第5話 急接近

 塔から出たゾンゲイルはユウキに言った。


「乗って」


「はあ? この大八車に?」


「そう。私が引いていく」


「そんなことさせられるかよ」


「平気。この街訪問用ボディ、家事用ボディよりは力が弱いけど、それでも成人男性の1.5倍は強い」


「……1.5倍って、また微妙なところだな」


「綿の入った敷物を荷台に敷くから、おしりも痛くない」


 ゾンゲイルは異様な眼力のある瞳をユウキに向けた。


 ユウキは渋ったが、断固として決意を揺るがさないゾンゲイルに押され、やむなく大八車に腰掛けた。


「それでいい。出発」


「疲れたら言えよ。交代するから」


「ええ」


 しかしゾンゲイルはいつまでも大八車を引くのをやめなかった。深い雑草をくぐり抜け、大八車は木々が高い密度で茂る森の奥へと踏み入っていた。


 この世界に四季があるのかは定かではない。だが今、季節は見かけ上、秋のようである。紅葉した木々の合間をゾンゲイルは大八車を引いて進み続けた。


 あたかも通行の許可を得た者だけが認識できる秘密の小道があるかのごとくに、ゾンゲイルは落ち葉に覆われた地面をなめらかに進んでいった。


 まるで森自身が意思を持ってゾンゲイルのために道を開けているかに思われた。


 ぶ厚いヤブが行く手を遮っている。だがゾンゲイルが少し歩くと、ちょうど大八車が通れるだけの隙間が見つかった。


 木々の枝は通行人に覆いかぶさるように低く茂っており、地面には脚に絡み、車輪を引っ掛ける罠のごとき木の根が張り巡らされていた。だが無抵抗で障害を通過できる進入角度があり、ゾンゲイルはその細いラインを見つけて進んだ。


 ゾンゲイルは大八車を巧みに操り、流れるように、あるいは飲み込まれるように、迷いの森の奥へ奥へと進んでいった。


 そして夕方になり西日がゾンゲイルの頰を赤く染め始めた。


 日が暮れる前に野営の準備をしようとしてか、ゾンゲイルは大八車を巨大な樹木の根元に止めた。


 夕日に照らされたゾンゲイルの横顔は美しかった。


 そして……今まで忘れていた恐怖……自分の中の御しがたい女性恐怖がその恐るべき鎌首をもたげるのユウキは感じた。


 ユウキは緊張に汗ばみながら、ごくっと生唾を飲み込んだ。


 *


 プレッシャーが高まる中で野宿の準備をしながら、ユウキはこれまでの回想を終えた。


 ああ、塔ではいろいろあったな。


 だがその回想を終えたいま、ユウキはたった一人で向き合わねばならなかった。


 あまりに魅力的なゾンゲイルと。 


「…………」


 今、日が暮れつつある迷いの森の奥で、ユウキは自分に必死に言い聞かせていた。


 姿形が変わろうとゾンゲイルはゾンゲイルである、と。


 そもそもゾンゲイルはあのゾンビガーゴイル・ボディを身にまとっていたときからすでに、しとやかな女性的雰囲気を放っていた。


 その彼女本来の雰囲気に、より調和するボディへと換装しただけに過ぎない。そうだ、いつまでも怯えているのは失礼だ。


「に、似合ってるよ、その体」


 日が暮れつつある迷いの森の奥で、ユウキはゾンゲイルと物理的に距離を取りながらも、なんとか親しみの言葉を口に出した。


 地面に落ちている木の枝を集め終えたゾンゲイルは、火打ち道具を荷台から下ろす手を止めた。うつむきながら呟く。


「嘘……私のこと、人形だから怖がってる」


 そ、そんなことない、と弁解しかけたが、そこでユウキは気づいた。


「そういやゾンゲイルの体、木製だろ。焚き火は危ないからオレがやるよ」


 こういう実作業に意識を向けることで、女性恐怖症や、そこから生じるドラマから逃れられるように思えた。


「平気。このボディ、耐火、耐水の魔法がかかってる」


「いいからやらせてよ」


 ユウキは火打ち道具をゾンゲイルから奪った。


 ゾンゲイルに近づいた際、カビくさい農民服の匂いと、彼女のボディが放つ高貴な香木めいた芳香が鼻孔をくすぐった。


 その香りがユウキを陶然とさせていく。


「…………」


 作業に集中しよう。


 落ち葉が積もって柔らかい地面に膝をついて中腰になり、火打ち道具の箱を開ける。


 箱から火打石と火打金を火口を取り出しつつ、思い出そうと試みる。火の起こし方を。


 そう……かつてユウキは自身が運営するアフィリエイトサイトのために、マグネシウム合金製ファイアースターターの記事を書いたことがある。


 その記事を書くためにユウキはファイアースターターの使い方や屋外での火起こしについてひと通り学んだのである。


 いまこそその知識を活かすときだ。


 ええと……この油が染み込んでいる植物繊維が火口だろう。これを瑪瑙っぽい火打ち石に載せて、この金属片でぶっ叩く。


 がちーん、がちーん。


 二三の試行錯誤の末に火口が赤熱した。成功だ! 


