第5話 お母さんとしての責務
およそ全長四メテルの巨大な熊。
それが日本の足でしっかりと大地を捉え、腹を見せる姿にマリアは全身の毛が逆立つのを感じた。
こげ茶色の体毛に、丸太二つ分はある巨体に、肩口から四つに伸びる巨椀は明らかにその危険度を物語っている。剛毛に覆われたその先には岩すら簡単に切り裂けそうな鋭い爪が怪しく光っている。
おおよそ生き物を殺すことに特化したような体躯。
肩口から伸びる四本の強靭な腕は、大抵の獲物なら一撃で絶命させることができるほど大きい。
原生生物が普通に生きていたとしても、ここまで巨体に成長することはないだろう。第一、四メテル級の四本の腕を持つ熊など聞いたこともない。
それは世界共通の認識で、マリアが無知なわけではない。何かしらの異常があってここまで『変異』したとしか考えられない現象だ。
信じたくない。信じたくないけど目の前の現実を否定するわけにはいかない。
この化け物は確実にマリアを敵視している。
その証拠に、奴の眼だ。
赤黒く光る瞳がまるで血走ったかのようにマリアを見つめている。
あの目には覚えがある。
本能ではなく、確かな知性のある生き物が見せる邪悪な輝き。
それはこの世全ての生き物を引き裂きたくて仕方がないという貪欲なまでの殺意に他ならない。
それすなわち――魔獣化の兆候だった。
(最悪だ。なんでこんな時に魔獣なんかと出くわさなくちゃいけないんだよ)
それもこれも全てマリアが忌み子だからいけないのか。
逃げ出したい本能をぐっと堪え、下唇を噛んでギリギリ思いとどまる。
下手に刺激すれば、きっとコイツは後ろで倒れている男だけでなく、マリアを含めた全ての生き物を殺すために動くはずだ。
いままで何事もなく生活できていたから油断していた。
何度も言うが、ここは未だに禁域なのだ。教会の追手から身を隠すには丁度いいと洞窟に拠点を置いていたが、ここにだって当然魔獣は生息している。
いままで出くわさなかったこと自体が奇蹟だったのだ。
(こんな化け物がいるなんて、こんなことならさっさと逃げればよかった)
後悔してももう遅い。
恨みがましく視線を走らせれば、うつ伏せに倒れ伏した騎士が小さなうめき声を上げた。
別にあの男がどうなろうがマリアには関係ない。
目を覚まして自力で逃げられるのであれば御の字だし、そのまま目を覚まさなければマリアの代わりにあの化け物の昼食になるだけだ。
この世界にだって幸不幸は存在する。
この場合、あの男は運が悪かっただけなのだ。
(もし襲いかかってきたら、あの男を囮にして脇目も降らず逃げる。絶対そうする。というか、そうする権利がボクにはある)
助けられないことを言い訳がましく口にし、見捨てる覚悟を決める。
だからこそ、後ろ髪引かれる思いで振り返ったことをマリアは後悔した。
目を、覚ましていた。
痛みで顔を歪ませているものの、その瞳にはしっかりとした生気があり、状況を素早く察知した男の顔が驚愕に歪む。
そうして、あちらもマリアの姿を認識すれば、男は声に出さずに唇だけ動かしてマリアに何かを語りかけてきた。
命乞いでもしているのだろうか。
だとしたら無駄だ。ボクはもう見捨てる覚悟を決めた。
しかし、命乞いにしては下劣な生き汚さは見られない。
それどころかこれは――。
その鬼気迫る唇の形を脳内で変換すれば、今度こそマリアは顔をしかめて悪態をついた。
『ぼくに、かまわず、にげろ』
ふざけるな誰のせいで巻き込まれてると思う。
あんたがこんな場所まで飛ばされてこなければこんなことにはならなかったんだ。
なんでボクが罪悪感なんて感じなきゃいけない。
叶うことなら今すぐ駆け寄ってぶん殴ってやりたい。
それでもこんな状態では何もできない。しかもこの距離はまずい。いまだ巨像のように棒立ちを続ける魔獣だが、いつ心変わりをして襲いかかってくるかわからない。
