雨を降らす少女

小笠原 雪兎(ゆきと)

雨を降らす少女

 なんとなく出しただけでガチの作品ではありません。



 病院のガラスはよく涙を流す。私の代わりに沢山泣く。


 向かいのベットの山本さんが死んだ。もう年だったから仕方ない。

 でも…老害じゃない人が早死にして…老害が長く生きるってなんなんだろ…。


 答えのない疑問がふわっと舞い降りてくる。私はその答えを探ることが好きだ。

 病院の図書館の本を読みあさるのが趣味。そしてその趣味を堪能している間に答えが出てくる。


「唯花ちゃんは本が好きね~」

「はい…これしか楽しみを知らないので…」


 あと…私は空気が読めない。看護士さんが話しかけてくれる。私はそれに思ったことを返す。

 そしたら…苦笑いして看護士さんは私の元を去る。そして何時間かして、私が応えにくい返しをしたせいなんだと知る。


「バーカ」


 私は呟く。そう言う日はよく雨が降る。

 持病のせいで病院育ちの私は勉強がよく出来る。でも勉強が出来ても何も嬉しくない。

 勉強の成果は大人になってから必要になってくる。でも…私の重病は二十歳まで。あと4分の1と言ったところか。


 衰弱するのを遅らせて生きながらえる。なんでそこまでして生きなきゃいけないのか分からない。

 早く死んでも別にいいと思ってる。

 だけど…私の入院費を必死に稼ぐお母さんが、仕事の帰りにお喋りしてくれる事を考えるとそんなことは言えない。


 私は…自立できないこんな私は、誰かの生き甲斐でなければならない。期待なんてされてない。ただ、生きることが人の為になる。

 それが…それだけ辛いかはきっと貴方たちには分からない。そう…彼にも、きっと。


ーー


 彼が私の隣に来たのは曇天の日だった。点滴の棒を付けられたまま運ばれてきた。

 私は今日の日記を付ける。いつか試しにつけたら、お母さんが喜んで読んでいた。だから今日も付ける。


 20××年〇月△△日 曇天

 今日は隣のベットに新しい患者が来た。同年代のようだ。彼の名前は…萩原修斗。

 夕飯はお粥、サラダ…


 書くことがなければだいたい日記は献立の話になる。今日は読書も捗らなかった。

 お母さんがいつも来るのは九時。面会した後にすぐまた会社に戻るらしい。でも今はもう十時。今日は来ないのか。


 私は机を戻して、布団に潜った。明日が…来なきゃいいのに。


ー翌日ー


「えっと…」

「どうも、よろしく」


 彼に声を掛ける。


「よ、よろしく…」


 同年代というのは初めてだ。少し興味がある。

 が、話しかけ方が分からない。だから本に目線を向けて逃げた。

 朝食が運ばれてくる。病院食は薄いそうだ。でもわからない。

 私は味付けの濃いものを食べたことがない。


「いただきます」

「い、頂きます…っ…薄っ!」


 やっぱり薄いのか。今日の味付けはちょっと濃いと思うけど…。


「うぅ…唐揚げくいてぇ…。…あ、あの…購買とかどこにあるか分かります?」

「…?購買は…二階にあります。だけど多分注意されますよ?」

「え?何でですか?」

「病院食が薄いのには意味があります。それなのに味の濃い物を食べたら意味が無いでしょう?そういうことです」

「えぇ…あ、俺の名前は…」

「萩原修斗、ですよね?」

「あ…はい…」


 彼は黙って朝食を食べ出した。食器回収のワゴンが回ってきたときに気づいた。

 自己紹介するタイミングだったのか、と。


 どう自己紹介すればいいのか…。


「あ、あの…」

「は、はいっ…」


 驚いたように返事をする彼。…嫌われているのか…。


