第83話 労働&ナンパ
食後、ユウキは恐怖におののきながら派遣会社に連絡した。
登録番号と名前を伝えるとすぐに仕事を紹介された。スグクルでの段ボール運びだった。
「ほ、他に何かないのか?」
「いろいろありますが、明日入れるのはここぐらいですね」
「前回、あの職場でオレは大変な失敗をした気がするんだが……」
「ん、こちらの記録には特に残ってませんね。何も問題ありませんよ」
「そんなものか……」
翌朝、ユウキは軽作業の必需品である軍手とカッターを近所の百均で入手すると、バスに乗って工業地帯に向かった。
空奈宅近くのバス停で降り、重い足取りでスグクル配送センターに向かう。
「…………」
工場の煙突からは煙がもくもくと灰色の空に吐き出されている。
気を滅入らせるその化学的な臭気を吸い込みながら、ユウキはスグクル配送センターのゲートをくぐった。
まずは受付の守衛さんに書類を提出し入館許可書をもらう。
そして倉庫脇のロッカーで作業着に着替え、安全靴を履く。
「さて、と……」
時計をチェックすると始業までまだ十分ほどあった。
作業所のそばに建つ休憩所で、缶ジュースでも飲んで時間を潰したいところである。
だが、どうしても休憩所に入る気になれない。
なぜなら前回のバイトで死ぬほど怒鳴られ、実際に死ぬほどの目にあった原因である、あの悪鬼羅刹の如き社員が休憩所に陣取っていたからである。
しかもそういうタイミングなのか、休憩所の中にいるのはその男ひとりだけだ。
この休憩所に入って、彼と一対一で対峙するつもりにはなれない。気力が一気に空っぽになるのは目に見えている。
「…………」
だがどうしてもあの悪鬼羅刹の如き社員から目を離せず、ユウキは窓の外から休憩所の中を覗き続けた。
ユウキより縦も横も二回り大きいその男は、改造バイク雑誌とパチンコ雑誌をテーブルに放り投げるとタバコに火をつけた。そして安全靴を履いた足をテーブルに乗せた。
なんていう態度の悪さだろう。
社会人としてあり得なくないか?
だが前回のバイトでわかっている。ここ……スグクル配送センターは、人が人を全力で怒鳴り罵倒することが許されている、世の常識が通用しない場所なのだ。
この宇宙に物理的に顕現した地獄の一種といっても過言ではない。
そんな場で今日オレは、夕方までぶっ続けで働き続けるのだ。
せめて始業前くらいはあいつから離れていたい。
どうせこの後すぐに、あの悪鬼羅刹の如き社員に怒鳴られながら段ボールを右から左、左から右へと運び続けることになるのだから。
「って、この状況……ヤバすぎないか? よく考えたら死ぬ要素が多すぎないか?」
ユウキは状況を整理した。
「…………」
まず……このバイトは絶対にしなければならない。
もしバイトをしなければ空奈に金を渡すことができず、金を渡せねば適切な癒しの処置を受けることができず、オレは死ぬ。
だがこのバイトは普通に体力的にも精神的にもきついので、心と体が労働に耐えきれず、この場でオレは死ぬ可能性がある。
しかもだ。
なんとか仕事中に死ななかったとしても、夕方までバイトで時間が潰れてしまうため、今日は駅前でナンパできない。
そうなると魂力切れからの魔力切れによって闇の塔は今晩にも崩壊し、その結果、オレも死ぬように思われる。
「……こ、これはもう詰みの状態じゃないのか」
何をしてもダメなら、苦しいバイトなどせず、もう家に帰って寝てるべきではないのか。
そうすればあの悪鬼羅刹の如き社員に怒鳴られることなく、少なくとも安らかに死ねる。
「…………」
ユウキは回れ右してスグクル配送センターを出ようとした。
だが気持ちが完全に折れるギリギリのところでなんとか踏みとどまった。
なんとなくだが、『詰みの状態』などというものから何度も抜け出してきた自信があったからだ。
もしかしたら今回も抜け出せるかもしれない。
だが具体的にまず何をどうすればいいのか?
