第77話 現世の駅前

 ユウキは実家の最寄りのバス停からバスに乗った。


 Suicaは空だったので、妹にもらった小遣いをチャージした。


 季節は初冬ということでかなり寒いが、車内には暖房が効いている。ユウキはマフラーを緩めた。


「…………」


 車内は混んでいた。


 競輪、あるいは競馬場に向かうのではないかと思われる初老の男たちが専門的な新聞を睨んでいる。


 彼らに混ざってバスに揺られていると、だんだん気分が悪くなってきた。


「うう……」


 その原因は多層的なものだった。


 そもそもユウキは無駄に繊細な感受性を持っており、人が大勢いる場所が苦手である。特に混んだバスや電車などはこの世で最も避けて通りたい場所の一つである。


 また、いまだユウキの肉体と精神は本調子ではなかった。それどころか刻一刻と自律神経やその他諸々の内的な回路が狂いつつある実感があった。


 しかもこのバスの終点にてユウキを待っているのは駅前でのナンパである。それを思うと緊張でさらに心拍や呼吸が乱れていく。


「やばい……」


 チラリとApple Watchを見ると本当に心拍数が右肩上がりになっていた。


 もう限界だ……!


 途中でバスを降りそうになる。


 が、なんとか踏みとどまる。


 駅前に行く……そんな小さなことだけでもいい。何か一つ、自分が誇らしく思えることを達成したい。


「とにかく駅前……駅前に行くだけ行ってみるぞ……」


 つり革につかまって目を閉じ、呼吸を整える。


 *


 目を開けるとバスは駅前に到着していた。


 ユウキは労働者、学生、主婦、外国人に混ざって車外に出た。


 そのまま人通りに流されて駅前広場を歩く。


 広場の真ん中には現代アートを思わせる巨大なエレベーター・タワーが屹立していた。どうやら地下街と地表を繋いでいるらしい。


 そのエレベーター・タワーの周りにはベンチが置かれており、外国人、競馬新聞を熱心に読む初老の男、タピオカ茶を飲む女子高生らがくつろいでいた。


 ユウキもベンチに腰を下ろした。


「ふう……」


 駅まで来るというミッションは達成できた。今日はもうこのまま帰宅してもいい。


 だがバスの中での深呼吸により、わずかではあったが気力に余裕が感じられた。


 ユウキは帰宅せずベンチに留まることを選んだ。


 できればナンパ活動をもう少し進展させたい。


 だが……だんだん街のリアルな雰囲気に気圧されて顔がスマホに落ちていく。


 こんな状態で知らない人に声をかけることなどできない。スマホから顔を上げることさえ怖いのだから。


「こ、こうなったら……戦略的に、地道な手順をふもう」


 まずはスマホから顔上げを上げて街を見る練習をしよう。

 

 もしかしたらこの『顔上げ』の練習で今日一日が終わってしまうかもしれない。


 だがどんな大事業もほんの小さな一歩から始まるんだ。


 よし、やるぞ……!


 ユウキは駅前広場のベンチで顔上げの練習を始めた。


 *


 数分が過ぎた。


 驚くべきことに、ユウキはほんのわずかな努力で難なく顔を上げることに成功していた。


「し、信じられない……まともに顔を上げられるようになるには一ヶ月はかかると思っていたのに……」


 ハードな顔上げの修練を、すでにいずこかで終えているがごときであった。


「まじかよ……オレにこんな力が秘められていただなんて……」


 自分自身の未知なる力に驚嘆せざるを得ない。


 だがなんにせよこの勢いを逃してはならない。


 ユウキはナンパのための次なる練習を戦略的に編み出した。


 そう……『顔上げ』の次にオレがやるべきことは……『散歩』だ!


 この駅前をぶらぶら歩き回り、それによってこの街の雰囲気に体を慣らす練習……それが散歩だ。


 よし、やるぞ散歩を!


 さあ動け、オレの体よ!


