汝は『聖母』なりや? ~たとえ明日世界が滅んでも、戦争なんて行かせません!!~

川乃こはく@【新ジャンル】開拓者

プロローグ あらしの夜に――

第1話 『聖母』マリアの受難

 自分の幸福が誰かを傷つけると知った時、すべてが手遅れになっていた。


 非難と侮蔑のさえずりが吹き荒れる深い森のなか、少女は『禁域』と呼ばれる魔性の森を歩いていた。

 荒れ狂う風の暴力が外套をはためかせ、その下にある真っ赤な髪が落雷によって不吉に光る。

 事情があってこれしか持ちだせなかったが、それでも旅人にしてはあまりにも無謀といえる軽装の数々。

 息をひそめるようにして木陰に隠れれば、雨の音に混じっていくつもの足音が聞こえてきた。


「おい、こっちにいたか」

「いいや、だめだ。足跡が消えて見つからねぇ」

「くっそ、なんでよりによって『ここ』なんだよ、こんな嵐じゃみつかるもんもみつかんねぇぞ」

「グジグジ言ってねぇでさっさと探すぞ。これじゃあ大司教様の面目が立たねぇ」


 男たちの声が遠くに聞こえ、息を弾ませる声が聞こえてくる。

 どうやら西の方角に進んでいったらしい。


「追手が増援する前に早くいかなきゃ」


 そこまで考えて少女は慌てて首を振るう。

 目的をはき違えてはいけない。いま自分がすべきことは追ってから逃げることじゃない。

 『この子』を教会の手から守ることだ。


「……とりあえず、雨宿りできる場所を探さなきゃ」


 自分の膨れたお腹をそっと擦り、草むらから顔を出す。

 一度注意深くあたりを確認し、男たちがいないことを確認すると、

 

「絶対に逃げ切ってやる」


 僅かに痛むおなかを抑えて、道なき道を慎重に歩くのであった。


◇◇◇


 道中の道行きで、少女の身体を気遣う者はもちろんいた。

 どうにか手を貸し、自分の僅かばかりの罪悪感を押し殺そうとする者もいた。


 しかし、本気で自分の命を懸けて少女を助けようとするものは現れなかった。


 当然だ。『ボク』だってそうする。

 世界平和なんて言葉が欺瞞な以上、他人のために命を懸けるなんて馬鹿馬鹿しいとすら思う。

 なにせ――

 

(見るからに訳アリですって主張しているを見ればね――)


 病的なほど細い体に似合わず膨れたお腹に目を落とし、僅かに苦笑する。

 そしてしばし休憩を取ったのちまた雨の下に身体を晒せば、風に煽られた外套がその下にあるフレア状のスカートをめくり、冷たい雨風が入ってきた。


「ううっ、さっむ」


 震える身体を掻き抱き、どうにか体温を確保する。

 かろうじて身体を覆う外套もこの嵐では意味をなさないようだ。

 頼りなくぶら下がる背嚢を背負い直し、フードを目深く被れば音を立てて荒ぶる外套がやかましく少女の頬を打ち付けた。


 鬱陶しい。でも、今はそれがありがたい。

 もはや痛いのか、苦しいのか、ボクにだってわからない。


 熱に浮かされる意識は朦朧とし、網膜に現実味を帯びない歪んだ景色。

 吹き出す熱い汗は滝のように滲み、冷たい雨に混ざる。

 頼りなく揺れる身体は時折、妙な震えを起こし、堰を切るように短く吐き出される熱い吐息が風に運ばれ消えていった。


 そして、そのおぼつかない足取りでぬかるんだ地面を深く踏みしめれば――、


「きゃっ!?」


 あわやバランスを崩しかけ、絶対に転んではいけないという気力だけが少女をその場に縫い留める。不意に巻き上がる突風がフードを攫い、無造作に縛り付けた赤い髪が後ろに流された。

 

