第76話 妹との生活

 妹との間にわだかまりつつあったギクシャク感は、リビングで夕食を共にすることで速やかに解消された。


「冷めないうちに食べるといいぞ」


 妹が食卓に並べた料理は、基本的にコンビニ弁当を皿に盛りつけたものであった。だがその化学的な旨味が涙が出るほどおいしい。


「うまい、うまい……!」


 ユウキはひさしぶりの文明の味を勢いよく平らげた。


 *


 食後、ユウキは妹の勧めで風呂に入った。


 湯の中でもコンビニ弁当の美味しさの記憶を反芻してしまう。


「まるで数ヶ月ぶりに食べたぐらいのうまさだったな……あんなうまいものが数百円で売ってるなんて、この世は天国か……」


 とはいえ妹は、最近ずっとコンビニメインの食生活を送っているという。成長期の食べ物には気を使うべきではないだろうか。


「よし……明日からはオレが料理してみるか」


 だがそのためにはスーパーに買い物に行かなくてはならない。


 不安だ。


「…………」


 ユウキは湯の中で二の腕をぎゅっと抱いた。


 まだ公共の場に出かけるだけの気力が回復していないのだ。


「こんなことで本当にナンパなんてできるのか、オレは……」


 見通しは暗い。


 将来のことを考えているとどんどん暗くなってくる。


 だがせめて今だけは何も考えず、久しぶりの実家の風呂を楽しもう。


 というわけでユウキは肩まで湯に使った。


 温泉が好きな両親のこだわりにより、この家の風呂場は広めに設計されている。バスタブも家庭用とは思えぬほどの大きさだ。


「安らぐ……」


 やはり屋根と壁に守られての風呂は安心感が違う。


 敵の襲来に気を使う心配もない……。


「敵? ははは……何を言ってるんだオレは……」


 まるでついさっきまで戦乱のファンタジー世界にでもいたかのごときおかしなな思考に笑ってしまう。


 しかし何にせよ、この安全な風呂に深い安らぎを覚えるのもまた確かである。


 ユウキは警戒を解くと、バスタブにもたれて目を閉じた。 


 すると、風呂場全体がいい香りに包まれていることに気づいた。

 

「なんなんだこの爽やかで芳しい香りは……心なしか気分がうっとりしてきたような」


「それは私が手塩にかけて育てたハーブの香りだぞ」


「うおっ!」


 目を開けると、いつの間にか洗い場に妹がいて、プラスチックの椅子に座り、こちらを見ていた。


 ユウキが目を閉じてくつろいでいる隙に風呂場に入ってきたらしい。


 フード付きの水着を着たエリスはバスタブに手を伸ばすと湯をかき混ぜた。


「ユウキのためにブレンドしたハーブをネットに包んで湯船に入れておいたんだ。滋養強壮の効果があるんだぞ」


「そ、それは嬉しいが……」ユウキは二の腕を抱きつつ抗議した。


「だ、ダメじゃないか。人の入浴中に風呂場に入ってきたら。恥ずかしいだろ!」


 だが妹は赤い瞳をフードの奥からじっとユウキに向けると、噛んで含めるように言った。


「私たちは家族だぞ」


「あ、ああ。それはそうだな」


「しかも昔から仲がいい兄と妹だぞ……」


「あ、ああ。そうだったみたいだな」


「そんな二人が一緒に入浴するのは当然じゃないか」


「…………」


「ユウキが家を空ける前は、毎日、こうやって一緒に風呂に入っていたじゃないか」


「ま、まじかよ……」


「そう……ユウキと私は小さいころからずっと一緒にお風呂に入っている仲なんだぞ」


「…………」


 どうしても信じられない。


 だが妹はバスタブの縁に手をついて赤い瞳をさらにユウキに近づけて言った。


「いいな。入るぞ」


 だ、ダメだっ、水着を着てるとは言えやっぱりおかしいだろ!


