第86話 ロード・バンパイア・エリス

 ぶちっ。


 妹の犬歯がユウキの首の皮膚を突き破り、さらに頸動脈を突き破った。


 暗黒ルポライター天鳥の助けにより、ユウキはこれまでなんとか敵の物理攻撃を受け流してきた。だが最大の敵はなんとこの家の中にいたのである。


 しかもその敵……妹の致命の攻撃はユウキの大事な血管を完全に貫いていた。


(まじかよ……これは確実に死んだぞ……)


 自らの心臓の鼓動に合わせて熱い血潮が頸動脈から勢いよく噴出していくのが感じられる。まもなく脳貧血に陥りそのまま絶命の流れか。


(すまん、シオン……どうやらオレはここまでのようだ……)


 だがなぜかいつまで経ってもユウキの意識は失われななかった。犬歯が体組織に深く突き刺さっているはずなのに、痛みもなかった。


「…………」


 背伸びした妹がぶら下がるように噛み付いている首筋には、むしろ溶けるような熱さと異様な快感があった。


 首から吹き出した血液が居間の絨毯を汚すこともなかった。なぜならそれは一滴残らず妹の喉に受け止められていたからである。


 勢いよく嚥下する音が、密着した体組織を通じてユウキの鼓膜に伝わってきた。


「ごくっ、ごくっ、ごくっ……ぷはあ……」


 やがて妹はユウキの首筋から口を離した。


 今度こそ傷から血が噴き出してリビングを事件現場のように染めると思われたが、不思議なことに出血は止まっていた。


 恐る恐る首に手を触れてみると、そこを濡らしているのは妹の唾液のみであった。


「ちょ、ちょっと待ってるがいい」


 妹は早足でキッチンからペーパータオルを持ってくると、ユウキの首筋をそそくさと拭いた。


「これでいいぞ。では……」


 ペーパータオルを丸めてゴミ箱に捨てた妹は、ユウキの目の前に戻ってくると、あたかも初対面であるかのように名乗った。


「私はロード・バンパイア・エリス」


「お、おう……」


「これでも私はしもべに優しいロードとして有名だったんだ。怖がらなくていいんだぞ」


 そんなことを言いながら妹……いや、ロード・バンパイア・エリスなる者は窓際に移動した。


 透き通るような白い肌、そして銀髪と赤い瞳が淡い月明かりに浮かび上がる。


 瞬間、ユウキの全身を強い衝動が貫いた。


(この高貴なお方にオレの血と肉をすべて捧げ尽くしたい……)


