第32話 宇宙的幸運

 ユウキは仮面の女を連れて、喫茶ファウンテンの一番奥のソファ席に向かった。


 だが着席する直前、ユウキは全身に鋭い不安を感じて硬直した。


 ええと、こういうときはどう座ればいいんだっけ?


 確か、上座、下座というものがあったはずだ。


 それを間違えばマナー講師に叱責され、もう二度と立ち直れない。そんな不可視のルールが社会には横たわっていたはずだ。


 幸いにしてオレはそのようなハードな序列が求められるビジネスの現場からは遠ざかっていた。


 だがそのためにオレは上下関係に無頓着になってしまった。


 そのために今、ローテーブルを挟んで向かい合っているソファのどちら側に座ればいいのかわからない。


「……まあいい」


 居心地が良くてくつろげそうな方に座ってしまおう。


 もしかしたらまだスキル『自分勝手』が発動されたままなのかもしれない。とにかくユウキは喫茶店の一番奥のソファにどっかと腰を下ろした。


 それを見た仮面の女は呟いた。


「ん、なるほど。新鮮」


「何がだ? あ、すみません、朝セット二人分ください」


「んー。へりくだり、かしずかれる以外の態度は新鮮」


「なんだよ。こっちに座りたいのか? 代わってもいいぞ、席」


「うーん……」仮面の女は顎に手を当て、しばし真剣に悩む様子を見せたが、やがて首を振り、ユウキの正面に腰を下ろした。


「いい、ここで。入り口から差し込む光を背負う」


「そうか。それで……何だっけ」


「何が?」


「オレは……」いったいここで何を?


 一瞬、ユウキは物事の文脈を見失い、前後不覚に陥りかけた。


 気がつけばオレは異世界で女体化しており、朝日を後光のように浴びた仮面の女と、出会って五分で何の脈絡もなく喫茶店で朝ごはんを食べようとしている。


「…………」


 ユウキは一瞬、コズミックホラーにも似た目眩を感じた。


 ここに来る前にルフローンと接してきた影響が残っているのかもしれない。


 あるいは、何となくこの仮面の女も、ルフローンに似た異様なオーラを発している気がする。


 ……まあいいや。


 とりあえず各種スキルで気を落ち着け、目の前の現実に集中する。


 文脈を見失うのはオレのナンパの常であり、それは決して悪いことではない。


 それに何にせよ今ここに意識を向ければ、常にやるべきことは見つかるのだ。


「お、朝セットが来たぞ。魔コーヒーは飲み放題だからな。どんどん飲んでくれ」


「ん。魔コーヒーね。飲んだら叱られそう」


「誰にだ?」


「教育係に」


「教育係だと? あんた、まだ子供だったのか?」


「微妙。体も心も大人なつもりだけど、まだ『儀式』を終えてないから」


 儀式というと、成人式か何かだろうか。


 つまり元の世界で例えれば、高校を卒業したけどまだ成人式を迎えてないってところか。


「それなら魔コーヒーはやめといたほうがいいな。わずかだけど依存性もあるらしいからな。あんたの分もオレが飲もう。オレは好きなんだ、これ」


 ユウキは仮面の女のカップをもらおうとした。


 だが仮面の女はその手を遮った。


「飲む」


 仮面の女はその桜色の唇に魔コーヒーが並々と注がれたカップを運んだ。


 ごくごくという音に合わせて喉笛が動く。


「お、おい……そんな勢いよく飲んで熱くないのか」


「『神』だから。僕」


「そうか……でも関係なくないか?」


「確かに。熱かった」


 仮面の女は空気で冷やすように舌を出した。


 *


 初対面ではあったが、話題はいろいろあった。


 たとえば女が身につけている仮面について。


「そういえば何で仮面、被ってるんだ? 全身を覆うローブも」


「…………」


 女は答えなかった。聞いてはいけないデリケートな話題なのかもしれない。


 違うことを聞いてみよう。


「そういや、さっき『あまり時間がない』って言ってたけど、このあと何か予定があるのか?」


「僕が自由になるのは朝だけ。朝のうちに行きたいところがある」


「まじかよ。そんな忙しいならもう出るか?」


「んー。いい。なんとかここまで来たけど、一人ではたどり着けそうにないから」


「そんな遠いところに行こうとしてたのか?」


「この街の外れ。危険なスラムの奥。それに僕は慣れていない。この街に」


 どうやらどこか他所の街から来た旅人らしい。


「スラムならオレ、結構詳しいぞ。あんたが行きたいところに送っていってやろうか?」


「いい。今日はこれを食べたらもう戻らないと」


「それなら明日はどうだ?」


「んー」


「石板、同期しようぜ」


「僕、そんな私物はない」


「まじかよ。それなら原始的に待ち合わせようぜ。明日、そこの噴水前で、今朝と同じ時間に」


 やはりスキル『自分勝手』が効いているのか、やけに押しが強い言葉が口をついて出た。


 引かれて当然であると思われた。


 事実、仮面の女は無言になってしまった。


「…………」


 だが仮面の女はしばらくしてまた魔コーヒーをグイッとあおると、ユウキを見て小さくうなずいた。


 もしかして肯定の意を表しているのか……?


