第5話 始まるよ、異世界ナンパ! その2

 ソーラルの噴水広場には、新宿歌舞伎町をマイルドにしたような活気ある猥雑な雰囲気が流れていた。


 その中でユウキは石化したように硬直し、噴水の縁に腰を下ろして俯いていた。


 これまで状況に流され、回りの人間、特にゾンゲイルに手厚く保護され、何の苦もなくこのナンパフィールドまでやってくることができたユウキである。


 だが今、ユウキはひとりだ。


 たったひとり、この異世界の渦中で知らない人物に声をかけなければならない。


「…………」


 これまでユウキはぼんやりと考えていた。


 オレという度胸のない男でも、この異世界ならば、なんとなくノリでナンパできるだろう。


 そのような都合のいいことを考えていた。


 だが今、ユウキは異世界の路上のリアルに打ちのめされていた。


 めっちゃ怖い。


 レイヤー状に何層も恐怖が厚く重ねられている。


「ステータス確認」


「現在、いくつものバッドステータスにより恐慌状態に陥っています」


「いくつものバッドステータス? なんだそれは?」


「数が多すぎてすべてを特定するのは不可能です。ですが現在、『広場恐怖』の状態異常が、特に強くユウキに影響を与えています」


「ひ、広場恐怖だと?」


 確かに思い当たるフシはあった。


 小学校高学年になるとオレは体育館を恐れるようになった。人がランダムに動きまわるフィールドに自分がいると、何をどうすればいいかわからなくなり、呼吸が浅くなり視界が歪み始める。


 中学に上がると電車に乗るたび具合が悪くなるようになった。


 高校生になると駅前の雑踏を歩くことが難しくなった。大勢の人間の話し声や車のエンジン音、店のBGMなどが一気に耳に入ってきてふらふらしてしまうのだ。


 大学時代はバイトもせず授業が終わると自転車で家に直帰する生活を送り、卒業後は家にいたため、広場恐怖に苦しめられることはなかったが……。


「そうそう、オレ、広場が苦手だったわ。特にこういうタイプのうるさい繁華街みたいな場所が死ぬほど苦手だったわ」


 ユウキは石畳をにらみ、全身に脂汗をにじませながら呟いた。


 呼吸がどんどん浅くなっていく。


 さらに、空間自体が狭くなってくるような、わけのわからない圧迫感がどんどん強くなっていく。


「はあ……はあ……オレはこんな場所で一体何をしようというんだ……?」


 ユウキはなんとかスキル『深呼吸』を発動し、過呼吸をレジストした。


 だがそこに追い打ちをかけるように、ナビ音声が脳内に響いた。


「状態異常『コズミック・ホラー』が発現しました」


「なんだそれ?」


「次元間の交流に伴う認知的不協和がもたらす特殊な恐怖です。対象者の人格の統合性にほころびを生じさせます。それは世界崩壊感として外部に投影されます」


「なに言ってんだかわからん」


 ただでさえ数種類の恐怖によって思考力が鈍っているところに、わけのわからない難しい言葉を使った説明をされてもまったく理解できいない。


「平たく言えば、『コズミック・ホラー』はユウキの正気を失わせます」


「最初からそう言えよ。使えないナビだな」


「すみません」


「で、オレから正気が失われるとどうなるんだ?」


「ナンパどころではないでしょうね」


「…………」


 そもそもだ。


 冷静に考えてみれば、正気だろうと正気でなかろうと、異世界でナンパなんてしている場合ではない。


 それよりもまず先に考えることがあるだろう。


 異世界転移という現象そのものに対して、もっと哲学的な考察をすべきだろう。


 そういうわけでユウキは哲学的なことを考えた。


「…………」


 結果、ひとつの洞察にたどりついた。


 すなわち……異世界、そんなものがあるということはつまり、オレがかつて属していた世界も、他に数多ある異世界のひとつに過ぎなかったということか?


 そしてユウキはふと思い出した。


 闇の塔の最上階、第七クリスタル・チェンバーで目覚める直前に見ていた夢を。


 あの、色とりどりの光の欠片で満たされた万華鏡のようなヴィジョンを。


 あの億千の鮮やかな光の欠片のすべてが、ひとつの異世界だったのだ。


「そ、そうか……!」


 ユウキはさらなる洞察を得た。


 人間とは、誰もがこの数多の世界を旅する旅人だったのだ。


 オレがもといた世界だって、ひとつの異世界だったのだ。


 いわばオレはあの世界に異世界転生していたんだ。


 あそこに長い間、転生していたため、オレは他の世界のことを忘れ、あの世界ひとつしか存在しないと思い込んでいたのだ。


 だが、そもそも世界は、無限に、腐るほど、余るほど、いくつも存在していたのだ。


 数多の世界、無限の可能性が、あの万華鏡のようなヴィジョンの中で、光を散らし合い、複雑な幾何学模様を描いているのだ。


「わ、わかった……わかったぞ……」


 ユウキは石畳を凝視したまま口の中で呟いた。


「オレは世界の仕組みがわかった。悟ってしまった……」


 恐るべきコズミック・ホラーの果てにたどりついた世界の真実に、ユウキはおののいた。


 同時に、このような悟りを得てしまった自分に感心せざるを得なかった。


 オレ以外の男だったら、異世界などに転移したら舞い上がってしまい、獲得したスキルを使って無意味なバトルに明け暮れるところだろう。


 だがオレはこのような哲学的思索にこそ価値を見出す。


 それがオレだ。


 ユウキは異世界の中で自分らしさの片鱗を見つけ、少しだけいい気分になった。


 ナビ音声が脳内に響いた。


「世界認識のアップデートと、自分らしさの再認識により、『コズミック・ホラー』が除去されました」


 *


 しかし状況は何も変わらなかった。


 哲学的思索をするのは、まあまあいいことかもしれない。


 暇つぶしになるし、それによって世界の見え方が少しずつアップデートされていく。それによって、無駄な恐怖が少し減る。


 だがこれ以上は、哲学的思索を続けても無意味だ。


 今は、それよりも、ナンパをしなければならない。


 それはなぜか? 