その答えもすぐにわかった。
もうどうしようもないと感じたらまず最初にすべきことは深呼吸だ。
深呼吸すれば頭が冴えてくる。
頭が冴えれば何をすればいいのかわかる。
何をすればこの先自分が生き残れるのか、そのルートが見えてくる。
「…………」
だが今、かすかに見えた生存のためのルート。それはユウキの固定観念を大いに揺るがすものであった。
『この仕事場でナンパして魂力を貯める』
これこそがユウキが唯一、今日を生き延びることができるルートであることは、考えてみれば明白だった。
時間や体力の制約を考えれば、これ以外に助かる術はない。
しかし……だとしても仕事場でナンパなどできるわけがない。
そもそも、この職場にいるのはむさ苦しい男だけじゃないか。
野蛮で凶暴な男がひしめいているのがこの職場なんだ。
特に今、休憩所でふんぞり返っているあの悪鬼羅刹のごとき社員などは、背格好と雰囲気からオークを思い出させるほどだ。
「お、オーク……」
その単語がユウキの肉体を硬直させた。
屈強な男たちに組み敷かれて弄ばれる恐怖が脳裏に激しくフラッシュバックし、心拍数が跳ね上がり冷や汗が噴き出て視界が狭まる。
「はあ……はあ……」
ユウキは粉塵と労働者の疲れがこびりついた休憩所のの壁に寄りかかって胸を押さえた。
なんとかわずかに顔を上げてまた休憩所の窓の奥を覗き見ると、パチンコ雑誌をめくっているオークの如き社員の逞しき背中が見えた。
ダメだ……とてもあいつと一緒に働くことなんてできない。ましてや自分から声をかけることなどできるわけがない。
に、逃げよう。
ユウキはゲートに向かって足を引きずって逃走を開始した。
だがそのときだった。
極度のストレスのためか、脳裏に謎の声が聞こえた。
「ユウキ、聞こえますか? もしもし、もしもし」
「ん、なんだこの声は」ユウキは配送センター敷地内で天を仰いで呟いた。
「聞こえているんですね! 私です。ナビ音声です!」
「ナビ音声だと? いやにはっきり聞こえる幻聴だな。は、はは……とうとうオレもおかしくなってしまったってわけか」
「いいえ、おかしくなってなどいません。高度のストレスによって変性意識状態が生じ、一時的に高次元との情報チャンネルが開放されているんです」
「それはつまりストレスで頭がおかしくなってるってことだろ」
「ストレスを高次元との繋がりを得るためのスイッチとして使うことは、あなたの世界の多くの文化では普通のことです」
「確かに……自分の体を傷つけたり、苦行をしたりすることで、特殊な意識状態に入るなんてことは各国のシャーマンや僧がよくやってることではある、か」
ユウキは自分のアフィリエイトサイトで紹介するために読んだ雑学本『世界のシャーマン』を思い出し、その中に書いてあった苦行を思い出した。
高熱と煙で自らを燻すスウェット・ロッジや、山をひたすら歩き回って自らを苦しめる回峰行などの儀式や苦行によって人は特殊な意識状態に至った。であるならばそれらに勝るとも劣らない苦行であるスグクルでの仕事によって、オレが変な声を聞き始めることは確かにあり得る。
「でもそれは結局は苦痛の中で生じる一時的な異常な心理状態なんじゃないのか?」
「いいえ。そもそも人間の脳には私のような超次元的存在と交信するための機能が普通に備わっているんですよ。本当はストレスをスイッチとして使う必要さえありません。少し心を静かにして高次元存在との交流を望むだけで、誰でも私のようなナビと交信できるんですよ」
「馬鹿な。めちゃくちゃなことを言うなよ」
「嘘だと思ったら『神々の沈黙~意識の誕生と文明の興亡』という本を読んでみてください。検索すれば出てくるはずです」
ユウキは半信半疑ながらもスマホでその本を検索してみた。
「まじかよ……本当に出てきたぞ。なになに……」
アメリカの心理学者、シュリアン・ジェインズによって書かれたその本によると、古代人は神々の声との交流を日常的にしていたという。そして人生の中で困ったことがあれば何かと神々にアドバイスを求めていたという。
「つまり私たちが今やってるみたいな感じですね。異世界転移中のあなたがたの現地活動を私たちが本部からナビゲートする……それが普通のことなんです」
