第一章 わからないことだらけでも――
第2話 聖母、受胎告知をうける。
両親から森へ捨てられた時、たまたま行きかかった親切な冒険者がしばらく同行を許してくれなければマリアの命はあの薄暗い森の中で食まれていたことだろう。
十歳の折に両親に捨てられ、一人で生きていくしかなかった幼少時代。
凍てつく外気に手をかじかませ、腹をすかせるひもじさと差し伸べられた手の平の温かさを今でもはっきりと覚えている。
なんの変哲もない、平民上がりの冒険者。
それがマリア自身がこの世界に残せた唯一の記録『だった』。
一人で生きていくには過酷すぎるこの世界で、幼い少女が一人、群れも作らず明日の飯にありつくには並大抵の努力を費やしても難しい。
街の外では魔獣や魔物が当たり前のように跋扈し、街のなかでは腹をすかせた子供を食い物にする悍ましい連中が目を光らせている。
苦しんで死ぬか、利用されて生きるか。
町の片隅で身を寄せる浮浪者の大半が娼婦や乞食なんかに身をやつし生活を立てるなか、幼かったマリアが誰にも利用されずに生きてこれたのはそんな何気ない善意のおかげだった。
路上の片隅で生きているのか死んでいるかすらわからず、他人に自分の人生を委ねるしかできない人生はいまにして思えば悲惨だ。
与えられることを当然と割り切り、享受していくうちに感覚がマヒし、いつしかそれが習慣になる。
人か獣かもわからない浅ましい生活。
手元にあるものに文句をつけ、他人の物を羨み利用するしかできない人生はきっと憐れだ。
しかし、下手すればマリアも同じような運命をたどっていたかもしれないと思うと他人事ではいられなかった。
だからこそ、お人よしの彼は幼いマリアを甘やかすようなことはしなかったのだ。
自分の食い扶持は自分で稼ぐ。
まず初めに教えられたのはそんな当たり前のことだった。
自分の実力を過信せず、常に周りに気を配る。
ある時は熟練のパーティに荷物持ちとして誘ってもらい、ある時は盗賊に嵌められかけたところを助けてもらうなんてこともあった。
どちらにせよ彼のお荷物にしかならなかったマリアだが、それでも彼はそんな役立たずを切り捨てることはなかった。
波乱万丈では語りつくせない五年間だったが、剣術の才能もなければ魔法の才能もない凡人のマリアがこれまでどうにか食い繋ぐことができたのは、まさに『彼』のおかげだった。
彼の下でそれなりに学び、それなりに鍛えられた。
しかし、そんな生活もある日を境に唐突に終わりを迎える。
冒険者にとっては当たり前の結末かもしれない。
魔獣に喰い殺されるのでもなければ、英雄らしく死んだわけでもない。
落盤による転落死。
落ちるはずだったマリアを庇ったお人よしの最期は、そんな呆気ないものだった。
あの人当たりの良い表情が絶望に染まり、落ちていく様は今でもはっきりと思い出せる。
結局のところ彼は、最後の最後までマリアをどうしたかったのだろう。
それすら聞けずじまいで終わってしまった。
それもこれも全てマリアが『忌み子』であることが原因なのかもしれない。
新月の夜に生まれた赤髪の子供は、不幸の象徴である。
もはやこの世界では一般常識になりつつある言い伝えだ。
マリアに関われば誰かが不幸になる、――という最悪の呪い。
村の誰かと遊べばその子供がマリアの代わりに怪我をし、夜になれば魔獣が意味もなく暴れ出す。豊作を約束された年に村の作物が原因不明の病に陥ることなど何度もあった。
まさに不幸の寵児に相応しい人生。
だから、女神がマリアに望まぬ宝をあたえるのは必然だったのかもしれない。
教会の連中がマリアの元を訪れたのはそれから十五の誕生日を迎えたある日。
ようやく冒険者として日銭を稼ぐことに慣れたマリアに、『使徒』と呼ばれる女神の遣いが現れた。