 でも……このあと何をどうすればいいんだっけ?


 このままでは火口のか細い火はすぐに消えてしまう。


「あわわわわ……」


 瞬間、パニックに陥ったユウキの手をゾンゲイルの手が包んだ。


「こっち……」


 ゾンゲイルはユウキの手をゆっくり地面へと導いた。そこには揉みほぐされた木の枝の皮が彼女の手によって用意されていた。


 ゾンゲイルの意を汲んだユウキは、心細く赤熱する火口を木の枝の皮にそっと乗せた。


 ゾンゲイルは細やかな指先の動きで火口を整えるとユウキに頼んだ。


「そこに、息を吹きかけて。優しく」


「こ、こうかな」


 ふうふう。


 ふうふう。


 地面に這いつくばって赤熱する火口に息を吹きかけていると、少しずつ火が木の枝の皮に燃え移っていった。


 ゾンゲイルが小枝を火口の回りに積み上げていくと、火はますます大きくなり、最終的には立派な焚き火へと成長した。


「……結局、ほとんどゾンゲイルにやってもらっちゃったな」


「いいの。仕事だから」


 ゾンゲイルは一瞬、微笑んだように見えた。


 だが、そんな機能、木製のボディに備わっているのだろうか。森を包む夕日が見せる錯覚か。それともシオンが言ったように、彼女は刻一刻と進化しているのか。


 わからないがユウキはその美しさにまた息を呑み、うっとりと彼女を見つめてしまった。その視線にまるで気付かず、ゾンゲイルは甲斐甲斐しく動いて焚き火の前の地面を綺麗にし、ユウキのためのスペースを作った。


「あとは私がやる。ユウキはここに座っていて見ていて」


 ユウキが焚き火の前に腰を下ろすと、ゾンゲイルは野営の支度を再開した。


「…………」


 ゾンゲイルは、まずは焚き火の側に今夜の寝床を作った。


 適度な太さの枝を立てて支柱とし、そこに塔から持ってきた布を被せている。見る見る間に暖かそうなテントができあがった。テントの床には毛皮が敷かれており、寝心地も良さそうだ。


 寝床の準備を終えてテントから顔を出したゾンゲイルは、次に食事の準備を始めた。


 鍋に何種類もの香辛料と水を入れ、火にかける。そこに干し肉と穀物を入れ、大きな木製のスプーンでかき混ぜながら、ことことと煮ている。


 最後にひとつまみ調味料を入れて完成だ。ゾンゲイルは鍋から木の椀にスープを注ぐと、小ぶりのスプーンと共にユウキに渡した。


「はい、食べて。熱いからよく冷まして」


 温かな湯気と食欲をそそる香りがユウキの鼻孔をくすぐった。


 ふうふうと息を吹きかけながら、ふとあたりを見回す。


 いつの間にか日は完全に落ちていた。


 ユウキは焚き火の前に座り、その少し離れたところにゾンゲイルが座っていた。


 焚き火にオレンジ色に照らされた彼女は体育座りし、膝の上に腕を組み、少し首を傾けて、ユウキがスープを口に運ぶのを見守っていた。


「どう? 薄いかもしれない。私、味がわからないから」


「はふはふ……美味しいよ。すごいな……」


「本当?」


「ああ。すごく美味しい!」


 一口食べ始めると自分がものすごく空腹であることに気づいた。はしたないと思いつつユウキはガツガツとスープを口に運んだ。


 ぷちぷちとした食感の穀物と、旨味に溢れた干し肉、そして謎の香辛料の食欲をそそる香りが三位一体のシナジーを形成しており、その旨さは元の世界でも味わったことのないものである。


「この肉はもしかして燻製にしてあるのか?」


「そう。塔の裏に燻製器を作ったの。だけど、変かもしれない。私、匂いもわからないから」


「すごくよくできてるよ。燻製によって肉本来の旨さを凝縮されていて、チップの香りもこの肉にマッチしている。ゾンゲイル、本当に料理が上手なんだな」


「別に。仕事だから」


 そう言いつつ体育座りしているゾンゲイルは、膝の上で組んだ腕に顔をうずめた。

 

 照れているのか。


「スキル『褒める』を獲得しました」ユウキの脳内にナビ音声が響いた。


「そうそう、こういうのが欲しかったんだよ」


「……何?」


「いや、こっちの話。ゾンゲイルは本当に何でもできて有能だよな」


 ユウキは絶世の美女と二人きりというシチュエーションに濃く内包された緊張を解きほぐそうとして、どんどんゾンゲイルを褒めていった。


「きっとオレの世界にでも出世できるよ。羨ましいよ」


「そんなことない。私なんてただの人工精霊だから」


 再度ゾンゲイルは膝の上で組んだ腕に顔をうずめた。


 やはり照れているのか。


 そのリアクションに自信を得たユウキはゾンゲイルを多方面、さまざまな角度から褒めあげていった。


 バリエーション豊かなボディ、控えめながらよく気がつく優しい性格、話していて落ち着くしとやかさ、その他もろもろ、今までにいいなと感じた部分をひとつひとつ挙げていった。


