第3話 死地

 宿屋と喫茶ファウンテンの隙間、そこではよく謎のストリート・チルドレン、ルフローンがゴザをひいて寝ている。


 いつも半径三メートル内に入ると、頭がおかしくなるようなコズミックホラーを感じる。

 

 だがこの夜はルフローンの異様な気配を感じない。


「よし……入ってみるか」


 ユウキは意を決して建物の隙間へと足を踏み入れた。


 丸められたゴザが壁に立てかけられている以外にルフローンの痕跡はない。今はここにはいないようだ。


 もしかしたら夜行性なのかもしれない。どこかにゴミでも漁りに行ったのだろうか?


 まあいい。


 今はそれよりも目の前のことに集中すべきだ。


 目の前、建物の隙間の奥にはエルフがいる。


 彼女は隙間の突き当りまで歩くと、そこで足を止めた。


 エルフは宿屋の窓から漏れる明かりと、建物の隙間から差し込む月明かりを浴びながら、ゆっくりと振り向いた。


「…………」


 急激に緊張が高まっていく。


 暗闇の中からエルフの切れ長の瞳がこちらを見ている。


 手のひらに汗がにじむ。


 ダメだ。


 これ以上、緊張すればオレはなにもできなくなってしまう。


 まだかなり遠い距離だったがユウキは思い切ってスキルを発動した。


「こんにちは」


 数秒でも声をかけることをためらえば、『疑念』『不安』などの状態異常が生じ、声かけは完全に不可能になる。ユウキはそれを怨念たちとのイメトレから学んでいた。


 だがとりあえずなんでもいいから声をかけさえすれば、何かしらのレスポンスが返ってくるのだ。


 たとえ返ってくるものが無視であろうとも、その反応を得ることでオレは何かを学び前に進むことができる。

 

 ということでユウキは無視されることを半ば運命と受け入れつつ路地の奥に挨拶した。


 だが驚くべきことに暗闇の中から挨拶が返ってきた。


「こんにちは……いえ、夜だからこんばんは、ね」


「た、確かに。こんばんは」 


「やはりあなただったのね。待っていたわ」


「お、オレを? 待ってた?」


「そう……あなたがやって来るのを、宿屋の部屋で、ずっと……」


「それは……どういう……」


 ユウキはゴクリと生唾を呑み込んだ。


 エルフは言った。


「あなたを初めて見た時から私にはわかっていたわ。あなたが私にしたいことを」


 ここでユウキは思い出した。


 エルフの額のサークレット、その形に見覚えがある。


 そうか……このエルフ、以前、星歌亭の前ですれ違ったことがある相手だ。


「あのとき……あんたは分厚いマントとレイピアって出で立ちだったはずだが。今はずいぶん薄着なんだな」


「あなたのためよ」


「オレの?」


「そう……あなたが私を襲い易いように」


 襲う? オレが? このエルフを?


 一瞬、意味がわからなかったが、しばらくして理解した。


 つまりこのエルフはオレに襲われたがっているということだ。


「…………!」


 ユウキは世界が揺らぐようなショックを受けた。


 話には聞いていたが、そんなことを好む女性が本当に存在していたとは。


 男に襲われることを望み、それを誘う薄い服を来て、こんな路地の奥に男を呼び寄せるような女性、それは空想上の存在だと思っていたが、現実に存在していたとは!


 ユウキはファンタジーと現実の境目が融解するかのごときショックを受けた。


 だが……。


 ダメだ、そんなの。


 オレには刺激が強すぎる。


 オレの倫理観がそんなことを受け入れない。


 だいたいオレは別にそんなこと望んじゃいない。


 この暗く狭い路地で君を襲おうだなんて、そんなこと考えてない。


 ただオレは声をかけたかっただけなんだ。


 ちょっと軽くナンパしてみたかっただけなんだ。


「…………」


 と、正論を吐くのはたやすい。


 だが人と人とのコミュニケーションとは絶えず打ち寄せる大海の波に乗り、刻一刻と形を変えるそのゆらぎと戯れることではないのか?


