トラベラー
エリスが通う高校、その旧校舎の部室棟を歩くユウキからは時間感覚が失われていた。
実家を出たのは夜であり、暴風雪が吹き荒れる夜道を歩いてこの廊下までやってきた。
そのため今は明らかに夜であることがわかっている。
そう、今は夜だ。
だがそれは本当だろうか?
上空で吹き荒れ、地響きのごとき揺れを校舎に加えていた暴風雪は、いつの間にか音もなく降りしきる粉雪に変わっていた。
「…………」
この古い廊下の左側には等間隔に部室のドアが五つ並んでいる。右側には窓があり、ガラスの向こうには夜空が広がっている。
ユウキが歩を進めるたびに足元の床板が軋む。
それ以外、廊下はひっそりと静かである。
「…………」
ふと足を止めたユウキの呼吸音が響く廊下に、今、夜の大気の向こうから光が差し込みつつある。
光。
夜に光るものといえば街灯や月明かり、星灯りの類いであろう。
先ほどまで横殴りの吹雪に阻まれ届かなかった光が今、窓の向こうから差し込んでいるのだ。
上空では雲が割れ、その隙間から月や星が顔を覗かせているのだ。
それゆえに今、光が廊下を照らしているのである。
「…………」
だとしてもこの光は眩しすぎやしないか?
廊下の空気には埃が舞っている。その埃が窓の外から差し込む青白い光を浴び、ユウキの眼前で帯電するかのように輝いている。
その輝きに目を奪われてユウキが息を呑む。
その一呼吸ごとに、窓の外から差し込む光がより濃密に廊下に満ちていく。
刻一刻と強まっていく光がユウキの時間感覚を狂わせていく。しかも光は外からだけでなく、自らの内側からも溢れ出しつつある。
胸の中にあるよう感じられる蓮華の蕾、その花弁の隙間から光が漏れ出している。それは外からの光と混じり合い、ユウキの内側と外側の区別を曖昧にしていく。
その異様な意識状態への恐れを手放すためにユウキはスキル『深呼吸』を発動した。そのとき脳裏にナビ音声が響いた。
「スキル『半眼』のレベルが一時的にブーストアップされています。これにより心の内と外を、境界の無い一つの実在として認識できるようになります」
「それになんの利点があるんだ?」
「意識に内在する性質……偏在性、すなわちオムニプレゼンスを活かした施設への親和性が高まりそうですね」
「よくわからないが、要するに異世界ポータルを使えるようになるってことか?」
ナビ音声が肯定したことを表すシグナルが脳内に広がった。
ユウキは自己の内外に広がる光を感じながら部室棟の一番奥、五号室を目指した。
しかし時間感覚と共に空間感覚までもが変化していた。先ほど出てきた四号室、そのすぐ隣にあるはずの五号室が、果てしない無限遠にあるよう感じられてならない。
「まあ歩いてればいつか着くだろう」
ユウキは目標に向かって足を進めた。
だが目標に向かって前に進むごとに内外に溢れる光の量が倍々に増えていく。それと共にユウキの背筋に電流のごときチリチリとした感覚が走る。
「まったく。神秘的な光も強まり過ぎればコズミックホラーと変わらないな」
ユウキは各種スキルを発動して恐怖をスルーしつつ廊下を前進した。
「前もって探索者のイニシエーションを受けておいて助かったぜ」
あのイニシエーションによってこの神秘的な光にある程度、慣れることができた。それゆえに牛歩のごときスロースピードではあったが、なんとか廊下を前進を続けることができた。
「…………」
やがて永劫を思わせる時間を超えて廊下を歩き続けたユウキはついに五号室の前へと辿り着いた。
ユウキは五号室の錆びたドアノブをひねった。
「……ん?」
開かない。
二度三度、ドアノブをひねったが開かない。
「まさか、鍵がかかってるのか?」
そのとき澄んだ金属音が聞こえた。
金属音の発信源はエクスプローラー鞄のショルダーハーネスだった。そこにはナイロンのループにカラビナでキーリングがぶら下がっていた。
震える指でなんとかカラビナを外し、キーリングを眺める。革製のキーリングに丸い金属パーツが埋め込まれている。
ユウキは驚きの声をあげた。
