第81話 空奈とユウキ
「私は空奈。あなたを助けに来たのよ」
駅前広場で死にかけつつあるユウキは、霞む目を開けてベンチの隣の中学生を間近から見た。
彼女の制服はこの駅前やバスの中でもよく見かけるものだった。首に暖かそうな毛糸のマフラーを巻きつけていた。
その見かけ上、彼女はどこからどう見てもただの幼い中学生であり、ユウキとはまったく縁のない存在に思えた。三つ編みにした髪がより幼さを際立たせている。
だが彼女の雰囲気は、幼い外見に反して、不思議に成熟したものに感じられた。自分と同い年ぐらいに思えるほどだ。
さらに不思議なことに、ユウキはそこはかとない懐かしさを彼女に覚えた。
彼女が発する雰囲気には強い親しみが感じられた。また彼女の顔立ちにも、なんとなく見覚えがあった。
「…………」
だが全身の神経活動の乱れにより、すぐにまたユウキの脈は弱まっていった。
駅前のベンチでユウキの生命力は今まさに空っぽになろうとしていた。
と、隣に座る中学生は通学鞄から小さなプラケースを取り出した。
「手のひらを出してちょうだい! これを飲めばきっと楽になるわよ」
「く、薬か……?」
「ええ! 動悸、息切れ、気付けに効く薬、救心よ。心筋の収縮力を高める蟾酥(センソ)や、末梢循環を改善し心臓の働きを助ける牛黄などの働きにより、自律神経が整えられるわ」
「まじかよ……それは効きそうだな」
「母の常備薬よ、今日はなぜか必要な気がして持ってきたのよ!」
「そうか……じゃあ悪いけど少しもらうとするか」
ユウキは手のひらを出した。中学生はプラケースを開けると、フィルムコーティングされた錠剤を何粒かユウキの手のひらに乗せた。
ユウキが錠剤を口に含むと、中学生は鞄から水のペットボトルを取り出した。
「これで飲み込むといいわ。薬だけだと喉にひっかかるでしょ」
「確かに……だが……」
ペットボトルは飲みかけのようであり、そこに口をつけることはいわゆる間接キスということになる。見ず知らずの女子中学生と、そんなことしていいのだろうか……。
そう躊躇しているうちに、またユウキの脈は弱まり体温も低下し、肉体は死に近づいていった。
「ちょっと、早く飲んでよ!」
中学生はペットボトルの中身をユウキの口に流し込んできた。
「ごほっ、ごほっ」
咳き込みつつも、錠剤は速やかに水に流され胃に到達した。
しばらくしてユウキの心臓の鼓動は、若干ではあったが安定してきた。
さらに中学生は鞄から栄養ドリンクを取り出すと、その蓋を急いで開けてユウキの口元に近づけてきた。
「早く、これも飲んでちょうだい!」
「なんだこれ」
「これはチョコラBBゴールドリッチよ。夜勤明けの母がたまに飲んでいるわ。ビタミンB群やタウリンの他に、血のめぐりを活性化する当帰(トウキ)や体力回復によく効く人参などの生薬が入っているのよ!」
「まじかよ、それは助かる」
ユウキはチョコラBBゴールドリッチを飲み干した。体にいい味がした。
中学生は心配そうにユウキを見つめて言った。
「私、わかってるわよ」
「何をだ?」
「あなたが死にかけてるってこと……そして……あなたを助ける方法……。知ってるのよ、私」
「なんでだ?」
「なんとなく……とにかくわかるのよ。私は昔から勘が鋭いからね」
勘が鋭い。そう言われたところで何一つ納得できるものはなかった。だが疑問を抱き続けるための体力がユウキには残されていなかった。
「今は何も気にしないでいいわ。この後もどうすればいいか、私はわかっているから安心して私に任せて……さあ、行くわよ。苦しいでしょうけど起きてこっちに来てちょうだい」
結果、ユウキは思考停止した状態で流されるまま、中学生に運ばれることとなった。
「よっこらしょっ、とね」
中学生は意外に強い力でベンチからユウキを引き起こした。
そしてユウキの脇の下に肩を入れると、その体重を支えながらバス停へと歩いていった。
*
ユウキは半ば意識を失い、今の自分に起きている事象をほぼシュールな夢と感じながらも、中学生に肩を支えられてなんとかバスに乗った。
中学生は二人分の運賃をSUICAで払うと、ユウキを優先席に座らせ、自らは守るようにその傍らに立った。
彼女は手すりにつかまりながら、まるで何かしらの外敵がいつユウキに襲いかかってくるかもわからないとでもいうように、車内を見回し警戒している。
もちろん何が襲ってくるわけでもなくバスは目的地らしきバス停に着いた。