「はぁっはぁっ、はぁっはぁっはぁっ――うっぷ」


 ドキドキと大きく脈打つ心臓。

 不意に、込み上げる吐き気に口元を抑え、耐えきれずに吐しゃ物をぬかるむ地面にまき散らす。

 酸っぱい胃液が口内を汚染し、水っぽい音に耳朶を汚染する。

 うるさい心臓を押さえつけ、幾重にも歪む視界をどうにか確保すれば、あたりを見渡し、少女はそっと息をついた。

 太い大樹に身体を預ければ、遅れて倦怠感がやってくる。


「もう、……追ってこない、か」


 降りしきる雨粒が熱を奪い、吹き荒れる暴風が揺らぎ十メテル先の視界すら確保できない。

 にも拘らずそう断言できるのは、きっと感覚が鋭くなっているせいだろう。

 うすぼんやりと見える『見えないはずの世界』。

 おそらく濃度の高いマナに身体が共振を起こし、霞む視界であってもどうにか自分の位置を把握できるのだろう。

 魔術師のなかには特別そのような目を持って生まれてくるものがいると聞いたことがあるが、まさか、こんなところでが自分自身の新たな一面が見られるとは思ってもみなかった。

 いや、これも全て――


(これの所為なんだろうね)


 自嘲気味に歪む唇を拭い、大きく脈動する腹部を撫でる。

 するとあれほど萎んでいた気力が僅かながらに沸き立ち、どうにか震える一歩を踏みしめることができた。

 気を抜いてなんかいられない。

 嵐のせいで姿は隠されているが、背後には『女神の寵愛』によって栄えたとされるフェブリル王国が見えるはずだ。

 彼女はその聖堂院から逃げ出してきた。

 まさかこんなところまで追ってはこないだろうが、事が事なので油断はできない。


「……あのクソじじいども、よくも騙しやがって」


 突き刺すように痛む鈍痛に顔をしかめ、思わずうずくまる。

 振りつける雨は容赦なく少女の体温を奪い、かじかむ身体に震えが走る。

 それでも、ボクは進まなくちゃいけない。

 


◇◇◇



 全てが仕組まれていたと気付いたときには、全てが遅かった。


 もう一度大きく膨らんだ自分のお腹を優しく撫でれば、身体の奥深くから自分とは別の熱を確かに感じる。


 全人類の救済のために、遣わされた命。

 それがまだ生まれてもいないこの子に定められた運命だった。


 滑りよろめく身体をどうにか堪え、太くたくましい樹木を頼りに当てもない行進を繰り返す。

 進んでは休み、進んでは休み。

 絶え間なく続く吐き気に頭を振るい、根性で耐える。

 しかし、泥でぬかるむ大地はただでさえ少ない体力を奪いにかかる。

 冒険者としてそれなりに力をつけてきたつもりだったが、一年近い宮廷生活が予想以上に身体を鈍らせていたようだ。


(……こんなことになるんだったら、ちゃんと訓練しておくんだった)


 浮かんだ涙は嵐の豪雨に紛れ、次々と思い浮かぶ後悔だけが薄暗い顎を開ける。


 後悔しても遅いなんてわかってる。


 ただでさえ凡人の自分が訓練を怠ればどうなるかなど、わかりきっていたではないか。それを承知でいままで自堕落ともいえる生活に身をゆだねてきたはずだ。

 今更、自分の覚悟のなさで誰かが犠牲になると知って足掻いたとしてもこの『罪』が消えるわけではない。


 それでも、いまはそんな自分本位の愚かさがとにかく悔しかった。


「あいつらの思い通りなんかに、させてたまるか」


 歯噛みするようにきつく唇を噛めば、背筋を這うような怖気にもう一度大きく身震いする。反射的に震える肩を搔き抱けば、剥き出しの神経を直接触られたような不快感が脳から背骨を通って下半身を蝕んでいった。