逸る心臓を無理やり押さえつけ刺激しないように一歩二歩と距離を取る。
一メテル。
二メテル。
少なくとも、あと三メテル離れなければどうにもならない。
慎重に身体を動かし、息を殺す。
自分の力のなさに嫌気がさすが、ないものは仕方がない。
いまは自分とアマリの命が大切だ。
うまくいけばこの場を切り抜けられる。
(あと、少しで――)
しかし運命の女神さまはそんな都合の良い展開を許してはくれなかった。
先ほどまで陽気だったアマリが背中でぐずりはじめたのだ。
その瞬間、マリアと男は同時に息を呑んだ。
あんな怖い化け物と対峙すれば誰だって恐ろしいにきまっている。現にマリアだって怖いのだ。生後三ヶ月の娘が泣き出しても仕方のないことだろう。
でも――、今だけは堪えてほしかったとマリアが思うのも仕方がないはずだ。
魔素に汚染された真っ赤な眼球がマリアを射抜き、その鋭い歯ぐきから鋭利な牙が覗く。大人の頭部なら簡単に噛み潰すことのできる顎が大きく開かれた。
「ガアアアアアアアアアアアァーッ!!」
空気を震わせる振動と共に、大きく振りかぶられた二つの巨椀がマリアめがけて大地を叩く。
咄嗟に後ろに飛ばなければ、マリアは赤い染みになっていただろう。
受け止めきれない現実が、脳に空白を生み、致命的な隙を化け物に晒す。
「逃げろ! 頼む、逃げてくれ!!」
「――っ!?」
第三者の声にハッと我に返って顔を上げれば明確な『死』がマリアの前に現れる。
息を呑む暇もなく、二撃目の剛腕をしゃがんで避ける。頭の上を通過する風圧が、内臓を縮ませ、目頭から涙がこぼれる。
けれど、いままで死にそうになったことなどいくらでもある。
そのまま焚火近くの灰を掴めば、マリアは化物の眼球めがけて投げつけた。
咄嗟の行動だったがうまくいったらしい。
慌ててその場を飛び退けば、内臓を震わせる怒号の後にがむしゃらに腕を振るう化物の姿が。
その生まれた僅かな隙に、脳が逃げろと身体が命じる前にマリアは娘を抱えて走り出していた。
◇◇◇
逃げることは恥ではない。
生きていればそれで勝ちなのだ。
わき目も降らず走る。走る。走る。
あの男がどうなったとか。
魔獣はどうなったかとか、そんなの関係ない。
いまは自分と娘の命のほうが大事だ。
重荷になる背負い袋を諦め、マリアはただひたすら森の中を泳ぐように疾走する。
あれだけの素材を捨てるのは痛手だが、所詮は命あっての物種。生き残ったときにまた拾い直せばいい。
堰を切るようにして何度も息を切らし、迷路のように幾重にも分かれる木々の隙間を通り抜ける。
三か月の森生活によって鍛えられた足腰は、どうやら冒険者時代まで戻っているようだ。肺活量だけでなく、林を走り抜ける足が妙に軽い。
なんだか自分の足が自分のものでないような解放感に戸惑いつつ、マリアは赤く染色された布が巻かれた枝を潜り抜ける。
逃げ足なら自信がある。
ぬかるむ地面に細心の注意を払いつつ両足を動かせば、背後から獣の咆哮が木々を揺らし、不規則な地鳴りが響き渡った。
「クッソ、やっぱダメか」
進行方向から考えるに、まさに障害物もお構いなしの猪突猛進ぶりだ。
道中、もしもの時を考えていくつか設置しておいた罠もこの分だと意味はなさそうだ。
少しは時間稼ぎできるかと思ったのだが、見立てが甘かった。
奴らの生き物に対する殺意は尋常じゃない。
前に一度、遠目で討伐劇を見たことがあるがマリアが三十人いてもどうにか勝てる程度の凶暴ぶりだった。
あの速さでは逃げきれるとは思えない。
しかもどういう訳か、マリアを狙っているように思える。
――となれば逃げても仕方がない。
「……ここで戦うしかないのか」