 と抗議したいのに、魅入られたように妹の瞳から目を逸らすことができない。


 そうこうしているうちに妹はちゃぽん、と音を立ててバスタブに足を差し入れてきた。


 さらに妹の太もも、腰、胸が湯船に浸かる。


 ざざーっと湯が溢れ、ハーブの香りがより濃厚に浴室に漂いだす。


「…………」


 結局、ユウキはバスタブの中で朦朧としながら妹と向き合うこととなった。


 黙っていると妹相手に緊張や様々なものが高まっていきそうなので、とりあえず反射的に水着をほめておく。


「……それ、かわいいな」


「え、本当か? 授業で使うために買ったんだぞ」


「ああ、よく似合ってる」


「ユウキも……内側で強い力が荒ぶってるのが感じられるぞ」


「そ、そうか?」


「うん……強い光の力……それに、おぞましい闇の力を同時に感じるぞ」


「な、なんだよ、おぞましいって。失礼な」


「すまない。でも私は……すごく好きだぞ。その汚らわしい闇のエネルギー」


「…………」


「ユウキからあふれだす闇の雰囲気……遠い故郷を思い出す……懐かしい……もっと吸収させてほしい」


 ふいに妹はバスタブ内でくるりと背を向けたかと思うと、そのままユウキに体を預けてきた。


「ちょっ……」


「ユウキ……安心していいぞ。私が養ってやる」


 そう呟くと妹はユウキの肩に頭を預け、そのまま湯船に浮かんだ。


 その頬は酒に酔ったようにピンクに染まっていた。


 *


 翌日から妹は甲斐甲斐しくユウキの世話を焼き始めた。


「昨日はコンビニ弁当だけですまなかったな」


「いや、オレこそ何もかも用意してもらってすまない。今日はオレがスーパーに」


「ははは、何を言ってるんだ。ユウキはまだ疲れているのだから家で養生するがいい。買い物も料理も私に任せるといいぞ」


 確かにまだ調子が悪いのは確かだった。どうしても外出する気になれず、結局ユウキはその日、家で一日中ゴロゴロしてしまった。


 一方、妹は夜に予告通りエプロンをして台所に立った。


 これまであまり料理などすることはなかったのか、スマホでレシピを確認しながらたどたどしく作業している。


 見かねたユウキが手伝おうとするも妹は兄をリビングのソファに押し込めた。


「テレビでも見ているがいい。この時間は面白い動物の番組がやっているぞ」


 エプロンで手を拭いた妹はリモコンを操作した。壁のディスプレイに滑稽な動物の映像が映った。


 久しぶりに見るテレビの刺激に思わず魅了され、ユウキはソファに沈んだ。夕食はうまかった。


 しかも驚くべきことに料理だけでなく、経済的な面に関しても妹は便宜を図ろうとした。


 夜、風呂上がりのユウキがソファでiPhoneをいじっていると、妹が横から覗き込んできた。


「難しい顔をして何を見ているんだ? 眉間に皺が寄っているぞ」


「ああ、実はまた派遣会社に登録しようと思ってな」


「なぜ?」


「少しでも金を稼ごうと思ってな。やりたいことがあるし、そのために活動資金が必要なんだ」


「それは偉い心がけだな。だがまだ体が本調子ではないのではないか?」


「それはまあ、確かに……」


「もうしばらく休んでいた方がいいと思うぞ」


「…………」


「そうだ、ちょっと待っているがいい」


 妹はドタドタとリビングを出て二階の自室に駆け込むと、しばらくして財布を持って戻ってきた。


「さて……まずはこれを受け取ってほしい」


 妹は財布を開くと千円札を数枚取り出した。


「お、お前……これは一体……」


「足りないか?」


「そ、そんなことじゃない! 受け取れるかよ、妹から小遣いだなんて!」


 思わず大声を発してしまう。


 だが妹はフードの奥の赤い瞳を静かにユウキに向けると、ゆっくり噛んで含めるように諭した。


「お金はコミュニケーションの媒体だぞ。私たちの間には良好なコミュニケーションが存在しているぞ。それゆえに、私からユウキにお金をあげることは普通のことだぞ」


 論理展開がよくわからないが、ゆっくりとした妹の声を聞いているうちに、確かにそれはその通りかもしれないと思えてきた。


 思わず札に手が伸びる。


 だが……。


 途中で手が止まる。


「だっ、ダメだっ。妹から小遣いを受け取ってしまったら……」


「何が問題だというんだ?」


「きっとオレはずっと働かず、エリス、お前からもらったお金で家でゴロゴロしてしまう……」


