第75話 自律訓練法

「ナンパしよう」


 だがユウキは自分自身のその呟きに呆れた。


「何を言ってるんだオレは……ナンパだと? そんなことを考えるほどバカになってしまったのかオレは……」


 ユウキは夕日の差し込む子供部屋のベッドでナンパ欲を否定した。否定の材料は無限に用意することができた。

 

「自分を何歳だと思ってるんだ。もう三十五だぞ」


 だがそのとき本棚に並んでいる自己啓発書の背表紙が目に入った。そこには『年齢を言い訳にするのはやめろ! 何歳でもやりたい時がやり時だ!』と書かれていたはずだ。


「だとしても倫理的に問題があるだろ! 人と人はまず友達になって、そこから少しずつ距離を詰めていって、閾値を超えて親密になったところで告白し、それによってついに晴れて交際関係に至るのが正常なんだ! そんな真っ当な世界の理を、ナンパなんていうショートカットで乱すわけにはいかない!」


 だがそのとき本棚に並んでいる自己啓発書の背表紙が目に入った。そこには『他人が作ったルールを気にして奴隷みたいに生きるのはやめろ! 自分軸で生きろ!』と書かれていたはずだ。


「だとしてもナンパなんて不純すぎるだろ。自分の欲望を軸に動くだなんてそんなこと許されない。オレはそんな汚らわしい獣のような男じゃない!」


 だが本棚には『ひとまず自分の気持ちを真っ直ぐに受け止めましょう』と書かれた自己啓発書が並んでいた。


「…………」


 それらの啓発的なアドバイスは、人を妬まず世界を恨まずまっすぐな気持ちで生きていくために大事なことだと思えた。


 これらのアドバイスを無視すれば、自分を誤魔化した後悔を一生背負って生きていくことになりそうだ。


「それを回避するには……まさか……本当にやるしかないというのか……この世界で……ナンパを?」


 だが……仮にそうだとしても、今はまだ何もできない。なぜなら体が動かず気力も完全に空っぽだからだ。


 心と体が深い部分でおかしくなっている。オレがロボットだとしたら、機体と電気回路とプログラムの全てに不具合が生じている状態だ。


 こんな状態でナンパなどできるわけがない。


 しかし……日が沈み子供部屋が闇に包まれたころ……階下から妹の声が響いてきた。


「ユウキー、ご飯だぞー」


「…………」


 反応するタイミングを失って黙っていると、ドタドタと階段を登ってくる音が聞こえ、ついでバーンと子供部屋のドアが開いた。


 毛布から顔を出すと、すぐそこに妹……学校の制服からフード付きの部屋着へと着替え、モコモコしたスリッパを履いた彼女がいた。


 赤いカラーコンタクトをはめた瞳でこちらを心配そうに覗き込んでいる。


「ユウキ……一体どうしたというんだ? もしかしてまだ具合が悪いというのか?」


「い、いや……」


 うまく声が出てこない。長時間、意識を内に向けていたため、外部との情報のやりとりにラグが生じているようだ。


「お、オレは……」


「なんだ、まさか食欲が無いというのか? それは問題だぞ。人間にはカロリーが必要なのだからな」


「…………」


「少し待ってるがいい。今、食欲が出るツボを調べるぞ」


 妹はスマホで調べ物を始めた。かと思うと、ベッドのユウキにまたがってきた。


「な、何を……」


 妹は指でユウキの腹部を何度か確かめるようにつついた。


「うははは……くすぐったい……」


「ふむ。みぞおちとへそを結んだ線の中心……ここが『チュウカン』のようだな。押すぞ……」


「…………」


「どうだ?」


「ん……ま、まあ……いいかも」


 妹の体重と指圧……どちらも痛気持ちいいレベルのものである。耐えられなくはない。


 だが……。


「よし、それならもう少し強くするぞ」

 

