第3話 聖母、ありふれた日常


 チロチロと頼りなく揺れる篝火に目を細め、下腹部に自分とは違う温かい熱を感じてマリアは目を覚ました。

 爽やかな目覚めとは言い難いが朝は朝だ。

 壁に預けた身体を慎重に伸ばせば、一気に意識が覚醒する。


 どうやら無理な体勢で寝ていたせいか身体が変に凝り固まっていたようだ。

 軋む身体をゆっくりと動かしていくと、あれほど激しく鳴り響いていた風切り音が聞こえないことに気がついた。

 どうやら嵐は過ぎ去ってくれたらしい。

 それにしても―― 


「……なんだか懐かしい夢を見ていた気がする」


 しかしマリアはいつの間に寝ていたのだろうか。

 夜泣きするこの子に乳をやり、おしめ替えて子守唄を歌ったところまでは覚えているが、そこからとんと思い出せない。

 そこまで考えて、どうやら子供の世話をしている最中にうたた寝をしてしまったらしいと思い至る。


 大きなあくびを一つ打ち、瞼を擦れば、マリアの膝の上で寝息を立てる我が子を優しく撫でつける。

 小さな手足に、柔らかい頬。ようやくハイハイしだした幼子は目を離せばすぐどこかに行ってマリアを慌てさせるのだ。


「まったく、わんぱくなんだから」


 日々、育児の大変さを思い知らされる。

 特に最近は色々なものに興味を示すお年頃なのか、マリアの目を盗んで脱走することが多くなってきたから困ったものだ。

 昨日も夜泣きが酷くてなかなか寝かせてもらえなかったが、この愛らしい寝顔を見ればこれまでの苦労などどうってとこない。むしろお釣りがくる。


 しかしそれでもまだ手探り感は否めない。

 特に、料理中に焚火に手を伸ばそうとしていたこの子を見た時は肝が冷えた。


 まだまだ母親になり切れていないな、と小さく苦笑すれば、愛らしい寝顔で唇を動かす我が子がマリアの指を優しく食んできた。

 おっぱいと間違えているのか、チュパチュパと指を吸う音が聞こえてマリアの頬が自然と緩む。


「ふふ、かわいい」


 赤子は寝るのが仕事だというから、もう少し寝かせてやってもいいだろう。


 肩を回すようにして体を揺すれば、腕のなかにいる『アマリ』もそっと力を抜いたような気がした。


 アマリ。


 それが生まれたばかりのこの子に名付けた名前だ。

 聖堂院で密かに考えていた娘の名前。

 娘ならアマリ。息子ならアマタ。

 ただ健やかに生きてくれさえすればそれでいい。それだけを願ってつけた名前だ。

 嵐が去ったあとの洞窟から出れば、青空から零れる光に目を細める。


 この子を無事出産できてから、約三か月が経過した。

 季節は夏へと移り変わっているはずなのだが、この森に定住してからというもの季節の変化を感じさせないほど穏やかな生活が続いていた。

 『聖母』として女神に選ばれ、生まれた娘は勇者の資質を持つ転生者。


 言い伝えが真実なら、今頃アマリには勇者としての資質が芽生えているはずなのだが、そんな傾向は見られない。


 よく食べ、よく泣き、よく眠る、どこにでもいるような小さな赤ん坊だ。


 世間一般の物語にあるような、岩を砕き、空を割るような力がこの子に宿っているとはどうしても思えない。 

 しかし、だからといってもいまだ捜索は続いているはずだ。


 それだけ『勇者』となりうる『転生者』は世界に必要とされているのだろう。

 そう簡単にあきらめるような連中ではないと理解しているが、あれからというもの教会の追手を見かけることはないのも事実だったりする。


「あらしの夜に、魔獣と遭遇して死んだ――なんてのは都合が良すぎるかな」


 もしくはマリアがすでに死んだものと判断されたか。

 どちらにせよずっとこのままという訳にはいかないだろう。


 いずれはここを出て、どこか田舎の町で暮らすのもありかもしれない。


 朝露に濡れた緑色の世界を眺め、マリアはそっと小さく息を吐き出す。

 とにかく今はもう少し、この森に居よう。

 