 だがユウキはなんとかスキル『深呼吸』を発動してその欲望をスルーした。極端な感情に対しては深呼吸が自動発動されるようセッティングされているのだ。


 だがエリスへの謎の献身欲はなかなか消えない。


 そこでユウキは全神経を集中してエリスの視線を切ると、一歩一歩、足を動かしてリビングの壁際に向かい、そこのスイッチを押して照明をつけた。


 これによりエリスの高貴な感じが日常感によっていくらか上書きされた。呪縛されたように固くなっていた自分の体も、いつも通りの軽さを取り戻した。


「ふう……」ユウキはため息をついて額の汗を拭った。


 一方、エリスは目を丸くしてユウキを見つめていた。呪縛をスルーされたことに、よっぽど驚いているらしい。


 ユウキはさらに多くのスキルを起動して自らの中心を取り戻すと、ソファにどっかりと腰を下ろし、エリスを見つめて口を開いた。


「…………」


 言いたいこと、聞きたいことは無限にあるように思われた。だがまず何を言えばいいのか。


 ユウキはもう一度深呼吸して心を沈めると、自分が今、最も言いたいことを心の中に探り、見つかったそれを口にした。


「ひとつ、頼みがあるんだ」


 エリスは物理攻撃に備えるかのように身を固めている。


「悪いけど……お茶を淹れてくれないか」


「…………」


「嫌か?」


 エリスはしばらく戸惑った様子を見せていたが、最終的にはいつものようにキッチンに向かうとお茶を淹れてくれた。


 ユウキは時間をかけてその日常の味を味わった。


 この実家での妹との日常。


 そんなものは実は最初から存在していない幻だったのかもしれない。


 だとしてもその幻によってオレは癒やされてきたんだ。


「…………」


 血を失ったユウキにお茶の温かみが染み込んでいく。


 同時に異世界の記憶が今、ユウキの中に次々と蘇っていく。


 ユウキは取り戻しつつある記憶を探り、今ここで発動すべきスキルを見出し、それを発動した。


「ありがとな、エリス」


「…………」


 エリスは無言でソファに腰を下ろした。そして、おずおずとその頭をユウキの肩に乗せてきた。


 妹とのちょっとしたスキンシップ……その幻が終わる時間を引き延ばすために、ユウキは時間をかけてお茶を啜った。


 *


「さて、と……」


 ユウキはローテーブルに空のマグカップを置いた。そして向き合うべき現実に向き合うために口を開いた。


「お前は……何なんだ?」


 ついエリスの顔を近くから見つめそうになったが、ソファの隣に座る彼女の赤い瞳には、強力な催眠の力があるらしい。


 ユウキは視線を逸らしながら彼女の正体を聞いた。エリスは少し気まずそうに答えた。


「ふん。さっきも言った通り、私はロード・バンパイアだ。それより私の方こそ聞きたいことがあるぞ」


「なんだよ」


「ロード・バンパイアというのは吸血鬼の王なんだ。とても強い支配力を持っているんだぞ。なのになぜユウキは私に支配されないんだ? おかしいぞ」


「その支配力とやら、本当はそんなに強くないんじゃないのか?」


「あり得ないぞ! 高い格の持ち主……例えばうちの部活にいる天使や、私の古巣の最奥部に巣食う龍……そんな高位のエンティティでなければ、私の全力の支配に抵抗できるわけがないぞ!」


「はは、天使とか龍とか……ファンタジーかよ」


 そう言いつつもなぜか先ほどから、異世界での記憶が脳裏にありありと甦りつつある。そのため龍らしき知り合いが自分にもいたことをユウキは思い出していた。


(あいつ……ルフローンは、ちゃんと飯を食えてるのか? ソーラルは、星歌亭は、今、どうなってるんだ? ていうか、何でこんなに異世界のことをくっきり思い出せるんだ? さっきまでほとんど忘れてたのに)


「それはですね……」


「うおっ」


 脳内にいきなりナビ音声が響き、ユウキは思わず驚きの声を発した。ナビ音声は構わず理路整然とした説明を続けた。


「ユウキの魂力がオーバーフローしつつあること、それが記憶回復の第一の要因です。魂の求める活動を繰り返したことで、魂力が心身に溢れ、ユウキの知覚を拡張したのです。おかげで私もユウキとの次元間リンクをしっかり再構築できました」


「お、おう」


「第二の要因は、多くの異世界関係者と繋がりを持ったことです。空奈、天鳥、そしてエリス」


「ま、まじかよ。エリスもあの世界の出身なのか?」


「そのようですね」


 と、ナビ音声が同意の声を発したとき、エリスが強くユウキを睨んだ。


「そうかユウキ……高次元存在の支援を受けているな?」


 頭の中でナビ音声と会話していることがバレたらしい。


「ま、まあな。でもナビ音声はしょせんただの話し相手だ。気にしないでくれ……」


「気にしないわけないぞ! うちの部にいる天使と同レベルの格を持った高位存在の気配を感じるぞ。その存在が私の支配を妨害してるんだろ!」


「そ、そうなのか?」ユウキはナビ音声に聞いた。


「いえ。私にそんな力はありませんよ」


「そんな力はないってよ」


「じゃあどうして私の支配が効かないんだ!」


「なんでなんだ?」


 自分で考えるのが面倒になり、ユウキはナビ音声に聞いた。ナビ音声は理路整然と答えた。


「これにも複数の要因がありますね。まずひとつ目の要因は、ユウキが精神統御スキルに熟達しつつあることです」


「……だってよ」


 ユウキはナビ音声の説明をそのままエリスに口頭で伝えた。


 エリスはソファの上で拳を振ってわめいた。


「納得がいかないぞ! 確かにユウキの精神力は認める。だとしても私の支配は心より強く体に作用するんだ。私の本気吸血を受けた相手はDNAレベルで変質して、私の氏族の一員と化してしまうんだぞ!」


「お、お前、何してくれてんだよ!」


 ユウキは焦って首筋に触れた。言われてみれば確かにじんじんと熱を持っている。しかもその熱は少しずつ全身に広がりつつある。


「まじかよ! このままじゃオレの体が吸血鬼に変わってしまうってことか? やばいだろ!」


「ふん。破れた頸動脈が塞がったのも、私の吸血によってユウキの細胞が変異し、即時の治癒力を得たせいなんだ。つまりユウキは細胞レベルで私のしもべになりつつあるんだ。なのにどうして私のいうことを聞いてくれないんだ!」


「ていうかさ……エリスお前、なにかオレにして欲しいことあるのか? あるなら口頭で普通に頼めよ」


 エリスは顔を赤らめた。


「そ、それはまだ秘密だぞ。断られる可能性を百パーセント排除した上でないと、とても言いたくないことだからな」


「そういうことなら深く追及しないが……それにしても熱いな」


 ユウキはシャツのボタンを開けて手のひらで胸に風を送った。エリスは欲望に濡れた瞳をユウキの胸元に向けると、唇を釣り上げて犬歯を見せた。


「ははは、やっぱり効いているじゃないか、私の支配は! そうだユウキ、それでいいんだぞ。私のしもべとして一生、私の側にいるがいい。毎日、お小遣いもあげるからな!」


 しかしユウキとしては、確かにこのままエリスに自らを捧げたい気持ちもあったが、いまいち盛り上がりに欠ける感もあった。


 言うほど支配されてる感じがしない。


 そこで試しに、今まで通りの兄としての振る舞いをしてみた。


「エリス……悪いけどもう一杯、お茶を淹れてくれないか」


「…………」


 エリスは釈然としない表情を見せながらもソファから立ち、キッチンに向かった。


 その後ろ姿に向かって、ユウキは飲みたいお茶の種類や淹れ方を細かく指示してみた。エリスは指示に従った。


「はい。できたぞ」


「サンキュー」


 ブランデーを落としたアールグレイのティーカップを傾けながらユウキは考えた。


(今のテストによってもわかる通り、やっぱりそんなに支配されてる感じはないな)