 完全にベンチに居着いてしまった自らの肉体を鋭く激励し、勢いよく立ち上がることを試みる。


 と……そのときだった。


 隣のベンチに座っていた外国人が声をかけてきた。


「ハロー」


「ん? ハロー」


「この工場、どうやっていくかわかりますか?」


 彼は手にした地図をユウキに見せてきた。スグクル配送センターの近くに赤丸が書き込まれている。


「あー。ここはバスで行くといいかな。あっちだ」


 ユウキはバス停まで彼を案内した。


「サンキューサンキュー。とても助かりました」


「こちらこそサンキュー、緊張がほぐれた」


 遠ざかっていくバスに手を振って見送る。


 事実、ユウキの緊張は和らぎ、その代わりに何か暖かいものが胸の内に湧いていた。


 ユウキは元のベンチに戻るとそこで目を閉じ、暖かなそのエネルギーを吸収した。


「…………」


 *


 夜には悪夢を見た。


 その夢の中では、闇の塔を守護する者たちと、四方から塔に押し寄せる闇の軍勢が、今夜も激しいバトルを繰り広げていた。


 その戦いは闇VS闇であり、日陰者同士の戦いのようである。


 だが、闇の塔を守護する者たちにはそれなりの人間味が感じられ、ユウキ的にはそちらを支援したかった。


 そこで昼間、駅前でチャージした暖かいエネルギーを闇の塔に送ってみた。


 すぐに黒ローブの少年が反応した。


「よしっ、ユウキ君から魂力が送られてきたよ。そんなに多くはないけれど、これで大規模魔法を使えるよっ!」


 シオンは空に指をかざして複雑な呪文を詠唱した。


 やがて厚い雲が夜空に集まったかと思うと、いく筋もの雷が闇の軍勢目掛けて降り注いだ。


 その落雷によって闇の軍勢の足並みが乱れたところに、塔を守護する戦士たちが鬨の声を上げて切り込んでいく。


 それにより大勢は決し、どうやら今夜も闇の塔は崩壊を免れることができたようである。


「ふう……」


 ユウキは安心して悪夢から目覚めた。


 そして、実家の子供部屋のベッドで額の寝汗を拭き取り、妹が用意してくれた朝食を摂り、エリスの登校を見送ってから駅前にナンパに出かける。


 とはいえ、いまだにナンパの本番……すなわち魅力を感じた他者に声をかけるという行為はどうしてもできなかった。


 その代わりにユウキは『顔上げ』『散歩』という地道な練習を続けた。そして疲れたらベンチで目を閉じ、深呼吸をして心身の調子を整えた。


 それは街の雑踏の中で心を安定させる練習だった。


「…………」


 揺らぎまくった心でも一時的にテンションを上げて無理に行動を起こすことで、何かしらの結果を出すことはできるだろう。


 だがオレが求めているものはどっしりと安定した心から生じる絶対的な力なんだ。 


 それはいわば武道の達人が恐るべき敵を前にしても全く軸をぶらすことなく重心を保って立ち続け、倒されるどころかむしろ相手と調和してしまう、そんな力だ。そんなものをオレは求めているんだ!


「…………」


 そんな現実から遊離した理論的なことをベンチに座りながらふと考え込んでしまうこともあった。


 その理論に意識が囚われるとユウキの心身のバランスは崩れ始めた。それに気づいたユウキは理論を全体的に虚空へと手放し、無心となってただ深呼吸を続ける作業に戻った。


 穏やかな虚無のようなバランスがまた駅前の雑踏のベンチに戻ってきた。


 そのワークの効果として穏やかな雰囲気が周りに放射されつつあるのか、それともただ単に暇そうに見えるためか、ユウキが深呼吸に飽きて目を開けた瞬間、見知らぬ外国人がまた地図を片手に声をかけてきた。


「ここどこですか?」


「あーそれはあっちだな。連れてってやる」


 こんなこともあろうかと、前もって駅前の地理を昨夜のうちに予習しておいたのが効いた。ユウキは街に詳しい人間であるかのごとく、声をかけてきた外国人を市役所に連れていった。


 その後もユウキは迷い人を、飲み屋街、ゲームセンター、猫カフェ、駅ビル高層階のレストラン、アダルトグッズ販売店などに案内していった。

 

 青い目の少年を連れた金髪のロシア人女性は仕事関係の会食があるとのことで、駅ビル高層階のレストランに消えていった。去り際に少年はユウキに小さく頭を下げた。


 二人組の若いアジア系の女性は少し恥ずかしそうにしながらも、アダルトグッズ販売店の中に入っていった。お土産にどうしてもこの店でしか買えないものがあるのだという。


 彼女らは店内に消える間際、ユウキとの記念写真をスマホで撮影した。彼女らに挟まれてスマホのインカメラに見つめられるユウキは強ばりながらもなんとか笑顔を浮かべた。


 そして……彼女らと別れたあと、定位置のベンチに戻ったユウキはガックリとうなだれた。 


 エッチなものを売る店に消える若い二人の女性……脳裏に残るそのイメージよって精神のバランスが乱れ、それによって心身の不調が再燃しつつあった。


 呼吸が浅くなり心拍数も急上昇している。


 すでにあたりも暗い。


 ユウキはApple Watchの呼吸アプリを使って気持ちを整えると、仕事帰りのサラリーマンや学生に混じってバスに乗り帰宅した。


 妹の手料理を食べて風呂に入ってベッドに潜る。


 深夜、ふいに子供部屋のドアが開き、パジャマ姿の妹が暗闇を通して問いかけてきた。


「どうだった? ユウキ。今日のナンパは?」


「ま、まあまあだな」


「覚えておくがいい。私はユウキを応援しているぞ」


 ユウキが返事をする前にドアは閉じ、妹は隣室に戻っていった。


「…………」


 何か暖かいものを胸に感じながらユウキは目を閉じた。その夜も悪夢の中で闇の塔は崩壊を免れた。

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