それは奇しくも夢のなかだったが、お伽噺のような展開にさすがのマリアも驚いた。
なにせ枕元に『天の遣い』が現れたときそれはその者が 女神の神託によって『聖母』に選ばれたということなのだから――
『恐れるな祝福されし寵児よ。わたしは女神エリシュの使いである』
『誉れ高き女よ。そなたは選ばれた。この世を救う勇者の一人を授かる権利を』
誰かとまぐわった覚えもなければ、意中の相手がいたわけでもない。
それでも自分の中に新しい命が宿っていることを知らされて、受け入れられるほどマリアは夢見がちな性格はしていなかった。
マリアが知りうる言葉で女神を罵り、叫び、唾を吐く。
聖母なんてまっぴらだ。
そんなものに興味はない、クソくらえだ。
しかし、結局のところ非力で平凡なマリアにできることと言えばその程度で、抵抗する権利などなかった。
しかもどうやってその事実を聞きつけてきたのか、教会の連中がやってきたのはそれから三日後のことだった。
教会の生臭坊主どもとは碌な思い出がない。
話を聞けば女神の神託は不幸にも、教会の耳にも伝わっていたらしい。狂ったようにぎらついた瞳を輝かせ、「あなたは恵まれた人」「わたし達人類のためにお力をお貸しください」「我ら人類に希望の光を」と迫ってきた。
当然、激しく抵抗する。
教会の連中なんて信用ならない。
いもしない幻想を追いかけ、金をむしり取るだけの亡者だ。
マリアは何度も連中に煮え湯を飲まされてきた。
なんとかその場を逃げ出し、逃げて逃げて逃げまくった。
しかしっそんな逃亡劇も虚しく衛兵に捕まり、王国が管理している聖堂院に連れられたのは翌日のことだった。
そしてその日、マリアの世界は文字通り一変した。
王宮と見間違うほど白く起立する聖堂には、マリアと同じような『聖母』が幾人も集められていた。
年齢やお腹の大きさはまちまちだが、どれもマリアが普段から接することのできない身分の者たちなのは一目瞭然で、その輪の中にマリアがすんなりと受け入れられてしまったから困惑させられた。
薄汚いマリアの身なりを見ても全く驚かず、なかには「ごきげんよう。これからお互い頑張りましょうね」などと訳の分からないエールを送って来る者までいる始末。
王族のような清潔できらびやかな服に身を包み、明らかに身分の高いとわかる仕草で会話を交わす女たち。
その誰もかれもが幸せそうな表情で笑い、大きく膨れたお腹を愛おしそうに撫でている。
しかしその光景がマリアには信じられなかった。
なんで身に覚えもない子供を腹の中に宿してそんな顔ができる。
しかも彼女らの視線はどれも異様なほど強い感情に満ちている。
狂気ともつかないそれは、笑顔で迎えられる仮面の下で隠されてはいるが、一時期、欲望と悪辣が混ざる裏路地で生きてきたマリアにすら読み取れないほど強烈な感情の波があった。
……馬鹿らしい。こんなところすぐに逃げ出してやる。
しかし、そんな決意と不信感も十日もすれば霧散することになる。
なにせ聖堂院での暮らしはいままでマリアが味わったこともないような贅を煮詰めたような暮らしだったからだ。
食べ物は頼めばいくらでも温かい皿に乗って出てくるし、綺麗で清潔な服は毎日着放題。いままで知りもしなかった知識や教養を惜しみなく与えられ、夜にはふかふかのベットに潜り、明日どうやって生きていくか思案する必要もない。
まるで童話に出てくるようなお姫様のような暮らしぶり。
平民の自分からは考えられないような生活だ。
だからこそ、しばらくして『わたし』は聖堂院から逃げ出すこととなる。
『聖母』として赤ん坊を生む、その意味を知ることによって――。
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