 念のためナビ音声にも聞いてみた。


「なあオレ、操られてるか?」


「いいえ。彼女の支配力をほぼ無効化できていますね」


「よかった。でもなぜなんだ? オレの体は細胞レベルで変質して、エリスの支配下に置かれる運命だったんじゃないのか?」


「それを阻む二つ目の要因があったのです。ユウキの肉体は『闇の塔』と同調していますね」


「ああ。前に『生命のクリスタル』で塔に魂力を分けたとき、オレの肉体は塔とリンクしたらしいな」


「私のスキャンによれば……闇の塔は、自らと同調する者に、各種の闇への抗体を分け与えるようです。その抗体の効果によって、ユウキの肉体は吸血鬼因子に抵抗しているようですね」


「なるほど。そういうことだってよ」


 ユウキはナビ音声の解説をエリスにストレートに伝えた。瞬間、エリスは瞳に怯えの色を浮かべた。


「まっ、まさか……ユウキはダークタワーのマスターだというのか!?」


「お、エリス、知ってるのか? 闇の塔を?」


「…………」


 塔に関して何か嫌な思い出でもあるのか、エリスはソファの端まで後ずさると、自らの両腕を抱いて震えはじめた。


 一方、ユウキは己の左手にはまっている簡素な指輪に目を向けた。その指輪……闇の塔の全権代理人の証に気づいたエリスはうめいた。


「う、うわぁ……やっぱりタワーマスターじゃないか!」


 エリスはよろよろとソファから立ったかと思うと、いきなり床に跪いて首を垂れた。


「……た、タワーマスターに度重なる無礼、許してほしいぞ」


「お、おい」


「もし許してもらえるなら……古き日の約束……最初のタワーマスター・エグゼドスとの契約に基づいて、私の命を今のタワーマスターに捧げるぞ……」


 エリスは震える声でそう言うと、また床に着きそうなほどに首を垂れた。


 どうやらエリスはマスター・エグゼドスの知り合いらしい。


 ユウキは過去のエリスとエグゼドスとの関係をもやもやと推理した。


 もしかしたらエリスは昔、『大穴』に住んでいたのかもしれない。


 そして深宇宙ドラゴンの討伐のため『大穴』に訪れたエグゼドスに、ついでに狩られてしまったのかもしれない。


 そして生捕にされた上で、吸血鬼因子への抗体を抽出されたり、永代に渡って塔主に忠誠を誓う契約を無理やり結ばされたのかもしれない。


 本当のところどうなのか。


 エリスは震える声で「我が命はタワーマスターのもの」と繰り返すばかりである。その声は弱く震えており、瞳の焦点はどこにも合っていない。


「まあ、そういうことなら……」


 ユウキはソファから立ち上がるとエリスの前にしゃがみ込み、その肩に指輪をはめた手を乗せて言った。


「ロード・バンパイア・エリスよ。闇の塔の全権代理人として命じる。オレは闇の塔に戻らなければならない。そのための手助けをしてくれ」


「わ、私を許してくれるのか? マスター・ユウキ」


「ああ。その代わり手助けしてくれ」


 エリスはより深く首を垂れて恭順の意を示した。


 その頬に一筋の涙が伝っている。


「もう顔を上げろよ」


「ご命令とあらば」


「なんで泣いてるんだ?」


「い、言いたくないぞ」


「言ってみろよ」


「……私の願いが叶わないと悟ったから。タワー・マスターを支配できる力など私にはないから」


「願い?」


「そ、それは秘密だぞ」


「教えてくれ」


「……欲しかったんだ」


「何がだ?」


「家族」


 ユウキはため息をついた。


「オレたちは兄妹だろ。その願いはもう叶ってるんじゃないのか」


「わ、わかってるだろ。それは私の催眠で生み出した幻だ! 私が欲しいのは本物の家族だぞ!」


「そんなもの、どれだけ他人を力で支配したって手に入るわけがないだろ」


「じゃあなおさら私の願いは叶わないじゃないか! どこの世界に行っても、どれだけ長生きしても! 永久に!」


「まあ……地道に、気長に作っていくしかないんだろうな」


「何を作ればいいというんだ?」


「信頼関係をだ」


「…………」


「オレはいずれまたこの家に帰ってくる。でも今は闇の塔に戻らなくてはならない。そのための方法、教えてくれ」


 エリスは釈然としない表情を浮かべていたが、やがてリビングを出て上着を羽織ると、ユウキを家の外に連れ出した。


「こんな夜にどこに行くんだ?」


「私の学校だ。ポータルがそこにあるぞ」

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