 結果、スキル『褒める』のレベルは速やかに高まっていった。


 ゾンゲイルはしきりに照れて顔を腕に埋めていたが、人間的な屈託が薄いためか、いずれの褒め言葉もしっかりと心に受け止め、まっすぐ吸収してくれたように感じられた。


 焚き火に照らされ暖められた夜の空気の中、褒められるごとに高まっていくゾンゲイルの嬉しさが、やがてユウキにも伝染してきた。


 気持ちいい。


 気持ちいいな、これ。


 気がつけば深い夜の中、酩酊感の無いクリアな酔いが二人の間に回っていた。


「…………」


 そして……距離が近づきはじめる。


 迷いの森の奥まった誰もいない場で、焚き火に照らされて体育座りしたゾンゲイルは、わずかに腰を浮かせると、手のひらひとつ分の距離、ユウキに身を寄せてきた。


 ユウキは反射的に同じだけの距離を遠ざかりかけたが、意志の力を発動してその場に踏みとどまった。


 遠ざかればまたゾンゲイルを悲しませてしまう。


 だから、絶対に遠ざかってはいけない!


 だが限界を超えて近づいた肉体間の距離がユウキの呼吸を大きく乱した。


「はあ……はあ……」


「どうしたの? 息が変」ゾンゲイルは不安げに顔を近づけてきた。それによりユウキの呼吸はさらに乱れた。


 このままでは過呼吸になる。


 ど、どうすればいいんだ……!


 そのときだった。


 脳内で声が響いた。


「スキル『深呼吸』を獲得しました」


 すかさずユウキはスキルを発動させると、ゆっくりと息を吸ってそして吐いた。


「すう……はあ……」


 心配そうにゾンゲイルが見つめる前で、ユウキは激しい心臓の動悸を感じながらもスキルを発動し続けた。


 やがて、ユウキの内側に、かすかなリラックスが広がりはじめた。


 インナーマッスルのこわばりが解け、呼吸はわずかに深くなった。


 そして今、ユウキの胸の内に、脳神経に、迷いの森の木々が放射するフィトンチッドが吸収されつつあった。


 木々の芳香が全身に深く染み渡っていくのが感じられた。


 そのようにして生じたかすかなリラックス、それが今、自分の内に広がりはじめた。


 肉体を持ってここに存在していることへのくつろぎ。そんなものがユウキの内にしみじみと広がり、やがてそれはユウキの内から外へと広がっていった。


 あたかも安らげるリラックス・フィールドが半径一メートルの空間に広がったように感じられた。


「すう……はあ……」


 体育座りのゾンゲイルは膝の上に組んだ腕に頬を乗せ、深呼吸するユウキを、うっとりとした優しい瞳で見つめていた。


 焚き火の中で木の枝の爆ぜる心地よい音を聞き、夜の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ユウキはゾンゲイルの視線を受け止めた。


 その視線の交差がユウキの中にかつて感じたことのない甘さを満たした。


 とろけるような甘さが胸に満ちた。


 だがそのときゾンゲイルは顔を両手で覆い隠した。


 ゾンゲイルはその謎の挙動をいつまでもやめようとしなかった。


「おい。どうしたんだよ」


「別に。なんでも」


「…………」


 ゾンゲイルの耳朶が真っ赤に染まっていた。


 炎に照らされているということもあるが……もしかしたらゾンゲイルもオレと同様、二人っきりの夜に照れているのかもしれないな。


 そう思うと、そこはかとない仲間意識をゾンゲイルに感じた。


 その仲間意識はやがて愛おしさへと変わっていった。


 脳内に声が響いた。


「スキル『愛情』を獲得しました」


「マジかよ」


「何?」


 ゾンゲイルは顔を両手で覆い隠しながら、ちらりと指の隙間からユウキを見た。


「…………」


 より大きな愛おしさがユウキの中に育まれていく。


 いつしかユウキはゾンゲイルのすぐ隣にまで腰を浮かして移動していた。


 肘がふれあいそうな距離の中、二人の間に甘さが、そして互いを引き寄せる磁力が、刻一刻と強まっていくように感じられた。


 二人の距離はさらにもう少しだけ縮まっていった。


 だがそのときだった。


 どかーん。


 焚き火の向こう、迷いの森の木々の影の奥、深い夜の闇の中から凄まじい物音が響いた。


 何者かが大質量の鉄塊で太い木の幹を叩き割ろうとしているかのごとき爆発音、そんなものがユウキの全身を打った。


「なななな、なんだ?」


「隠れて! 私の後ろに!」


 ゾンゲイルは一瞬で跳ね起きると大八車から巨大な鎌を取り出し、背後にユウキをかばいながら両手で錆びた刃を構え、その切っ先を闇の奥に向けた。

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