞳と赤黒い瞳とがかち合う。
背筋を震わす悪寒に慌てて飛び退けば、内臓をかき混ぜる衝撃が脳髄を叩いた。
「――っ!?」
衝撃に身体を揺さぶられ、マリアの身体が後方に吹き飛ばされる。
土ぼこりが散乱し身体を打つ衝撃が、肩、腰、頭と続き肺の奥から酸素が逃げる。
筋肉が硬直し、吐き気が喉元までせり上がってきた。
(いま――のは)
土ぼこりがもうもうと上がる一点を見つめれば、影に映る巨体がゆらりとこちらを向く。おそらくあの一撃が咆哮による衝撃波だと理解した頃には、地面を揺さぶる重低音がすぐそばまで近づいてきた。
(押しつぶされる――!?)
マリアのなかの本能が声を大にして危険信号を放つ。
黒い影が猛然とマリアに迫り、遂に四本の足の裏がはっきりと視界に映る。
眼前の光景に歯を食いしばり、寸でのところで地面を蹴りつけなければ今頃マリアはぺしゃんこになっていただろう。
後方で上がる破壊音に背中を叩かれ、マリアは素早く起き上がると、悲鳴を食い殺して何度かナイフを何度か突き立てた。
おそらく一撃で仕留められると踏んで振りかぶった一撃だったのだろう。
苛立ち毛な唸り声が聞こえてくるがマリアには関係ない。
叫び声を上げながらがむしゃらにナイフを振るう。
しかしそんな絶好のチャンスもこれまでだ。
再び方向が上がり、身体が硬直した瞬間――、
(しまった――!?)
少なくともこちらはアマリを庇わなくなったぶん、幾分か大胆に動けるようになったがそれでもまだ足りないのだ。
致命的な選択に悔いている余裕はない。
迫りくる剛腕が文字通り、か細いマリアの身体を捕らえた。
視界が一瞬でブレ、肉と骨が軋みを上げる音がダイレクトに聞こえてくる。
そして――、
「がっ、はぁ!」
背中に幹が激突した瞬間、革鎧に込められたすべての『加護』がはじける音が脳髄に響いた。
喉元までせり上がる吐き気に任せて気道を確保すれば、吐しゃ物の後に生温かい血の味が広がる。
たった一撃で加護を粉砕させるほどの威力。
対してこちらはナイフ一本。
多少の業物ではあるが、所詮は市場で売られていた掘り出し物に過ぎず、手ごたえからして、あの分厚い皮膚を裂くだけで肉まで達することはができないような代物だ。
どう考えたところであの化け物を一撃で葬れるような力は備わっていない。
「この、化け物め」
ふらつく視界をどうにか整え、唇をかむ。
あの魔獣は本気を見せていないし、これからも見せる気配もない。
それは真実であり、変わりようもない事実だ。
現に奴はこちらの居場所を把握してはいるが、襲い掛かるような真似はしてこなかった。いまならいくらでも八つ裂きにすることができたのにそれをしない。
おそらくマリアが動き出すのをじっと待っているのだろう。
(いっそのこと、興味を失ってくれればありがたいのに)
見逃すわけでもなく、あくまでマリアが無様に足掻くのを楽しむ。『元』獣のくせになんて悪趣味な奴だ。
どうすればマリアが苦しむか本能で知っているのだ。
しかし裏を返せば、マリアが無様に玩具にされているうちは殺されるようなことはないはずだ。
「あのクソ熊に咆え面かかせてやる」
ギリリっと歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がる。
どうあがいたところで現状はひっくり返らない以上、マリアができることは限られている。
何とも理不尽で、悪魔的な状況だが、活路がないわけではない。
呼吸を整えて、ナイフを構える。
頭の中で思いついた作戦をいま一度振り返り、冷静に分析する。
技量も実力もないなら頭を使って乗り切るしかない。
相手は化け物。
チャンスは一度。
一度、木陰に隠したアマリの位置を確認して息をつく。
西から東へと流れる風向きがマリアの髪を揺らし、一瞬だけ瞑目したあと覚悟が決まる。
そして、マリアは万能ポーチに手を突っ込むと、とある一つの薬瓶を取り出した。
◇◇◇
何かが砕ける音が後ろで響いた瞬間、『奴』は草むらから飛び出してきた。
赤い毛を揺らし、果敢に生へとしがみつく醜い弱者。
間違いなく致命傷の手ごたえだったはずだったが、どうやらまだ抗う意思があるらしい。
抗う弱者を踏みつける愉悦。
それこそがガリアストの自意識が芽生えて以来、続けている唯一の愉しみだった。
食べるために殺すのではなく、快楽のために殺す。
意識が目覚めてからというもの、『狩り』はガリアストのなかでもはや習慣になりつつあった。
目にした端から狩っていく。
弱者も強者も皆同様にこの牙と爪で屠っていくたびに、知能が上がり肉体が変異していくのがわかる。
その中で極上の獲物が『あれ』だ。
いまも奇声を上げこちらに向かってくるちっぽけな生き物。
牙もなければ爪もないただの『餌』でしかない。食える身も少なければ、極上の脂が載っている訳でもない。
だが、あれこそがガリアストが狩るべき獲物だと本能が叫んでいた。
あれを喰えば、自身はまた強くなれる。
あれを殺せば、自分はもっと賢くなれる
だから殺した。殺し続けた。