 なぜオレはナンパしなければならないのか。


 理由はいろいろある。


 オレがナンパをしなくては闇の塔が崩壊し、封印されし闇の眷属たちが蘇り、そいつらの暴虐によってこの世界の生きとし生けるものは虐殺され、この世界は滅ぶ。


 だがそれは究極的にはどうでもいいことである。


 オレや他の誰かがこの世界で死んだとしても、どうせ他の世界に転生するんじゃないか? 


 死とは異世界転生のためのひとつの通り道に過ぎないんじゃないか。


 だとしたらこの異世界ひとつが滅んだところで大した問題はないだろう。


 だから世界が滅ぶとか、滅ばないとか、そんなことはどうでもいい。


 だがそれにしてもオレはナンパをしなくてはならない。


 それはなぜか? 


 なぜなのかはよくわからない。


 わからないが、だがとにかくオレは、ナンパがしたい。


 したいんだ。


 わかるだろうか?


 このオレの気持ちが。


「…………」


 どこかに誰か、オレのこの気持ちをわかる人はいるだろうか?


 いないかもしれない。


 あまたある無限の世界の誰一人にも理解されないかもしれない。


 だがそれでもいい。


 誰に理解されなくてもいい。


 他になんの理由もいらない。


 オレは、ナンパをしたい。


 オレは、ナンパをしたいんだ!


「なのに……」


 なのに、どうしても、それができない。


 体が、動かない。


 今、やりたいことをやれるチャンスがオレの前にある。


 なのに体が、どうしても動かない。


 怯えて、動けない。


 広場が怖い、他人が怖い、人の目が怖い、異性が怖い、自分自身が恥ずかしい。


 押しつぶされて、動けない。


「……どうすればいいんだ?」


 ユウキは石畳に顔を落としたまま呟いた。


 日は刻一刻と沈んでいく。


 その赤い陽を浴びながら、今、ユウキは自分の限界を知った。


 異世界に来て、驚くべき世界の構造をかいま見て、やりたいことをやれる絶好のチャンスを目の前にし、なのに体がすくんで何もやれない。


 異世界の自由さのただ中にあってさえ、弱い自分が自分を拘束する。


 ここでオレは何もできずこうして石像のように固まっている。


 現実はままならぬもの。


 そこが異世界だろうとどこの世界であろうと。


 どんな世界の中であれオレはオレなのか。


 オレがオレである限りオレはオレなのか。


「ううっ……」


 ユウキは異世界に来たところでどうしても逃れられないこの自分の自分らしさに思わずうめいた。


 それはナンパしたいのにナンパする度胸のない不甲斐ない自分への哀れみのようだった。


 だが、その一方で、そのうめきは、いつまでも自分らしさを失わない、この自分の自我の強さへの驚きでもあった。


 その驚きとともに、ユウキは理解した。


「ううぅ……そ、そうか……」


 異世界に来たところでオレは急には変わらないんだ。


 外がどれだけ激しく変わろうと、オレはなんにも変わらないんだ。


 だとすると……外からではなく、内側から、自分の意志で、自分を変えていくしかない。


 外にあるいかなる驚異とてオレを変えることはできない。


 だからオレは自分から、自分の中から変わらなければならない。


「そ、そうだ……自分らしく……自分らしく……少しずつ、内側から変えていこう」


 涙がじわっと滲んだ。


「ううっ……お、オレはオレだ。オレはオレとしてこの世界で、少しずつ、内側から自分を変える……ナンパできるようになるために」


 石畳にぽとりと涙を落としつつ、そのような決心を口の中でドラマティックに呟いてみる。しかしやはり現実はままならぬもの。


 そんな口先の決心で何が変わるわけでもない。


 いまだに、ユウキは顔を上げることすらできない。


 だからユウキは、今の自分にできる範囲で、自分を変える努力をした。


 すなわち、広場が怖くて顔を上げることすらできないなら、顔を石畳に落としたまま、視線だけを少し上向きにする挑戦をした。


 視線を上げる。


 視線を上げる。


「視線を……上げる!」


 脳からのその指令は確かに眼球を制御する筋肉に伝わった。


 ユウキの眼球はおずおずと動き、視線はわずかに上向きになった。


 瞬間、この異世界の噴水広場に満ちていた光がユウキの瞳に飛び込んできた。


 夕暮れ時の優しい光がユウキの瞳に飛び込んで、それはユウキの心にひとつの明確な像を結んだ。


「…………!」


 あまたのエキゾチックな衣装に身を包んだ人間、エルフ、ドワーフ、獣人が闊歩するこの異世界の街、ソーラルの、昼と夜とが交錯する場所。


 見知らぬ者同士が交わりを結ぶ、そんな機会にあふれた広場……今この現実の中に、ユウキはままならぬ自分を抱えて存在していた。


 この広い宇宙の中、この無限の可能性にあふれた数多の世界の中心で、今ユウキは確かに視線を上げ、自分を取り囲む現実と向き合った。


「…………」


 いまだその背中は自信なさげに丸まっていたが、なんにせよユウキはひとつの挑戦し、それを確かに成し遂げたのだ。


 心の中にナビゲーション音声が鳴り響いた。


「スキル『地道さ』を獲得しました」


 ……わかった。


 オレは、異世界で、地道に、地道に、自分を変えて、ナンパをする。


 ユウキの中にその決意が固く芽生えた。

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