 もう、限界が近い。


 霞む視界のなか、無駄な思考を削ぎ落して降りしきる雨粒の下に身体を晒す。

 例え春季の夜であろうと雨に打たれれば寒いなど当たり前だ。


 吹き荒ぶ突風の音が聴覚を奪い、朦朧と浮かされる思考と本能だけが身体を動かす。

 定期的にやって来る激痛に歯を食いしばり、呻き声が漏れる。

 時にもつれる足を叱咤させ、時に転びそうになる身体を必死に堪える。


 嵐が近いのは知っていた。

 だが今日という日を逃せば、今までの苦労が全て水の泡になる。それだけは何としても避けなければならなかった。

 だからこそ手つかずの洞窟を見つけたのは奇跡に近かった。


「……ここで、やるしかないか」


 幸いにも魔獣や魔物と言った類の生物はいないらしい。

 限界に近い膨れた腹部を抱え、ゆっくりと腰を落とす。

 底冷えする洞窟は体温を容赦なく奪っていくが、文句など言っていられない。


 外套から乾いた松脂を取り出せば、背負い袋に仕舞っていた薪を放り出して火を灯した。

 渇いた薪がはじける音と共に、燃え上がる灯火が徐々に勢いを増し、柔らかい熱で洞窟を満たしていく。

 徐々に開けていく視界のなか、照らし出されるまばゆい光に目を細めれば、目尻の奥底から大粒の涙が浮かび上がった。


 こんな結末、望んじゃいなかった。


 けれども神託によって告げられた事実はこうしてこの貧相な身体に奇跡を起こした。


 薄い肌着を脱ぎ捨て下半身を露出させる。

 もはや誰もいないのだから羞恥心など関係ない。

 自然と脂汗が浮かび上がり、何度も優しく腹部を擦れば、遅れてやってきた激痛に思わず身体が横たわる。


「――ッ、なんで、ボクがこんな目に」


 どれだけ女神を呪えばこの痛みは過ぎ去ってくれるだろう。

 心細さに歯を食いしばり、荒い呼吸を繰り返せば脳天をつくような激痛が何度も下半身を叩き、悲鳴と共に今度こそ涙が零れ落ちる。

 気温が低いことも相まって筋肉が収縮し、なかなか産道が開かない。それでも熱に浮かされた身体だけははっきりと意識を覚醒させ、思考を鈍らせる。


 頭が、痛い。


 とにかくうる覚えの知識を総動員させて、仰向けになると股を開くと腰を高くして何度も続く痛みに歯を食いしばる。

 嵐吹き退る洞窟のなか、僅かに灯した篝火だけが少女の拠り所となっていた。

 いくつもの不安が一挙に押し寄せ、不安を切り捨てるように浅い呼吸を何度も繰り返す。

 反響する自分の呻き声が鼓膜を叩き、けれども何度も襲いかかってくる激痛が止むことはない。


 けれど耐えなくてはいけない。


 どんなに痛くて痛くて死にそうになっても、身勝手に与えられた宝物を『産む』ために。

 気休め代わりに外套の裾を噛み、大きく息を吸ってタイミングを合わせる。


「ううっ、うううぅぅぅうううううっ」


 自分の中から何かが出てくる不快感に眩暈がし、腹の中で肉がミチミチと音を立てて裂けていく感覚が脳髄を犯す。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


 けれどもをいっきむのをやめる訳にはいかない。

 何度も襲い来る痛みに嬲られ、獣のような呻き声が歯の隙間から洩れでる。

 そして――、


「ああ、あああああああああーっ、ああああああああああああああああああああああああああッッ!!」


 洞窟の中に自分のものと違う新しい命の産声が声高く響き渡った。

 

 びっしょりと玉のように浮かび上がる大粒の汗を拭い、ゆっくりと脱力する。

 王国が保有する聖堂院から逃げ出してから一週間。

 追手に追われる恐怖と出産に伴う心細さに耐えた。あれだけ泣くまいと決めていたのに、胸の内に湧き出た感情を堪えることができなかった。


「ボクが、必ず守ってあげるからね」


 鼻水と涙でぐしょぐしょの顔を外套で拭い、生まれたばかりの『娘』を抱き寄せる。

 今日この日、十六度目の誕生日を迎える少女――マリアは、異世界からの『転生者』として苛烈な運命を約束された娘の頬をそっと撫で、一人静かに涙するのであった。

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