 妹はどっしりとユウキに馬乗りになって体重をかけると指を深々と押し込んできた。それにより鈍い痛みが体の奥に生じたその瞬間、ユウキは謎の強い恐怖に襲われた。


「やっ、やめてよ……!」


 訳のわからない恐怖によって半ばパニックになり、思わず妹を押しのけてしまう。


「うっ」


 ベッドから勢いよく押し出された妹は床に尻餅をついた。


「……す、すまん! 大丈夫か?」


 妹は子供部屋の床から立ち上がると、床に打った臀部をさすりながらうなずいた。


「もちろん私は大丈夫だ。だが……ユウキが帰ってきたことが嬉しくて……つい……調子に乗ってしまったようだな。悪かった」


「い、いや……すまん……あんなに強く押すだなんて、どうかしてたみたいだ、オレ……」


 あたかもツボを押された痛みによって、トラウマ……他人に体を蹂躙された記憶……が蘇ったかのようであった。


 オレにそんな経験あるわけがないのに……。


 だがツボ押しに過剰に反応して妹を強く拒絶してしまったのは事実である。


「ユウキ……大丈夫か? 震えているぞ」


「ははは……大丈夫だ。なんでもない」


 だがその声はひび割れている。


 妹が心配そうに一歩近づいてきたが、ユウキは反射的にベッドの端に後ずさってしまう。


「…………」


 子供部屋の兄と妹の間に気まずさが膨れ上がっていく。


 やがて重苦しい雰囲気に耐えきれなくなったのか、妹は部屋着のフードを押し下げて目元を隠すようにしながら背を向けた。


「……今日はゆっくり寝ているがいい」


 そして彼女は子供部屋から出ていった。


「…………」


 暗闇にひとり取り残されたユウキは、今すぐ子供部屋を出て妹を追うべきであることを直感的に悟った。


 でなければ妹との間に生じたギクシャク感は時間とともに拡大し、二度とその壁を崩せなくなってしまうだろう。


 だが……。


 気力が無くてベッドから抜け出すことができない。


 凄まじい倦怠感に押し潰され、どうしてもベッドの外に出る気になれない。


 今のオレには何もできない……。


 オレにできることといえばせいぜい呼吸することぐらいだ。


「……そうだ……呼吸だ……」


 ユウキはわずかに残る意思の力を使って自らの乱れた呼吸を整え始めた。


 呼吸を少しずつ長く静かに深化させていく。


 やがてごくわずかではあるが気力の炎が体内に灯ったのを感じた。


 だが……どうしても全身の倦怠感を拭い去ることができない。


 自律神経がかつてないほどに狂い、体内の諸器官が正常に稼働していない。感情と思考も千々に乱れている。


「ダメだ……呼吸だけでは動けるようにはならない。もっと何か……回復力のある技を使わなければ……」


 だが心身をダイレクトに回復する技を自らの記憶の中に見出すことはできなかった。


 そこでユウキは外部情報に救いを求めた。


「何か……何かいい本はないか……?」


 ベッドに横たわったまま、わずかな気力を振り絞って首を起こし本棚に並ぶ自己啓発書の背表紙を眺める。


 すると『心と体のディープセルフケア! 自律訓練法』という書名が目に入った。


「あ、あれは……」かつて、ひきこもりすぎて鬱が悪化し、ホームページの更新もままならなくなったときに、藁にもすがる気持ちで買った本だ。


 その書名がトリガーとなり、自律訓練法に関する記憶がユウキの中に蘇った。


 自律訓練法……それはドイツの精神科医ヨハンネス・ハインリヒ・シュルツによって生み出された、心と体の癒しのための自己催眠テクニックである。


 前に試してみたときは集中力が続かず、ユウキはどうしてもそのテクニックを習得することはできなかった。


 だが……今のオレなら、もしかしたら……。


「よし……」


 ユウキはベッド上でモゾモゾと体を動かし姿勢を整え目を閉じた。


 そして本の内容を思い出しながら、自律訓練法の公式……自己暗示の言葉を唱えた。


「オレは今、気持ちがとても落ち着いている……」


 ゆっくりと深呼吸しながら、何度も心の中でそう唱える。すると、わずかではあるが本当に落ち着いてきたよう感じられた。


 ユウキは次の公式を唱えた。


「オレの右腕が重たい……左腕が重たい……右足が重たい……左足が重たい……両手両足が重たい……」


 そう自己暗示を唱えながら、両手両足に意識を向ける。すると確かに四肢が重みを増していくのが感じられた。


 さらにユウキは次々と自己暗示の言葉を進めてゆき、自らを自然な癒しが生じる催眠状態に導いていった。


 途中、スマホを見たいという欲求に駆られたが、集中力を使って意識を自律訓練法へと引き戻す。


 こんなことやってなんの意味があるのか、何がセルフケアだ、馬鹿らしい、こんなもの効くわけがないという否定的な想いが次々に湧いてきたが、やはり集中力を使って意識を自律訓練法の実践に向け直す。


 そして地道に、粘り強く深呼吸しながら、自らの心と体を深い催眠状態へと導いていく。


「…………」


 やがて……全身が脱力し、体の奥から手足の先までぽかぽかと温まり、頭はクリアに冴えている……そんな状態に至った。


 その静かなリラックス状態の中で、ユウキの心身は自己回復を始めた。


 乱れた自立神経が、昂った感情が、混乱した思考回路が、わずかずつではあったが調律されていった。


 それはいつまでも浸っていたい心地よい体験だった。


 だが癒しが一定レベルを超えたときユウキの直感が告げた。もう立ち上がるべき時であることを。そしてまずは身近な人とのコミュニケーションを改善するために自らの力を揮うべき時であることを……ユウキは直感的に悟った。


「よし……まずはベッドから起きるぞ……動け、オレの体……」


 自己催眠を打ち切り、強力な命令を全身の筋肉へと送り込む。


 すると肉体はユウキの意思の命ずるところに従いベッドから確かに這い出た。


「いいぞ……その調子だ」


 ふらつきながらも子供部屋を出て暗く急な階段を降りていく。その向こうにある、灯りのついた居間を目指して。

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