安易な思考に流されているという自覚はあるが、それでもマリアが打てる手立てはこれしか残されていない。
体力が残されていない状態で奴と遭遇すればマリアだけでなく、この子も危険にさらされることになる。
それだけは絶対に避けねばならない。
でも――
「死にたくはないな」
「あーうー」
数分前に娘の未来について考えたばかりなのに、それがこんなにも唐突に終わりを告げるとは思ってもみなかった。
懸命に腕を伸ばし母親を励まそうとする一途なアマリ。
この子のためなら死んでもいいし、怖いのだって我慢できる。
一年前までは本気で自分が親になるなんて思ってもみなかった。それがだんだん膨れていくお腹を見るたびに、自然と愛着が増し、気付けばこの子なしの生活は考えられないまでになっていた。
この愚かな命一つで本当に娘が救えるなら差し出したっていい。
でも本当に娘のためを想うなら、マリアも死んではいけない事もわかっていた。
(……あんな思いをするのはボク一人だけでいい)
今でも、たまに夢を見る。
冷たい夜に一人残されるあの恐怖を。
明日も生きているかわからない心細さに怯え、満たされない冷たさにお腹が鳴る苦しみを。
あんな思いを娘にさせたくないのなら、マリアは何としてでも生き残らなくてはならない。
あんな寂しい思いをさせないために。
でも、あの化け物に勝てるイメージがどうしても浮かばないのもまた事実だった。
外套から取り出したナイフを手に取り、構える。
いつ何が起こってもいいように手入れは怠っていないが、震える右手がたやすく恐怖にすくむ。
このまま魔獣がどこかへ行かないかとありもしない神様に祈るが、そんな奇蹟は起こらないだろう。
だから――、
外套を解くと、マリアはちょうどいい木々の隙間にアマリを隠した。
何をしているのかわからないといった表情を浮かべるアマリだったが、いまはそれでいい。
「静かにしててねアマリ。うまくすれば食べられるのはボクだけで済むから」
「うう?」
「ふふ、いい子。必ず戻ってくるから静かにしてるんだよ」
どうやら言葉の意味を理解していないらしい。
木々の隙間にアマリを隠し、額にキスする。
くすぐったそうに笑う娘がキャッキャッと声を上げ、何度もマリアに手を伸ばし、抱っこをせがむ。
きっと何かの遊びだと思っているのかもしれない。
でも今はその願いには答えられない。
「必ず。必ずむかえにくるから」
湧き上がる涙を袖で拭い、無理やり笑みを作ってみせる。
これを今生の別れになんてするつもりはない。
覚悟を決めて向き直れば、こんなにも勇気が湧いてくる。
無知で無力で無謀だからなんだ。
それだけで生きることを諦めるなんてもう御免だ。
生きて、娘と平凡な未来を過ごす。
「おかあさん。頑張るから」
もう一度娘の額に優しいキスを落とし、勇気をもらう。
そうして名残惜しく娘から離れるのと、獣の捕獲用の罠が破壊されるのはほぼ同時だった。
森の奥から魔獣がゆっくりと姿を現す。
興奮気味に鼻息を荒げ、ぎらつく眼球をせわしなく動く。そしてその視線が一点、肉の少ないマリアを見つけると、その口元が『獲物』を嘲笑うかのように卑しく歪んだような気がした。
大きく喉を震わせる咆哮が、森の雫を落とす。
勝鬨のつもりか。
でもお前なんかに食べられるつもりなんてない。
だって――、
「子供を守るのが親の責務だからね」
それがあの子を産んだ時に決めた、数少ないマリアの決意なのだから。
あの子の未来を見守るために戦う。
そのためなら何だってやるし、なんだって乗り越えてみせる。
それがマリアの覚悟だ。
掲げたナイフを身体の前で構え、ゆっくりと息を吐く。
いつの間にか、右手の震えは収まっていた。
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