この世全てを見渡してもあれほどまでに狩りやすい獲物はいない。
この森は素晴らしい。放っておいても『あれ《にんげん》』以外にもうまい餌が溢れている。
いままで他の『同胞』に侵略されていないのが不思議なほどだ。
故に、ガリアストは確信した。自分はこの森の王となるべく生まれたのだと。
まだ強くなれる。
まだたくさん殺せる。
なぜあの下等生物どもを殺さねば気が済まないのか理解したことはない。
理解しようとも思わないし、する必要はない。
故に――。
太い四肢が大地を踏みしめ一切の容赦なく、二本の巨腕を振り下ろす。
その手には奴らなりの『牙』が握られているが、そんなものはガリアストの前では些末な問題でしかない。
もはやガリアストは人間と呼ばれた種を超越しているのだ。その程度の傷、瞬く間に再生する。
しかしだからと言って、下等な生物の思い通りというのも承服できない。
王には、王としての勝ち方というものがある。
小物に踊らされるなど、森の王としての沽券にかかわる。
土煙が煙が晴れ、振り下ろした右腕を持ち上げれば、潰れているはずの『雌』がいない。
その代わりに、なぜか砕けた小瓶の欠片がいくつにも転がっており、足をどけた瞬間、それは白と黒の煙幕となってガリアストごと煙のなかに包み込んだ。
煙は徐々に勢いを増し、視界が完全に防がれる。
なるほど。これがあの雌の奥の手と言う奴だろう。
自力では敵わないと見た全ての餌たちが考えることは皆同じだ。
知恵と工夫を凝らして道具なるものを使ってどうにか戦力差を埋めようとする。しかしその悉くを打ち破ってきたガリアストだ。
この程度の煙幕は児戯にも等しい。
いつものように衝撃波で吹き飛ばせばいい。
肺に酸素を溜め込み、一気に拡散させる。
その瞬間、背中に焼けるような感覚を覚え、ガリアストは初めて呻き声を漏らして身体をのけ反らせた。
背中に突き刺さる痛みを感じ首を回せば、そこにはあの赤髪の雌が。
生意気にもガリアストの一撃を避けたのか、手にした『
煙で嗅覚を封じられ、ここまでコケにされた経験は、ガリアストの生涯では一度もない。
ほぼ無傷で殺せると踏んでいただけに、肉体だけでなく王として芽生えつつあったプライドにも傷がつく。
その言い知れぬ不快感に身体をよじれば、雌の身体がガリアストの身体に触れた衝撃で遠方へと容易く飛ばされた。
砂利や土をまき散らせ、うつ伏せに倒れる赤髪の雌。
今度こそ絶命したかと思えば、またしぶとく立ち上がり、喧しい叫びをあげて斬りかかってきた。
未だ煙が晴れることはないが、ガリアストにはこの牙と爪がある。
どのような強靭な鋼であろうと引き裂いてきたし、歯向かう愚か者はこの牙で噛み砕いてやった。おおよそナレに出会った餌どもはみな同様に無様に震え、絶命するその時まで絶望の色を浮かべる。
それこそがまさしく『森の王』に対する正しい在り方だ。
だというのにコイツは何だ。
怯えるしかできなかった弱者に不快な光が灯っている。
震えていたはずの細い四肢は意識を取り戻し、生意気にもガリアストの一撃を耐えてみせる。
強者に頭を垂れる訳でもなければ、王の前に立つ資格がある訳でもない愚者が不遜にも『森の王』を殺せると思い上がっているのだ。
「もう少し――、もう少しで」
血を吐き、今にも倒れそうなその肉で何ができる。
嘲るように腕を振るえば、ガリアストの巨椀が雌の身体を捕らえた。
鋭い爪が雌の身体を引き裂き、心地よい鮮血が鼻腔をくすぐる。
これで奴も、己の立場を理解するはずだ。
それなのに――それでも瞳に灯る不快な光は一向に消えず、血潮のように苛烈に揺らぐその表情が、ガリアストの神経を逆なでした。
ガリアストと名を与えられ、自意識が目覚めて二十年。ガリアストでさえこれほどの弱者を前にするのは初めてのことだった。
奴はいままで対峙してきた生き物のなかで奴は間違いなく最底辺の弱者だ。
先に対峙してきた鋼の雄は、ガリアストの敵たりうる資格があった、この雌はそうではない。
今こうして、ガリアストの前に立つことすらおこがましい存在のはずだ。
にも拘らずこの雌は『森の王』の慈悲を理解せず、こうして向かってくる。
「負けてたまるかああぁあああああああ――!!」
言い知れぬ不快感が頂点に達し、ガリアストの本能を刺激する。
思い通りにならぬのなら殺せばいいと。
その瞬間、戯れに帯びていた興味が完全に消え失せるのをガリアストは直感した。
――王としての慈悲はこれで終わりだ。あとは惨めたらしく苦しんで死ね。
その時、ガリアストの身体に異変が起きた。
「ガッ、嗚呼ア!?」
酩酊感にも似た不快感により平衡感覚が損なわれる。
視界はドロドロに歪み、ガリアストはなぜ自分が地面に倒れ伏しているのか理解できなかった。
すると今まで惨めたらしく王の慈悲に縋りついていた『餌』の足音が聞こえてくる。微かに動く眼球を持ち上げ、空を仰げば――
「ようやく、効いてきたか」
そこには不遜にも唇をゆがめる雌の姿があった。
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