「さあ着いたわよ! 降りてちょうだい!」
「ん? どこだここは? オレの家はとっくに通り過ぎてるぞ」
「ここでいいのよ。私の家、すぐそこだからね」
「まじかよ……」
オレはこの見知らぬ中学生の家に連れ込まれる運命にあるというのか。
あまりに急な展開に、正気であればあれこれ抵抗したはずである。だがユウキは死に瀕しており一切の抵抗力を失っていた。
結果、ユウキは大人しく中学生に体重を預けてバスから降りた。
中学生はユウキを支えながら一歩一歩、寂れた工業地帯の歩道……空き缶、タバコの吸い殻、コンビニ弁当の容器などが落ちている……を前進していった。
「流石に大人は重いわね! はあ……はあ……」
中学生の呼吸がかなり荒くなってきたころ、向こうからパトロールの警官が現れた。警官は怪訝そうな目を二人に向けた。
ユウキにごくわずかに残る正気の部分は恐怖した。
女子中学生と密着して住宅を歩く不審者……職務質問からの逮捕もあり得る。
だがそのとき中学生が声を発した。
「頑張ってちょうだい、お兄ちゃん!」
「お兄ちゃん? 誰がだ?」
「が、頑張って、パパ! 家はもうすぐよ!」
「パパ? 誰がだ?」
「もう、機転を利かせて話を合わせてくれたっていいでしょ!」
怒る中学生を不審げに見ながらも、警察官は二人とすれ違っていった。
そのままさらに五分ほど歩くと、コンクリートに覆われた川沿いの道に出た。
藻が茂った緑の川面に、錆びた自転車や古いパソコンのディスプレイが不法投棄されている。
そんな川沿いの歩道を歩いていくと、やがて空気に刺激的な匂いが混ざり始めた。
どうやら近くに化学物質を扱う工場があるらしい。
どんどん化学物質の匂いが濃くなっていく道をさらに奥に歩いていくと、ふいに中学生が前方を指さした。
「見えたわ、あそこよ!」
中学生が指差す川べりには、前世紀の遺物らしき二階建ての集合住宅が建っていた。チラシが溢れた集合ポストには、色あせながらもかろうじて『春日荘』と読める表札が掲げられていた。
「ここが私の家よ。ちょっと古いけどね」
建物の外にある共用階段や廊下の手すりがボロボロに錆びている。
中学生はユウキに肩を貸しながら錆びた階段を登り、軋む廊下を一番奥まで歩いていった。
「さあ入って。遠慮しないでちょうだいね」
中学生が206号室のドアを開けると、ユウキはその奥の玄関に倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと、こんなところで寝たらダメよ。待ってて、布団を敷いてくるわ」
中学生は玄関に伏すユウキの脇をすり抜けて居間に走った。
しばらくして玄関に戻ってきた彼女は、ユウキの脇に手を入れて思いっきり引っ張り、彼を畳敷の居間へと引きずっていった。
中学生はユウキを引っ張り、転がし、六畳ほどの居間の真ん中に敷かれた布団にうつ伏せに寝かせた。
そして自らは、ユウキの臀部にまたがってきた。
「うっ」
半ば意識を失っているユウキの肺が圧迫され、空気が漏れる。
その呻きにかまわず、空奈はぐいぐいと背中を指で圧してきた。
「う、ううっ……」
ユウキから苦しげな声が漏れる。
だが……不思議なことに、体重をかけられて強く指圧されるごとに、半ばあの世に渡りかけていたユウキの意識がこの肉体に戻り、再定着していくのを感じた。
「うっ……ああ……」
やがて苦痛の呻きに混ざって、陶酔の声が漏れ始めた。
だが途中で中学生の手が止まった。
怪訝に思い、布団に臥せたまま背後を振り返ると、中学生はユウキに馬乗りになった状態で何かの本をめくっていた。
「なんだその本」
「これはカイロプラクティクス、指圧、経路の考え方を体系化した整体技術の本よ。図書館から借りてきたのよ」
「すごいな。わかるのか?」
「まだ全然わからないわ。わからないから止まってるのよ。筋肉の名称が細かくて、どれがどれだか。ええと……これが脊柱起立筋で……」
「ひゃっ……」
「少し強く押すわよ、我慢してちょうだいね」
「うぐっ」
「この本によれば人間の体は『気』という不可視のエネルギーによって養われているそうよ。今、私はその気の流れを、整体の手技によって調整しているの」
本当に『気』などというフィクション的なものが実在しているのかはわからない。だが中学生が施す整体によってユウキの中の何かが整えられていくことは確かだった。