「うっし、それじゃとりあえずご飯でも探してきますか」


 腰に手を当てると大きく意気込む。

 考えたって未来は変わらない。ならとにかく行動あるのみだ。


 今日も何気ない朝が始まる。



◇◇◇



 魔獣が跋扈する『禁域』だとは思えないほど命冴えわたる森を歩き、木の実を取っては背嚢の中に入れていく。

 三か月も森で生活していると、どこになにがあるのかだいたいわかるようになるから面白い。

 一時期、まるで森を支配しているかのような万能感におぼれ、つい調子に乗って食べきれない量の木の実を取ったとこもあったが、それは遠い昔の話だ。

 いまはどの程度とれば、どのくらい持つかを正確に把握できるため、そんなもったいないことはしない。


 食べごろで質の良いものだけを一つ一つ丁寧に採っていく。


 それを背負い袋に仕舞っていけば、無邪気な笑い声が背中から上がった。

 もちろんアマリを置いていくような真似はできないのでしっかり外套で固定し、背中に結わえ付けている。

 下手に目を離せばどうなるかなど、身をもって経験したことがあるだけに外に出るときは必ず同行させるようにしている。


 無邪気な存在は本当に怖いもの知らずだから恐ろしいが、これも親としての責務なので疎かにはできない。


「どうだアマリ。嵐が明けたから空気がおいしいだろう」

「あーっ、うゅー!!」


 どうやら久しぶりの散歩が気持ちいいらしくご機嫌な声が聞こえてくる。

 何度見ても未知の世界は興味深いのか、彼女なりにあーうー言いながら自然と触れ合う姿は見ていて微笑ましい気分にさせられる。

 マリアもそこまで植物には詳しくないが、有毒か否かを見分ける程度の知識はあるので心配ない。


 この時ばかりは、聖堂院で勉強しておいて本当によかったと思う。


「サンジョク草にヒポクク草。おっ、リャンガもある。今日も豊作だぞアマリ」

「あーうーっ!!」


 前者の二つは万能薬の原材料で、後者は皇族御用達ともいわれる赤い果実だ。

 艶が照り大きく実ったものだけをもいで背嚢に仕舞えば、応えるように元気いっぱいの声が聞こえてきた。

 まだ歯が生えていないアマリではあるが、リャンガは彼女の大好物だ。

 この甘い果実はすりおろして布で越せば、立派な果汁液になるため煮沸した水で希釈さえすれば、ちゃんとしたオヤツになる。


「それにしてもこの森はホントに何でもあるな。リャンガなんて春に実る果物なのに」


 不思議ではあるが、それほど不思議がるようなことでもない。

 なにせここは『禁域』だ。

 魔術師としての才能がないマリアですらマナの気配をはっきりと感じるほど、ここは生命に満ち溢れている。

 魔獣や魔物が常に跋扈し、魔素が充満する世界からすればこれだけ原初の自然に近い状態で残されている大地が稀有なのは語るまでもないだろう。


「よっし、とりあえず今日はこんなものかな」


 ここ最近雨続きで備蓄が切れていたが、これだけ集めれば上々かもしれない。

 太陽もだいぶ真上に昇ったことだし、ここらへんで休憩を入れるのも悪くない。

 けど、その前にちょっと寄り道をする。

 生い茂る草を踏みしめ、拠点となる洞窟に戻りかけたところで僅かに右折する。

 そうして視界が開けた先に身体を躍らせれば、なぎ倒された木々の隙間に覗く小さな小川があり、どうやら今朝設置した罠にうまいこと魚が掛かってくれている。


「きょうの晩飯ゲット!!」


 冷たい水に両手を浸し、ゆっくりと籠を持ち上れば、ビチビチと活きのいい魚たちが籠の中でしぶきを上げる。

 マナが多いということは、生命の恵みに満ちている証拠だ。

 その証拠に『禁域』の森に籠ってからというもの、食べることに困ったことは一度もない。

 籠のなかを覗けば、五匹の魚が躍るように跳ねまわっている。

 荷物もそこそこ多いので、ここで食べてしまっても問題ないだろう。

 手早くナイフで魚の腹を裂き、枝を刺して焚火で炙る。


 食べられるときに食べる。


 それが冒険者として身についた鉄則であり、マリアなりの命を奪ったものに対する礼儀だ。

 意地汚いと言われることもあるが、そこで食事を逃せばそれ以降何も食べられない可能性のあるマリアにとっては死活問題なのだ。

 ここだけはどれだけ教育されようと直す気はない。

 一方、おんぶ紐から解放したアマリはというと、パチパチと爆ぜる焚火にいたくご執心のようだ。興味深げに瞳を輝かせ、焚火に手を伸ばそうとしているが、当然目を離すような愚行は侵せない。