 大自然と同様、常に他者とは自分の狭い世界観を超えてくるものであり、それに対して逃げることなく防御することなく真っ直ぐに己を差し出すことこそが、オレの求めているナンパなのではないか?


 わからないがとりあえず前に進んでみよう。


 ユウキは一歩足を踏み出しながら聞いた。


「あんた、好きなのか? 襲われるのが」


「そうね。きっと、そう。これまで数しれぬ強者たちに襲われてきたわ」


「なんだって、そんなに襲われるのが好きなんだ?」


「……そういう性分なのかしら。目先の仕事をこなしているうちに、私を襲いたがっている人が現れるのよ」


「なぜ……なぜオレがあんたを襲いたがってると思ったんだ?」


「初めて会ったとき、あなたは躊躇せず私の必殺の間合いに入ってきた。さきほど噴水の前であなたは爛々と輝く狩人の目で私を見ていた」


「ああ……今夜は何か結果を出したいと思ってたからな」


「その熱い気持ち、嫌いじゃない。寿命が短いのにパッと咲いて散ることを厭わない、あなたの命、私がこの手で受け止めてあげる」


「本当に……いいのか?」


「何をためらうの? 私は素手よ。あなたはどんな道具を使ってもかまわない」


「道具だと? そんなものは持ってないぞ」


「自信があるのね。いいわ、来て。もう言葉はいらない」


「…………」


 ユウキは路地の奥へと足を進めた。


 突き当りでは月光に照らされたエルフが軽く手を開きこちらを見つめている。


「…………」


 足をもう一歩前に踏み出し、丸められたゴザの横を通り過ぎる。


 さらに縁のかけたコップや、沢山の焼き肉の串などのゴミをまたぐ。


 一歩、また一歩、エルフの肉体へとユウキは近づいていく。


 だが……。


「…………」


 やがてユウキはそれ以上、足を進めることへの恐れを感じた。


 エルフの両手の届く範囲に、何か目に見えない壁のようなものを感じたのだ。


 この壁は、いわゆる武道における間合いのようなものではないだろうか。


 この壁を超えると互いの手足が互いの体に届く。


 この間合いの奥はふれあいの距離だ。


「…………」


 オレは今、恐れている。


 エルフの肉体に触れることができる間合いの奥へと踏み込むことを。


 その奥に踏み込んだら始まってしまう未知の体験を。


 オレは恐れている。


「…………」


 ユウキは再びゴクリと生唾を呑み込んだ。


 同時に脳内に、ここで回れ右して塔に帰る百の理由が浮かんだ。


 人間を襲ってはいけない。


 女性を襲ってはいけない。


 ほぼほぼ見ず知らずの人と会って数分で肉体を使った深い交流をシてはいけない。


 などなどという脳にいつの間にかインストールされていた禁則事項が凄まじい勢いで自己主張を始め、ユウキの前進を止める。


 だいたいだ。


 よく見てみろ、このエルフを。


 流れる黄金の蜂蜜の如き美しき髪、暗闇の中で輝くその肌、強い意思と不快精神性を感じさせるあの切れ長の瞳……美しすぎるだろ。


 ファンタジーかよ。


 それでいて胸元を強調するデザインのドレスによって、強いグラマラスな肉感性が彼女には付与されていた。


 その柔らかそうな肉体に、もしかしたらこの数秒後にでもオレはこの手で触れてしまうのかもしれない。


 それを思うと頭がおかしくなるような興奮を感じる。


 だがこの間合いを超えることがどうしてもできない……!


 こうなったら!


(スキル『無心』発動、スキル『深呼吸』超深度発動!)


