エクスプローラー鞄

「…………」


 どうやらいつの間にか眠っていたらしい。


 深い眠りから目覚めると、ユウキは部室の体育マットに横たわっていた。


 マットの上でみじろぎすると、頭の下に何か柔らかいものがあることに気づいた。


 触ってみるとそれはエリスの太ももだった。


「…………」


 膝枕から体を起こし、左右を見回す。


 今、部室内はLEDランタンの灯りに照らされている。もう室内には気を失う前の異様な雰囲気は残っていない。


 怪しいハーブティーの効果が切れたのか、ユウキの意識状態も日常的なものに戻っている。


「ユウキ。目が覚めたようだな。おめでとう」


 エリスはうんうんとうなずきながら微笑んだ。何がめでたいのかはユウキにはよくわからなかった。


「お、おう……」


 ユウキはなんとなく相槌を打ちながら、状況を探った。


 エリスは着衣している。先ほどの体育マット上での情事は夢だったかに思える。


 だが詳しく観察するとエリスの上着のボタンがいくつか取れているのが確認できた。ユウキの手によって強引にこじ開けられた際に弾け飛んだのだろう。


「す、すまん」


 ユウキは己の獣欲が発散された証拠を見て項垂れた。


 だがエリスは妙に晴れやかな顔……あたかも子供の卒業式に出席した親のような顔をユウキに向けている。


「よくやったな。私は誇らしいぞ」


「オレが何か褒められるようなことをしたか?」


「覚えてないのか? ユウキはイニシエーションに合格したんだぞ」


 言われてみれば、確かに何かよくわからないものを乗り越えた感がある。また謎のスキル『癒し』も手に入れることができたようである。


 しかも気分的に、今ならなんとなく、異世界へのポータルを超えられそうな気がする。


「…………」


 しかしユウキとしてはどうしてもエリスを直視することができない。


 妹として認識される者に対して先ほど自分が為した行為への罪悪感、そして未だ強く熱を持っている情欲……そういった諸々の想いが尾を引いている。


「…………」


 だが一方のエリスは体育マットから立ち上がると、何やら部室の棚をゴソゴソと音を立てて漁りながら言った。


「後見人としてこれ以上ない誉れだぞ。私たちの手で探索者が生まれるなんて」


「こ、後見人だと?」


「うん。この前の学園祭で、私たちの同人誌を読み、私たちの寸劇を見てしまったユウキは、自分の運命を変え、この世界を超えるためのエネルギーを受け取ったはずだぞ。覚えてるか?」


 ナビ音声の解析によれば、あの学園祭でユウキは『運命の輪』なる人格テンプレートを受け取ったとのことであった。エリスはそのことを話しているのだろう。


「あ、ああ……」ユウキはうなずいた。


 エリスは説明を続けた。


「でもユウキは私たちの予想よりも強くそのエネルギーを吸収してしまった。それで私たちは焦ったんだ。私たちが彼に与えてしまった深い変化の力は、彼個人だけでなく、この世界の運命すら左右するかもしれない」