「そうは言われても到底、信じられないが……なんにせよ藁にも縋りたいところではある。よし、こうなったらオレもひとつ、あんたにアドバイスを求めてみるか……」
「はい、どうぞ」
「どっ、どうすればいいんだ? 今、オレは?」
「そうですね……あちらで成し遂げたことを思い出してください」
「あちらだと? あちらってどっちだ?」
「私との情報チャンネルが一時的に繋がっている今なら思い出せるでしょう」
「……何も思い出せないぞ」
「ちょっと待って。今、ヴィジョンを送ります」
ユウキは思い出した。
祭壇で百人のオークに囲まれる絶世の美女としての自分を……。
だがそれはより激しい恐怖を引き起こした。
「お、オレは暴行されただけじゃないか、あいつらに……あのおぞましいオークたちに……」
「それは正確な表現ではありませんね。ユウキ、あなたは最終的には自らの意思とスキルであの場のエネルギーを統御したのですよ」
確かに……オレは最終的にはノリノリになってあの場に荒れ狂うオークどもの欲望すべてをこの身で受け止めた。
かっと顔と体が熱くなる。
「おっ、オレはなんていう恥ずかしいことを」
「後悔しないでください。自らを開き、受け入れて愛すること。それはこの宇宙で最強の力の一つです。さあ、今またその力を使ってください」
ユウキはしばらくもじもじしていた。
だが最終的には各種のスキルと人格テンプレートを起動したのちに、毅然とした顔で回れ右して休憩室に向かった。その中で待ち受ける恐るべき恐怖の対象……それと向き合い、それを受け入れ、愛するために。
*
夕方、ユウキはなんとか空奈宅に辿り着いた。
仕事前にあの社員に話しかけ、世間話をし、パチンコの必勝法も教えてもらった。そのためか今日は一度も怒鳴られなかった。それがユウキの生存につながった。
休憩時間には、社員や派遣バイトたちに話しかけ世間話をした。
また、需要を感じるごとに適宜、職場の人間に魂力を送った。
魂力を送られた人間はそこはかとなく表情に輝きが現れた。同時にユウキの魂力もハウリングによってわずかに高まった。
これらのナンパ行為により、ユウキの魂力は今晩一晩、闇の塔が崩壊を免れる程度にはチャージされたように感じる。
まあ……ナンパ行為と言いつつも、これはいまだ世間一般のナンパとは程遠いものである。
だが今はまだ、まともに異性と接することができない。
そもそもこれまでの人生で何かをまともにやれた試しなどない。
だからできる範囲で今の自分にやれることからやっていくしかないのだ。
「…………」
というわけでもうしばらくは職場での男相手のコミュニケーションによって魂力をチャージしていきたい。
異性相手のナンパに比べて魂力の溜まり具合が弱い気がするが、やらないよりはマシである。
「それにしても……疲れた。男相手に話すのは疲れる。あんなにも大量の段ボールを運んだのもこの人生で初めてのことだ……」
ユウキは空奈宅の布団にうつ伏せになりうめいた。
空奈はユウキの手首に触れて脈を取ると大声を発した。
「あら大変! 明らかに生命力が弱まってるわよ!」
ユウキは仕事の内容を詳しく説明した。空奈は深刻そうな声を発した。
「それはよくないわね……今のユウキにはそんな激しい肉体労働は無理よ。もっと違う仕事をしないと死ぬわよ」
「でもなあ……やっと今の職場に慣れそうな気配がしてきたところなんだぞ」
「体のことを考えて仕事を選ばないとダメよ。まあユウキのお金のおかげで、こんなアイテムを買えたんだけどね」
空奈は通販の段ボールを開けると、中から『ディスポ鍼』と書かれた箱を取り出した。
「なんだそれは?」
「これは使い捨ての鍼。ステンレス製でよくしなるし、個別包装されていて滅菌用のガスも封入されているから安心安全よ。一箱に240本入っているわ」
「ハリというと……虫ピンみたいなものか?」
「そんなところね。これを刺すのよ」
「ど、どこに?」
「もちろんユウキの全身によ」
空奈は畳に広げた『基本人体ツボ経絡図』を見ながらユウキの背中に鍼を打ち始めた。
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