「…いえ…何でもありません…」


 人は社会に貢献する義務がある。どこかの本に書いてあった。でも私は社会貢献なんてできない。

 なら、きっと社会の邪魔になることだけはしないようにしないといけない。

 彼を傷付けるぐらいなら話しかけない方がいいに決まってる。


「…そ、そうですか…」


 気まずい雰囲気を彼を築かなきゃいけないのか…。私は陰鬱にそう思った。


ー数日後ー


「あ…ゆ、唯花さん」

「…はい」

「あ、ごめんなさい。下の名前呼びとかなれなれしかったですよね…」

「…別に構いません。それで?何かありましたか?」


 丁寧な言葉を使おう。できるだけ丁寧に話せばきっと彼も傷つかない。


「…な、なんでもないです。ごめんなさい…」

「…謝る意味が?何か私にしましたか?」

「す、すいませんっ…」


 彼は病室を飛び出す。どこかあからか看護師さんに叱られる声が聞こえた。

 走ってしまったのだろう。


ーー


「ゆ、唯花さんは本が好きなんですか?」

「…というか本以外に娯楽を知らないので…」


 結局毎回同じ返答をしてしまう。まぁ…失敗を重ねる毎に失敗したと気付くまでの時間が短くなってはいるのだが。


「え?それは…」


 そして失敗したと気付く。でも、彼は苦笑いをせず、話を続けた。


「じゃあ将棋とかは?」

「…ルールと手筋程度なら知っています」

「じゃあ…その…指しませんか?」


 …その言葉が誘いだと気付くのには時間が掛かった。


「…いいですよ。下手くそですけど」


 私が初めて同年代と遊ぶ事を始めた時だった。


ーー


 ボードゲームの類いがどんどん増えていく。オセロだったりチェッカーだったり。麻雀もそれなりに出来るようになってきた。

 そして…晴れがこの2週間は続いている。今日も快晴だ。

 私は明日が来ることを望むようになっていた。のに…。


「唯花さん…俺、明日退院します」


 付けっぱなしのテレビは、晴れのち曇り、と伝えていた。


「そうですか…」


 いつかはそうなることだった。分かっていることだった。だから…悲しくなんて無い。

 病院は馴れ合いをするための場所じゃない。病気を、怪我を、直すためだけの場所だ。

 そして去る者に言うべき言葉は決まっている。


「おめでとう御座います」

「…その言葉は返せますか?」


 彼の言葉に…胸がずきりと反応する。この感情がなんなのか分からない。


「いえ、多分無理ですね。でも、不安とかじゃないですよ。もう二度とここに来ないといいですね」


 話をすり替えるように…なんと思ってないから。別に死んでもいいから。


「…はい…」

「最後に将棋でもしませんか?」

「…わかりました」


 彼はきっと私を忘れて、生きていくんだろう。それでいい。


ー数ヶ月後ー


 ここ最近、梅雨も明けて八月に入ったのに、雨は止まない。異例の雨の続く日だ。ニュースでは稲作がどうの、洪水がどうの、花火大会がどうの…と騒いでいた。

 窓ガラスが泣いている。私の口は勝手に動く。


「ねぇ…なんで泣いてるの?」


 胸が苦しい。穴が開けられたような感覚に陥る。これがどんな感情なのかは分からない。

 泣くというのはなんなのか…分からない。どんなときに人は泣くのか、分からない。


 彼は私の心の中に中途半端に埋まって消えていった。

 私の心には彼の型が中途半端に残っている。


 毎年聞こえる蝉の声が今日は聞こえない。看護師さんが面会を告げた。お母さん…では無いと思う。働いているはずだ。

 だれだろう…?