「こ、これはAirTagじゃないか」
これをiPhoneに登録しておけば、キーリングをどこに落としても『探す』アプリからすぐに見つけることができる。
「しかもこのキーリングは、エルメスの純正品じゃないか!」
そのラグジュアリーなキーリングの先端では、『五号室の鍵』が揺れていた。
「…………」
ユウキはその鍵をそっと五号室の鍵穴に差し込んでひねった。
かちりと音を立てて五号室のドアは開き、その隙間から圧を持った濃密な光を溢れ出してきた。
光は意志を持っているかのごとくにユウキを包み、五号室の中へと彼を引き入れた。
がちりと音を立てて、ユウキの背後でドアが閉まった。
「…………」
ユウキは室内を観察した。
かつての部活動の痕跡だろうか。写真フィルムの引き伸ばし機や、囲碁セットなどが壁際の流し台や棚に置かれている。
部屋の真ん中には古びたソファが置かれており、その奥には錆びたロッカーが三台並んでいる。
そのロッカーはどれも扉が開けっぱなしになっており、その内の二台には、今、ユウキが背負っているのと同型の鞄がいくつもぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
残りの一台のロッカーには、荷物は何も詰め込まれていない。その代わりに、空っぽのロッカーの奥から、光がこんこんと溢れ出していた。
その光は照明の付いていないこの部室の空気を眩しく輝かせていた。
「まさか……このロッカーが異世界ポータルなのか?」
ユウキは恐る恐るロッカーに足を進めた。
一歩、ロッカーに近づくごとに光の量が倍々に増えていき、ユウキのコズミックホラーを極度に悪化させた。
脳内にナビ音声が響いた。
「危険ですよ。これ以上のコズミックホラーはユウキの精神構造に不可逆的な障害を残します」
ユウキはコズミックホラーを低減させるようできる限りの対策を講じつつ、ロッカーに手をかけて溢れ出す光を覗きこんだ。
「…………!」
ロッカーの奥には宇宙空間のごとき茫漠たる空間が広がっており、そこには砂絵のように無限個の星々が銀河のように渦巻いていた。
それらひとつひとつが特徴的な光を放っていて、その万色の光がユウキの意識に流れ込んでくる。
強い警告がナビ音声から……いや、フォーステールから発せられた。
「ユウキさん、本当に危ないですよ!」
「なんだ、フォーステール」
「わかっていますか? これは本物の超次元ポータルなんですよ」
「それがどうかしたか? よくよく考えてみれば俺は次元跳躍には慣れてる。あの異世界でも毎日のようにソーラルと闇の塔を往復していたものさ」
「お分かりでしょう。この超次元ポータルを潜ることは、これまでのような偶発的、散発的な跳躍とは訳が違います」
「そうなのか?」
「この超次元ポータルは常設化され、安定化しています。これを潜るとは、数多の世界へと繋がる無限の可能性を心の中に保持することと同義です」
「いいことじゃないか。おかげでフォーステール、あんたの名前も、うっすらとではあるが思い出せた」
そうそう、いつもオレをアシストしてくれるナビ音声の本体は、フォーステールなる美女なのである。
この超次元ポータルを覗き込んだことで、彼女が働いている多次元ナビルームとオレの意識の接続率が上がった……それゆえに今、彼女の名、フォーステールの名を思い出すことができたのである。
「いいえ、何もかも時期尚早です。私たちの予定より何倍も早くユウキさん、あなたの成長は加速しています。それは軽自動車にロケットエンジンを積むようなもの。今にも何かの拍子にバラバラに崩壊しそうです」
「私たちの予定、だと?」
「すべての意識存在は、より上位のグループによって監督されています。その進化が正しい方向に向かうように、と」
「正しさってなんだ? 誰が決めるんだ?」
「ユウキさん、あなた自身です。あなたの本質が抱く意志、それがあなたにとっての正しさを決めます」
「オレの本質、それはどこにあるんだ? 魂か?」
