スローライフを始められ…ませんでした
「やっほう、到着!」
一瞬にして、王都から遠く離れた辺境の地までワープした"シルヴィ"は、"自分の城"を見回した。
白いシャツに茶色のズボン、それから茶色の上着という服装は、高価な品ではない。庶民のよく行く店で購入したものだ。
「ふんふんふーん」
鼻歌交じりに、ぐるりと部屋の中を見回す。
寝室に置かれているのは、公爵家の物置から持ち出してきた家具なので、一般家庭に置かれている家具にしては少々上質であるのはいなめない。
だが、使う人もなく放置されている家具をそのままにしてくのはもったいないというもったいない精神がそうさせたのだからしかたない。
ここは、ウルディという国境近くの町だ。王都のヴェノックまでは、普通の移動手段では、ひと月ほどかかる。シルヴィの場合は、一瞬であるが。
この家は、ウルディの中心部からは、 歩いて二十分ほどろうか。跡取りのいなくなった農場を買い取って新たな住まいとした。
「さーて、これから忙しくなるわよね」
鏡の前に駆け寄り、縦ロールのままの黒髪を首の後ろで一つに束ねる。
二階は寝室が三つ。ひとつがシルヴィの部屋で、あとは客用寝室にする予定だ。今のところ、客人が宿泊する予定はないけれど。
一階に下りれば、そこはキッチンの他にもう二部屋。もともと家族で住んでいた建物を買い取ったので、部屋の数はそれなりにある。
「まずは、全部使えるかどうかのチェックよね」
独り言がやけに多いがしかたない。実家を出て一人暮らしをするのは前世で経験済みだが、今世では初めてなのだから。
前世は前世、今世は今世である。
最初に向かったのはキッチン。保管庫を開けて中を確認する。
この保管庫には魔法がかけられていて、置かれている食べ物の鮮度をキープしてくれる。収納魔法の応用だ。
「パンはある、卵もある。バター……は、ないな」
キッチンは、前世が日本人であるシルヴィの目から見ても一通りの調理器具はそろっていた。もっとも、魔石というのがそもそも高価な品なので、一般の家庭でここまで揃っていることはめったにない。
ガス台は存在しないが、魔石を使った調理用コンロは、スイッチを入れるだけで火がつく。
同じく魔石を動力源としたオーブンに食材を冷やすための冷蔵庫。冷やしたものの保管は保管庫で問題ないのだが、調理の過程で冷却が必要になるだろうと冷蔵庫も用意した。
これらは、この農場を買い取った後にシルヴィが設置したものだ。
「冷蔵庫は問題なく使えそう」
冷蔵庫の扉を開けて、魔石をセット。冷えるまでは少々時間がかかる。
魔石は、在庫がたくさんあるから惜しみなく使える。足りなくなったら、ダンジョンまで狩りに出かければいい。
(なるべく早く、ウルディの冒険者ギルドに挨拶に行こう。そのついでに買い出しも)
スローライフを堪能するつもりではあるが、自給自足を試みようとしているわけではない。必要なものは、ウルディの街でほとんど調達できるはずだ。
ウルディで手に入らなかったとしても、自宅に戻れば王都のヴェノックまで出るのもたやすい話だ。
(……あとはどうしようかな)
先に、一通り農場を見て回った方がよさそうだ。
畑を耕すのは精霊に任せればいい。泣きながら父にしごかれている間に、四大精霊全てと契約済みだ。
(種と苗はダンジョンから持ってきたのがあるでしょ。柵の補強が必要。それから井戸の整備も)
もちろん、何年もかけて準備はしてきたのだが、『とある事情』により、シルヴィの稼ぎは大半が貯金とは別の目的に費やされていた。
これからは、農場の整備に費用を費やすことができるが、もう少し資金はあった方がよさそうだ。
(ウルディに行って、何か仕事をもらおう)
冒険者ギルドに行けば、仕事はいくらでもあるはずだ。
そんなことを思いながら、キッチンへと戻る。乏しい保管庫の中身を確認しながら、昼食は何にしようかと考えていたら、キッチンの扉が勢いよく開かれた。
「まあ! シルヴィちゃん。大講堂で簡単に消えるから、お母様びっくりしちゃったわ!」
ノックもせずに扉を勢いよく開け放ったのは、メルコリーニ公爵夫人。つまりシルヴィの母親だ。
シルヴィと同じ黒髪に紫水晶のような紫色の瞳。子供を産んだとは思えないほど若々しい美女だ。
「ごめんなさいね、お母様。でも、勝手に家に入ってくるのはどうかと思うの。私、きちんと鍵はかけていたはずだけれど」
「そんなの、私の前では鍵なんて何の役にも立たないことくらい、あなたならよくわかっているでしょうに」
「そうだったわね、お母様……」
保管庫の扉を閉め、シルヴィは遠い目になった。
メルコリーニ公爵家は、代々武闘派と言っても過言ではない。
なにせ、初代メルコリーニ公爵は、"冒険者になりたい"とかいう理由で王家を出奔したとんでもない人間だ。
冒険者を引退後、今さら王家には戻れないという理由で公爵位を賜って、メルコリーニ家を興している。
そんなわけで、"優秀な冒険者であること"という一点をクリアすれば、本来なら身分違いである平民出身の冒険者との結婚も、メルコリーニ家においては比較的容易に認められる。
そして、母はその平民出身の冒険者であった。超一流の回復魔法の使い手でありながら、そこそこ戦闘もこなすことができる。母の戦う姿に一目ぼれした父が、三年かけて口説き落としたらしい。
鍵をかけていたところで簡単に外すことができる。今でも『部下を鍛える』という名目で、メルコリーニ家に仕える護衛達をしごき倒しながら実践訓練を積んでいる。その腕は冒険者を引退した今も衰えていない。
「何か問題でもあった? 私、ちゃんと片付けてきたはずだけど」
王太子クリストファーとの婚約が破談になるであろうことは、カティアとの仲が噂になった頃から、メルコリーニ公爵家の全員が理解していた。
そのため、半年以上前からシルヴィは準備を進めていた。今さら、問題が発生するとも思えない。母はぷくりと頬を膨らませた。
「問題なんてないわよ? あんな形で婚約破棄を叩きつけておいて、王家の方々がシルヴィちゃんに話を聞きたいって言うんだもの。迎えに来るしかないじゃない」
「お父様とお母様にお任せするわけにはいかない? クリストファー殿下の顔を見たら」
「顔を見たら?」
「全力で殴り飛ばしてしまいそうだもの」
婚約していた期間、手を出さなかったのは、シルヴィが本気を出せば相手を完全につぶしてしまうことがわかっていたからだ。
だが、あれだけコケにしたシルヴィを呼び出そうというのだから、そのくらいは覚悟しているということなのだろうか。
だったら、平手の一発や二発お見舞いしてやりたいところだ。シルヴィ渾身の平手をくらったクリストファーがどうなるのかはわからないが。
「殴るのはなしよ、シルヴィちゃん。でも、後始末はきちんとしておかないと――ね?」
「……大講堂でちゃんとすませたと思うんだけど」
「あれですませたつもりなの?」
こちらを見る母の目が、ゆっくりと細められる。
その表情に危険なものを覚え、シルヴィはこくりとうなずいたのだった。
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