「ははは……大袈裟な」


 しかしエリスは真顔で先を続けた。


「大きな力を受け取ってしまった彼の行く末を、誰かが見届けなくてはならない」


「…………」


「だから私が彼を監視し、必要なら後見する役割に着いたんだ」


「そ、そうだったのか」


「山田家の皆に催眠をかけて家に転がり込んだはいいものの、すぐに肝心の調査対象が異世界に消えてしまって、本当に焦ったぞ」


「…………」


「だけど、異世界から帰ってきたユウキは目を見張る進化を遂げていて、私はびっくりしたぞ」


「いやあ」


「ときに抑えきれず外に噴き出す私の中の闇……吸血鬼としての本能と誘惑……そういったものすら乗り越えるユウキの強さには、本当に敬服したぞ」


「は、はは」


 ユウキは力無く笑った。誘惑を乗り越えられている感じがまったく無いからである。


「しかも今夜、ユウキはとうとう探索者のイニシエーションまで達成してしまったんだ。後見人としてこんなに誇らしいことはないぞ」


 やはり全く実感が湧かないが、スキル『共感』によってエリスの気持ちが伝わってくる。それは心の底からの嬉しさだ。


 ユウキはしばしエリスと見つめ合い、その嬉しさを共有した。


 ここに至り、わずかではあったがこの現世で何かを達成した実感が湧いてきた。


 LEDランタンの光に白白と照らされた部室で、二人はしばし笑顔で見つめ合った。


 *


 嬉しさが消化され、どちらからともなく視線が切れると、エリスは実務的な雰囲気を発しながら部室の棚に向かった。


 そしてまたゴソゴソと音を立てて棚を漁ると、中から巨大な登山鞄のごときもの取り出した。


「さて……これを見てほしいぞ」


「なんだこの大きな鞄は?」


「エクスプローラー鞄だぞ」


「エクスプローラー鞄?」


「物質の力があまりに強いこの世界では、一見ただの登山鞄に見えると思うぞ」


「違うのか?」


「もちろん違うぞ。これは光によって祝福されたマジックアイテムなんだ」


「マジックアイテムというと……まさかこの鞄には無限の収納力があるとでも……?」


 ユウキの脳裏に、チートアイテムの無限の可能性がはためいた。


 エリスは首を振った。


「ううん、流石にそれはない。こんな鞄の中にそんなに沢山のもの物が入ったらおかしいだろう」


「ま、まあな」


「でも見た目よりは多くのものが入るぞ」


「…………」


 思ったよりも鞄の効果は地味で、ユウキは反応に困った。


「あっ、エクスプローラー鞄は、大きさも変わるんだぞ」


「まっ、まさか、豆粒くらいにまで小型化できるということか?」


 再度、ユウキの脳裏にチートアイテムの無限の可能性がはためいた。


 エリスは首を振った。


「ううん、常識的に考えてそんなには小さくならないぞ」


「…………」


「でも結構、サイズ感は変わる。それは確かなんだ」


 思ったよりも鞄の効果は地味だった。ユウキは反応に困った。


「あっ、物を安全に持ち運ぶこともできるぞ。この鞄があれば」


「それは普通の鞄でも可能では……?」


 エリスは首を振ると説明した。


 世界から他の世界へと移行するとき、物質は不安定になり、別の物質に変換されがちだという。そういった世界間ジャンプ時のアクシデントを、この鞄は最小に抑える効果があるとのことだ。


「まあ……それは便利かもな」


「それにこの鞄は探索者のステータスシンボルだぞ。探索者を目指している者にとっては羨望の的なんだ」


(地味なステータスシンボルだな……だいたい探索者を目指してる者なんてどこにいるんだ?)


 ユウキはぎりぎりのところでその内面の想いを口に出すのを我慢した。それは良い判断だったとすぐにわかった。エリスが遠い目をしながら、帆布のごときゴワゴワした鞄の側面を撫でたからである。