 ユウキは自我の働きを止めるために『無心』を発動し、さらに肉体と精神の動揺を可能な限り統御するために『深呼吸』を可能な限り深いレベルで発動した。


『深呼吸』はここ数週間、暇を見てはトレーニングを続けてきたため、熟練度が大いに増しており、心拍や脳波に対する深い統御力を得るまでになっていた。


 その二つのスキルがシナジー効果を発揮して互いに効果を増強しあい、今、ユウキは極めて高いレベルに統御された明鏡止水な心と体を持って、エルフの間合いの奥へと踏み込みつつあった。


 と、ここでユウキは気づいた。


 間合いに完全に踏み込んでしまったそのあとで、ユウキは気づいた。


「…………?」


 エルフは何か両手を手刀のような形に構えていた。


 なんとなくその手刀に触れられたら死ぬ気がした。


 だが……錯覚だろう。


 これは戦闘ではないのだ。


 ナンパ待ちの女に声をかけたことによって突発的に始まった性的交流なのだ。


 決して路地での戦闘、命の取り合い、殺し合いなどではない。


 そのはずだ。


「…………」


 だが今、ユウキはエルフの必殺の間合いの中で気づきつつあった。


 これが性行為の始まりではなく、戦闘の始まりである可能性が十分にあることに。


「…………」


 エルフはさきほど、『襲われるのを待っていた』と言った。


 それは性的に襲われるのを待っていたという意味ではなくて、自分の命を狙う刺客や暗殺者に襲われるのを待っていた、という意味かもしれない。


 つまり、エルフはあえて防御力の低い服を着て丸腰になることで、なかなか自分を襲いにこない敵、刺客を、この建物の隙間へと誘いこんだということなのかもしれない。


 そしてこのエルフは自分を襲いに来た刺客を、正々堂々、今、素手で返り討ちにするつもりなのかもしれない。


 つまり今、エルフはオレと命の奪い合いの戦闘をしているつもりなのかもしれない。その戦闘は今、オレがエルフの間合いに入ったことで、クライマックスに達しつつあるのかもしれない。


「…………」


 そう言えばここ数日、やたら強い伝説的なエルフの冒険者の話を多方面から耳にした気がする。


 多くの闇の組織に長年、命を狙われ、その全てを返り討ちにしてきた伝説の冒険者、エクシーラ。


 まさか、このエルフが、エクシーラだとでもいうのか?


 だがここで『おい、あんた、エクシーラか?』などと口頭で確かめることはできない。


 なぜなら一言でも声を発すればそれがきっかけとなってエクシーラの必殺の手刀がオレの頸動脈めがけて飛んでくる気がするからである。


 かといって、間合いから抜け出るために足を止めて後退することはできない。


 逃げようとした瞬間、スキル『深呼吸』を超深度発動させてつかのま得た、完全なる心身のバランスが崩れる。


 その瞬間、エクシーラの必殺の手刀がオレの頸動脈めがけて飛んできてオレは血しぶきを上げて絶命することが目に見えているからである。


 止まることもできない。後退することもできない。


 となれば前進するしかない。


 ユウキはなおも深呼吸を超深度発動させながらエクシーラらしきエルフの瞳を引き続き直視しつつ、ゆっくりと足を前に踏み出した。


 すでに互いの吐息を肌に感じるほどの凄まじい至近距離である。


 瞳孔の奥まで覗き込めるほどの超絶至近距離である。


 だがまだ止まることも後退することも許されない。


 視界の端に映るエクシーラの手刀は必殺の殺気を発しているからである。


 ああ。


 オレの愚かしい勘違いが招いた突発的なこの死地……どうくぐり抜けたらいいのか。


「…………」


 死地をくぐり抜ける方法、それはオレの魂が知っているはずだ。


 ユウキはもう一度、強くスキル『無心』を発動すると、明鏡止水となった心の奥に、今、自分がいちばん望むことを探った。


 意識が今この瞬間のこのときに収束していく。


 世界が今このときのこの空間だけとなる一刹那の中で、今やってみたいことがふと心に浮かぶ。


 それをユウキは実行した。


「…………」


 エルフを抱きしめ、口付けする。

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