ユウキは背面に中学生の重みと熱を感じながら、大人しく整体を受けた。しばらくすると背面への施術が終わった。
「はい、今日はここまでよ」
ユウキは布団の上で寝返りを打ち、恐る恐る体を起こした。
「ま……まじかよ。起きれたぞ! さっきまで半分以上死んでたのに!」
このまま立ち上がって自宅に帰り、今日一日を生きながらえることすらできそうだ。
ユウキは布団から畳に降りると軽くなった肩をぐるぐる回した。
中学生は布団を畳んで押し入れにしまうと、空いたスペースに折りたたみテーブルを出した。そして大学ノートを広げて何かのメモを取り始めた。
「ん。何を書いてるんだ?」
「これは今日の処置の記録よ。まだまだ先は長いんだから、しっかりと記録を残しておかないとね」
「『先』だと? なんのことだ?」
「あなたの調子が本当によくなるのは、まだまだ先のことだと思うわ。もうしばらくの間は、私が毎日心と体にいいことしてあげるわ。だから明日も来てちょうだいね」
「なるほど、そういうことか。了解……って、いやいや、ダメだろ」
「あら、どうしてよ?」
「そりゃ、その……おかしいだろ。オレたち、見ず知らずの人間同士だ」
「私、あなたのことを知ってるわよ」
「オレはあんたのことなど知らないぞ。まあ……確かに同じ街に住んでるんだ。どこかですれ違って顔を覚えていたとか、そういうことはあるかもしれないが……」
「そういう地理的、物理的なことじゃないのよ。私が言いたいのは『超感覚的世界』に関することよ」
「はあ? 超感覚的世界だと? なんだそりゃ? 早口言葉か?」
「ちょっと待っててちょうだいね」
中学生は誰かのお下がりのお下がりと思われるボロボロの通学鞄に手を入れた。しばらくして中から一冊の文庫本が出てきた。
「なっ。ち、ちくま文庫だと? あんた……まだ若いのにこんな難しそうな本が読めるのか?」
「まだところどころ読めない漢字はあるけど、なんとかね」
「まじかよ……」
薄めの新書や漫画しか読めないユウキは驚きの声を発した。
「とにかくこの本……ルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』をよく読み、そこに書かれているワークを実践したことで……私は超感覚的知覚を得たのよ」
「ちょ、超感覚的知覚……だと?」
「ええ。そして私はその超感覚によって自分の魂とのつながりを取り戻したのよ。まだほんの少しだけどね」
「…………」
「それでね。魂とのつながりを取り戻した私は、魂レベルでの使命も思い出したのよ」
「使命……?」
「それはね。傷ついたソウルメイトを見つけ、癒すことだったのよ。あなただって感じるでしょ? 私たちの繋がりが。あなたこそが私のソウルメイトだったのよ!」
「…………」
正直、駅前で目が合ったときからびんびんに感じていた。だがそれを認めることはどうしても躊躇われ、ユウキは思わず黙り込んでしまった。
すると中学生は顔を赤らめて本とノートをカバンにしまった。
「ま、まあいいわよ。どうせ私が喋ったことを中二の心の病だと思ってるんでしょう。確かに私は中学二年生だしね。だとしてもあなたもそのうちわかってくるはずよ、私たちの繋がりがね。私との出会いを重ねていけばね」
「い、言っとくけどな、もう重ねるつもりはないからな、あんたとの出会いは」
「あら、どうしてよ」
「さっきも話したがオレたちは見ず知らずの他人同士なんだ。それに性別も年齢も思いっきり違うんだ」
「それがなんだっていうのよ? 魂的にはそんなものは誤差の範囲よ」
「社会的、常識的には致命的な差だ。仮にここにあんたの親が帰ってきたりみろ。オレは警察に通報されて捕まるかもしれないんだぞ」
「あら、それは安心してちょうだい。父はいないし、母は夜遅くまで仕事しているわよ」
「と、とにかくオレは……」
「こっちを見て」
中学生はまっすぐ瞳を覗き込んできた。
目と目が合う。
中学生は深くユウキの瞳を覗き込みながら言った。
「教えてる? 私の名前を」
思わずユウキは答えていた。
「ら……ラゾナ?」
「私は……空奈よ。あなたはユウキよね。私が癒してあげるわ、あなたのことを」
中学生……空奈は腕まくりすると台所に向かい、何かの茶を煎じ始めた。
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