「ふふ、懐かしいな……これは私がこの世界に来たときに背負ってきたエクスプローラー鞄なんだぞ」


「そ、そうか……思い入れのあるものなんだな」


「うん。これを今、私の手から、直々にユウキに授けるぞ」


「いや、それはいいよ。大事なものなんだろ」


「エクスプローラー鞄は、師から弟子へ、先輩から後輩へと受け継がれる物なんだ。受け取ってほしいぞ」


「そういうことなら……」


 ユウキは背中を向けた。エリスはユウキに鞄を背負わせると、ハーネスやベルトやストラップを調整した。


「これでよし。よく似合ってるぞ」


 エリスはスマホで写真を一枚撮ると、それをユウキに見せた。


「確かに……オレの体に完璧にフィットしてるな。シルエットも綺麗で、おしゃれさが向上してるよう見える」


「うん。中には非常食が色々入ってるぞ。ついでにこれも持っていくといい」


 エリスは自宅からここまで背負ってきていた自分のバックパックから、ノートパソコンと無線イヤホンを取り出してユウキに渡してきた。


「こっ、これは最新のMacbook AirとAirPods Proじゃないか。どうしたんだ?」


「私からのプレゼントだぞ。本当は家で血を吸ったとき、ユウキが私の新しい眷属になったお祝いにあげるつもりだったんだ」


「もらえないよ。こんな高いもの……」


「私にも少しは貯金があるんだ。今は冬だからハーブ販売は少し休んでいるけど、また春になれば裏山で栽培を始めるつもりだぞ。そしたら大口の顧客がついてくれる」


「そのハーブ、本当に合法のものなのか?」


「もちろんだぞ。さあ、このパソコンを受け取るんだ。新しい探索者の師としてユウキにプレゼントするぞ!」


 はっきりいって金額が高すぎて罪悪感の方が勝っている。だがユウキはなんとかスキル『受け取る』を発動し、その素晴らしい贈り物を受け取った。


「よし、この『流れ』で旅立つといいぞ」


「こ、このままオレは異世界に行くことになるのか?」


「うん。今の大気の状態や星の並びは絶好のチャンスだ。この機を逃せばかなりの時間とエネルギーを失うことになるぞ」


「そういうことなら仕方ないな」


 下着等、実家から持っていきたい荷物が沢山あったが諦めよう。


 空奈や天鳥たちにはLINEで、しばらく異世界に旅に出る旨のメッセージを送っておく。


 急な別れは名残惜しいが、あいつらの分身には異世界ですぐに会えるはずだから問題ない。


 他に問題があるとすれば……それは目の前にいるエリスとの別れである。


 催眠は解けているはずなのに、いまだにエリスは妹のように感じられる。


 また、探索者としての先輩後輩という間柄になったためか、そこはかとない敬慕の念も感じられる。


 だがそれ以上に強くあるのはエリスへの欲情である。


「…………」


 異世界に転移し、この世に戻ってきてから今に至るまで、ユウキは一度たりとて己の性欲を発散していなかった。


 その理由は、ユウキに無意識的な恐れがあったためである。


 自分の肉体と闇の塔はリンクしている。そのため、この肉体からエネルギーが失われる行為をしてしまうと、闇の塔からも力が失われるのではないか?


 力を失った闇の塔は崩壊し、そのままあの異世界も破滅に至るのではないか? そんな恐れがユウキにあったためである。


 だが発散することのできぬ性エネルギーはユウキの中で日毎に濃縮されマグマのように熱を放つようになっていた。


 しかもその状態で何日もエリスと一つ屋根の下で暮らし、夜には一緒に性的なビデオを見るという活動を繰り返してきた。


 そしてついに先ほど、体育マットの上でエリスと性的な一線を超えるその直前まで行った。


「ははは。よくオレ、頭がおかしくなってないよな」


「どうしたんだユウキ。準備はできたから、もう旅立った方がいいぞ。ポータルはこの部室棟の一番奥、五号室にあるぞ。この部室を出て左だ」


「あのさ……エリス……」


 ユウキは生唾を飲み込みつつ、チラリと体育マットに目をやった。そこにはまだエリスの下着が転がっていた。


 スキル『癒し』によって、性にまつわる諸々の葛藤が癒されつつあるのか、なんとなく今なら女性と性的なコミュニケーションを自然に取れそうな気がしていた。


 一方エリスは、ユウキの視線に気づくと顔を赤らめて俯いた。どうやら彼女も先ほどそこで二人で行っていた行為を思い出したらしい。


「…………」


 イニシエーションの聖なるエネルギー、その残光によって清らかな雰囲気の部室内に、生々しい動物的欲望が満ちていくのが感じられた。


 異世界のことやら何やらは全部忘れて、体育マットの上でもう一度エリスと触れ合いたかった。


 しかも自分だけでなく、どことなくエリスもそれを望んでいるような気がしてならない。

               

「ユウキ……急がないとポータルを通れなくなってしまうぞ……今の星の配列はきっと長続きしない」


 口ではそんなことを言っているが、エリスの顔はどんどん赤くなっていき、その瞳は逆催眠にかかったかのようにとろんとしており、その上、何かを期待するかのごとき物欲しげな雰囲気を全身から発散している。


 その磁力に惹かれてユウキはエリスに近づていった。


 もうすぐ指先が触れ合う。


 触れ合ったら最後、それはもうお互いの情欲を最後までぶつけ合うまで離れることはないだろう。


 そう思えた。


 だがユウキはかろうじてエリスに触れることなくその脇をすり抜けると、そのまま部室の出口に向かった。


 あの体育マットの上でエリスに自らの欲望の全てを注ぎ込むことよりも強い衝動、異世界ナンパへの執着に突き動かされ、ユウキは部室のドアを開けた。


「……世話になったな、エリス」


「うん……本当に行くんだな、ユウキ」


「ああ」


「悪いけど、私はこれ以上は案内できないぞ。私が近づけばポータルのエネルギー・フィールドが乱れるかもしれないから」


「オレ一人で大丈夫だ」


 じゃあな、と別れの言葉を発して廊下に出る。


 そのときエリスが言った。


「ユウキ……できれば帰って来てほしいぞ。帰ってきたらさっきの続きをしたいぞ。ユウキと!」


 その言葉に、情欲と強い感謝の気持ちが共にユウキの胸の中に灯った。


 ユウキは振り返ると笑顔で手を振った。そしてエリスを部室内に残し、扉を閉めた。


 部室内の温かみが一瞬でシャットアウトされ、廊下の冷え込んだ空気がユウキを包んだ。


 その氷点下の冷たさに息を呑みながらユウキは左を向いた。そしてこの部室棟の一番奥にある五号室……異世界ポータルを目指して足を進めた。

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