 よくわからないが、問い詰めることはせず、そのままにしておいた。


 その後は当たり障りのない世間話をしながら喫茶ファウンテンの朝セットを口に運んだ。


 会計時、仮面の女は指輪を外すとユウキに渡してきた。


 見事な細工の指輪に大きな宝石が付いている。


「何だこれ?」


「ん。僕、自分のお金は持ってないから。その代わり」


「これってもしかして、凄い値打ちものじゃないのか?」


「朝食分にはなるはず」


「いいよ。元からおごるつもりだからな」ユウキは指輪を返した。


「それなら対価として『神』の祝福をあげる」


「お、縁起が良さそうじゃないか。頼む」


 そう言いつつユウキは会計を終えて喫茶ファウンテンを出た。


 噴水広場には小雨が降り注いでいた。


 喫茶店の軒下に立ったユウキに仮面の女は近づいてきた。


 そして彼女はかかとを浮かせてユウキの唇にキスをした。


 永遠に続くかに思われたその瞬間のあと、彼女は唇を離すと、背を向けて雨の中を小走りに去っていった。


 口元に手を当てて絶句したユウキは、市街地に続く路地に消える彼女の背を無言で見送った。


 *


「ユウキさん、何ぼーっとしてるんだべか? 早くアイテムを鞄に詰めるだよ」


「すまん、班長」

 

 大穴でのバイトで班長のラチネッタに注意されつつ、小部屋の宝箱からザクザクと出土されるアイテムを鞄に詰める。


 しかしなんだか気分がふわふわして、動作ものろのろしている。


 そんなユウキをラチネッタが急かした。


「今日はやけにアイテムが沸くべ。しかもユズティ監督の鑑定によれば、価値あるアイテムの割合が五割を超えてるべ」


「それって凄いのか?」


「凄いことだべ。おらがこの仕事を始めてからこんなこと一度も無かったべ」


 確かに大穴の現場では、今日は冒険者も労働者も監督も、やけに忙しなく働いている。


 どの班も小走りで廊下を行き来して、宝箱から大量に沸き続けるアイテムを、ユズティ監督の待つ広場に運びまくっている。


「あたかも有用アイテム湧出率に確率変動が起きてるみたいだべ!」


「それっていいことなのか?」


「もちろんだべ! 一ヶ月分の仕事が今日一日で終わりそうだべ!」


「まじかよ。それじゃせっせと働かないとな」


 そう言いつつも気分がふわふわしてまるで労働に身が入らない。


 まるで自分が寄って立つ足場が消え、無限の宇宙空間を漂っている気分である。


 この感覚は、現在、風邪で療養中のルフローンと接した時に生じるコズミックホラー感覚に近い。


 だがそれとは微妙に違うところもある。


 この感覚はコズミックな茫洋としたものではあるが、ホラーというよりもむしろハッピーな気分であり、言うなればコズミックハッピーとでも呼ぶべきものだった。


 まあ……そんなに難しく考えることもないか。


 ナンパした女にいきなりキスされたわけだから、ウキウキして浮き足だった気分になるのも当たり前である。


「もう、ユウキさん、ニヤニヤしてないで手を動かすだよ!」


「お、すまんすまん」


 ふわふわしつつも、ユウキはバイトに意識を向けた。


 最終的にその日はいつもの数十倍のミスリルが沸いたらしく、ユズティ監督と彼女を補佐するいかついバックスは手を叩いて喜んでいた。


「みんなのおかげです! 今日は臨時ボーナスを出しますね」


 そうユズティ監督が宣言すると、大穴の入り口に集まった労働者と冒険者から大きな歓声が上がった。


 ユウキのポケットにもかつてない給料が転がり込んできた。


「まったく理由はわからないが、ついてるぜ、今日は」


 その後の星歌亭でのバイトや、平等院でのカラテ練習、および夜の敵襲への対処も、いつもよりスムーズかつ実り豊かに乗り越えることができた。


「チップ、たくさんもらった」


 ゾンゲイルはポケットから大量の紙幣を取り出すと闇の塔の金庫に入れた。


「ふふっ。今夜の敵はたくさんの万能肉を落としていったね」


 シオンは万能肉を冷蔵庫に運んだ。


 体力がついてきたのか、カラテ後だというのに今夜は戦闘に参加している。


「我はいくつか有用そうな武具も拾った」


 暗黒戦士は価値ある武具を武器庫に運んだ。ラチネッタはその手伝いを終えると背伸びした。


「ふあー。今日はいい一日だったべ。まるで神様の御加護があったみたいだべ!」


「ああ、まったくだな」


 ユウキは見知らぬ女にキスされた嬉しさを抱えながら、ふわふわした気分のまま風呂に入り、それから自室のベッドで目を閉じた。

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