 抱き寄せるようにして膝の上に固定してやれば、大きく頬を膨らますアマリと目が合った。


「はいはい大人しくしてるの。これ食べたらちゃんとご飯あげるからちょっと待っててねー」

「ぶううー」


 不満げに唇を尖らせ、焼き魚に手を伸ばそうとするアマリ。しかし残念ながら歯の生えていないアマリに固形物はまだ早い。

 それにマリアが食べたものがそのままアマリの栄養にもなるので、食事に関しては手を抜けなかったりする。


「あちっ、あちち!?」


 洞窟の奥で採取した岩塩をふりかけ、遠慮なく腹からかぶりつく。

 程よく効いた塩気が食欲をそそり、溢れ出るうまみが口いっぱいに広がる。


「うまい!!」

「ふええええ」


 おそらくズルイとでも言っているのだろう。

 我ながら大人げないとは思うが、仕方がない。

 情けない訴えに小さく顔をほころぶのを自覚しながら、優しく背中を揺すってやる。

 くすぐったそうに身をよじり、口をパクパク開閉させるアマリ。

 それが乳をねだる子供の仕草だと理解するのに少しかかったが、それももう慣れたものだ。

 革鎧の胸当てを解き、女にしては薄すぎる胸元を僅かに晒す。それだけで待ち焦がれたように手を伸ばすアマリが乳頭にかぶりつき、こくこくと喉を鳴らしてゆっくり食事を始めた。

 母乳を与えはじめた頃はあまりのくすぐったさに死にそうになったものだが、こうして娘にご飯を上げるというのは何度経験しても慣れない。

 それどころか日々成長していく我が子に不思議と形容詞がたい感情が沸き上がるのだ。


「よしよし、そんな慌てなくてもご飯は逃げないよ。もっとゆっくり飲みなって」


 一年前では考えられなかった心境の変化。

 一度、腹を痛めて産めばこれほど愛おしく思える存在はそうないだろう。


 在りし日の母も、こんな感情を抱いたのだろうか。


 ひとしきり満足したのか乳首から唇を離すアマリの背中を優しく叩いてやれば、満足げなゲップが飛んできた。

 そして腹が膨れたおかげか、それとも温かい陽気に誘われたのか。うとうと微睡む娘にマリアは隠すことなく笑みを浮かべ、考える。


 この子を与えてくれた女神に感謝はしないが、この子が無事に生まれてくれたことにだけは感謝しようと。

 だからこそ――


「戦うためだけに生まれてきたなんて、そんな悲しい運命、認めない」


 誰に対してでもなく呟き、空を睨みつける。

 このまま森に閉じこもっていても何も解決しない。

 いずれはこの森から出て、この子のためにできることをしなくてはならないことも理解している。

 だからこそ今のうちにできうる準備はすべてしてきたつもりだ。


 万能薬として知られる丸薬の生成。

 洞窟奥深くから採取してきた質のいい鉱石や岩塩。

 あとは森で採取した珍しい薬草なんか質に入れれば、ある程度まとまった金になるはずだ。 


「あとはこの森から無事に出られれば、すべてうまくいくはず」


 確かな希望を胸に冒険者用の装備をつけて、拠点へ戻る支度を進める。

 マリアの膝の上で太陽蝶と戯れていたアマリを抱え上げ、そのまま外套を括りつけて背中に回そうとしたところで、その動きが僅かに止まった。


 どこからともなく草木をかき分ける音が聞こえてくる。

 それは徐々に大きくなり、やがて轟く雷鳴のような咆哮と共にマリアの横を通り過ぎる形で、黒い塊が飛び出してきた。


 それは、鋭い爪痕を鎧に残した一人の騎士だった。

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