「魂、それはあなたとあなたのパラレルセルフを統合する超次元構造体です。ですが魂すらあなたという存在のごく一部でしかありません。その真の高みと広がりは、私たちですら把握することはできない。それほどにあなたは偉大なのです」
「そんな偉大な存在がオレだとしたら、なぜオレはいつも地べたでくだらない問題に頭を抱えて悩んでるんだ?」
「うふふ。どうしてなんでしょうね?」
ロッカーから溢れ出す光の奥に、フォーステールの姿がうっすらと垣間見えた。
未来の事務員を思わせる衣服に身を包んだ彼女は哲学的な問答を楽しむかのごとくに微笑んだ。
だがすぐに真面目な顔をすると、コールセンターで使われていそうなヘッドセットでユウキに警告した。
「とにかく危険ですよ。流入する光の量を絞ってください。早く!」
「お、おう」
とりあえずユウキは目を閉じてみた。だがロッカー……超次元ポータルから溢れ出す光はユウキの心に直接流れ込んでくる。その流入はもう止まらない。
下位世界、上位世界、並行世界のさまざまな情報を含んだ超次元光を浴びていると、やがてユウキは周囲の時空間と共に、自分の意識が無限の宇宙に溶け出していくのを感じた。
(おっ、これは自我が崩壊しているのか? まあいいか……)
「いけません! ユウキさん、しっかりしてください!」
多次元ナビルームからフォーステールが叫んだ。
「ユウキさん、あなたが望む進化は、光と闇、無限と有限、精神と肉体の精妙なバランスの果てにあるもののはずです!」
「え、そうなのか?」
ぜんぜん実感が湧かない。
そういう面倒臭そうなことをするより、もうこの大宇宙の神秘の光の中に自我を溶かしさりたいという欲求の方が遥かに優った。
「あのさ。オレ、もうゴールしたいんだけど。ここがゴールってことで、もういいだろ」
急な話ではあるが、ユウキは卑小なる自分の自我や、個々の世界の命運などという細々とした些事を全部手放し、この偉大な光に一体化する決意を固めた。
そのとき、どこかどうでもいい小さな世界からユウキの意識へと強い呼びかけがあった。
「ユウキくん、塔がもう持ちそうにないよ! 早く来てっ!」
半壊した闇の塔の第七クリスタルチェンバーで、魔術師の少年シオンがラゾナと共に、必死の形相で異世界召喚の儀式をしている。
だがユウキとしては全く気持ちを動かされない。
シオンの召喚に呼応してか、ユウキの指で『塔主の指輪』が発光を始めた。
だが闇の塔や、世界の一つや二つごときの運命など、心底どうでもいい気がしてならない。
そんなのは全部この永遠の光の一瞬の戯れなんだ。
そんな些事にかまってるよりも、俺はもうゴールしたい。
この光と一体となって、永遠の安らぎを得たい。
そのとき、他のいろんな人がユウキを呼ぶ声が聞こえてきた。
ゾンゲイル、アトーレ、ラゾナ、ラチネッタ、エクシーラ、その他いろいろ……。
だが誰の声も、『このままゴールして入寂したい』というユウキの欲求を押しとどめることはできなかった。
しかし光の中に溶けて数多の世界を一度に認識しつつあるユウキの意識に、ふとソーラルの噴水広場の映像がよぎった。
噴水広場にはエキゾチックな衣服に身を包んだ無数の異性が行き交っていた。
「あ……」
ユウキはやり残したことを思い出した。それは異世界ナンパだ。
「スキル『集中』発動……」
一瞬にしてライフワークへのフォーカスを取り戻したユウキは、目指す世界へと意識をレーザー光線のように集中させ、そののちにポータルをくぐった。
光溢れるロッカーの中に足を踏み出し、次元の隙間を縫って歩く。
目指すは闇の塔だ。
次元の狭間を歩く道中、無限に存在するよその世界に意識を奪われ、また自我が拡散し、崩壊しそうになる。
だがその度にスキル『地道さ』を発動し、エクスプローラー鞄のショルダーハーネスをしっかり握り、一歩一歩を大事にしながら、ユウキは万華鏡の如き極彩色の多次元空間を歩いていった。
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