「そうするがいい。お兄ちゃんにそうして欲しいんだぞ、私は」


「う、うう……」


 結局ユウキは妹から現金数千円を受け取ってしまった。


 妹はにこっと笑った。


 そして彼女はソファに寝転がりスマホを操作したかと思うと、ユウキのiPhoneにさらに数千円を送金してきた。


「お、おいっ! これは一体……」


「電子マネーだ。家の中から漫画も買えるから便利だぞ」


「…………」


 結局ユウキは妹に促されるまま、送ってもらった電子マネーで漫画を買ってスマホで読んだ。


 翌日も翌々日もユウキは妹の手料理を食べ、スマホで娯楽コンテンツを消費して過ごした。


 それは安楽な時間だった。


 だが実家に帰ってきて四日目の夜のことだった。


 ユウキはとんでもない悪夢を見た。


 夢の中で、森の中にそびえ立つ塔が、闇の軍勢に包囲されていた。


 塔を守るために戦っている者たちの名前を思わず大声で呼ぶ。


「……ゾンゲイル! シオン!」


 その自らの声でユウキは夢から目覚めた。


「…………」


 ベッドから半身を起こしてあたりを見回す。


 ここは実家の子供部屋だ。


 もうすぐ夜明けだ。


 カーテンの隙間からうっすらと朝日が差し込みつつある、そんな時間だ。


 とりあえず悪夢によって乱れた呼吸を整え、額の汗を拭う。


 そのとき子供部屋のドアが開き、まだ暗い廊下から妹が目を擦りながら入ってきた。


「……どうしたというんだ、ユウキ?」


 フード付きのパジャマを着て、隣の自室から持ってきた枕を抱えている。


 ユウキはベッドから降りようとした。


「オレ……もう行かないと」


 しかしエリスがユウキの肩を押し戻した。


「今日は日曜だしユウキにはやるべきことなど何もないぞ」


「でも……」


「一緒に寝てやろう。安心して目を閉じるがいい」


 妹はベッドに横になった。


「ほら、ユウキも。私があやしてやろう」


 エリスはユウキをベッドに引き込むと、その耳元に不思議な響きの子守唄らしきものを唱えはじめた。


「ねんねんころりよ。おころりよ」


「…………」


 温かい妹の吐息と共に、かつて聴いたことのない音階がユウキの鼓膜をくすぐる。


「過去から未来へ。世界から世界へ。坊やの意識は彷徨うよ」


「…………」


「だから刹那の今ここに、ゆっくりおやすみ私の坊や。ねんねんころりよ、おころりよ」


 強烈な眠気がユウキを襲った。


 眠りに落ちる一瞬前のユウキにエリスは赤い瞳を向けながらささやいた。


「ひとときの監視によって芽生えた、儚い行きずりの関係だけど、その身が果てるまで私が養ってあげるぞ……お兄ちゃん」


 そこでユウキのまぶたは完全に閉じた。


「…………」


 だが……自己を完全に忘却した夢も見ない眠りの底で、ユウキは自分が呼吸していることに気づいた。


 その呼吸を頼りに意識を現世の実家の子供部屋のベッドへと戻していく。


 そしてユウキの胸を手のひらでポンポンと叩いてあやし続けるエリスの手首を掴み、半身を起こす。


「……もう行かないと」


「信じられないぞ! あんなに深く眠らせたのに、どうやって自分を取り戻したんだ!?」


「オレにはやるべきことがあるんだ」


「なるほど……わかったぞ。その目的意識の強さ……ユウキはすでに半ば目覚めているんだ。『探索者』として」


「何を言ってるんだ。ゲームの設定か何かか? とにかくそろそろオレは行ってくる。エリスは寝てていぞ」


 半身を起こした妹は赤い瞳を強くユウキに向けていたが、やがてうつむいてパジャマのフードを目深に被った。


 そしてベッドに横たわり、毛布を被ってもぞもぞと身じろぎし体を丸めると言った。


「……車には気をつけるんだぞ」


「ああ」


 やがて身支度を終えたユウキは子供部屋から出て行こうとした。


 その背中に、再度、毛布の中から声がかけられる。


「ところでお兄ちゃん……一体、どこに何をしに行くというんだ? やっぱり心配だから教えてほしいぞ」


「…………」


 しばしの逡巡ののち、ユウキは正直に答えた。


「ナンパだ。駅前でナンパしてくる」


 妹のリアクションが返ってくるその前にユウキは逃げるように子供部屋を抜け出し後ろ手でドアを閉めた。

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