 ベットを仕切るカーテンが開かれる。顔を覗かせたのは…彼だった。

 雨音が小さくなる。


「久しぶりですね。きちゃいました」

「え?」

「…あ…ですよね。いきなり来て気持ち悪いですよね。帰ります…」


 なんとか彼を引き留めることが出来た。


「あのっ…その…」


 言葉詰まることは初めてだ。なんでか、私の、無駄な知識を溜め込みすぎた頭は、初めて言葉を探すと言う事を始めた。


「…ありがとうございます…嬉しいです…」


 私の顔が歪んだ。やめようと思っても歪み続ける。彼は私を見て目を見開いていた。きっと気持ち悪い顔をしているんだろう。

 早く止めたい。彼に気味悪いと思って欲しくない…。


「…笑うんですね」


 だけど、彼はそう言った。そして…私は知る。これが、笑うことなんだと。


ーー


「それで…何しに来たんですか?」

「…えっと…遊びに?」


 そして彼はリュックから大型タブレットを取り出した。CMで見たことがある新型機種だ。


「それ、どうしたんですか?」


 彼はいつか、それが欲しいと言っていたのを覚えている。


「えっと…期末試験でTOP50に入ったら買ってやるって言われて」

「そうなんですか。おめでとう御座います」

「ありがとうございます…で、何します?」


 彼がタブレットを操作して私に見せてきた。これがアプリと言うものか。

 一面はボードゲームの類いで埋められていた。私の知らない物も多くある。


「…じゃあ…将棋で…お願いします。でも…時間とか大丈夫ですか?」

「あ、時間制限なら大丈夫ですよ。そういう機能付きのアプリを選んだので」

「違います。ほら…夏休みは宿題という物がでるんじゃないんですか?」

「あぁ、それなら大丈夫です。七月の間に全部終えました。いや、自由研究と読書感想文に関しては退院後すぐ終わらせました」

「そうなんですか」


 無表情のまま私は言う。でも、心の中は跳ねていた。


「じゃあ…よろしくお願いします」


 ブランクはかなり大きかったようだ。


ーー


 八月の間は、ずっときてくれていた。八月三十一日、そのひまで毎日。


「…毎日来てくれましたね」

「はい。あ…邪魔でした?」

「いえ…でもお友達とかと遊んだりとか…」


 胸が前みたいにズキリと痛む。八月に入って晴れ続きだったが、今日は曇天だった。


「…友達とは…」


 そして彼は凄く言いにくそうに、言うのを何度も躊躇って、結局言った。同時に私のキングにチェックをかける。


「遊んでますよ。毎日」

「そうなんですか?でも面会が出来る昼以降六時ぐらいまで…」

「えぇ、その間に遊んでますよ」


 私の受ける手は滑って、悪手となってしまった。


「あ…」

「あ、ミスタップですよね。待ったするんで…」


 彼はミスタップをしたときのように『待った』の機能を使おうとする。


「…今…」

「…ですよね。ごめんなさい、勝手に友達面とか…」


 この一ヶ月で気付いたことがある。彼はかなりのネガティブ思考だ。


「違います…」


 『笑み』が顔から溢れる。溢れ続ける。


「あのね、私を友達って言ってくれて嬉しかったんです」


 俺は…彼女の笑みをぼんやりと見つめることしか出来なかった。


ーー


 彼は週に数回来てくれた。彼が来ない日は晴れ、彼が来た日の翌日は曇りだった。

 お母さんは彼と入れ替わるように数日に一回顔を出すようになった。忙しいのだろう。


 そして…毎日が早く過ぎていって…冬になる。クリスマスイブ。病院でパーティーがあるが、私はいつも読書をする。

 クリスマスはキリストが生まれた日らしいけど、その数日後に他の宗教の行事である初詣をする人たちが滑稽に見える。


 でも…今年は違った。昔隣にいたおばあさんに編み物を教えてもらったのを覚えている。それを…少しやってみたくなった。

 なんでも、クリスマスはプレゼントを交換する行事でもあるらしい。なら…いつも来てくれてるから、渡したいなって思った。

 だから私は今日も編む。


 マフラーだ。隅っこの方に「修斗」と刺繍をしたら仕上がる。もう消灯時間だけど、あと刺繍だけだからと無理を言ったら苦笑しながら許してくれた。

 「恋する乙女」と聞こえた。きっと誰かが恋人のために何かしているのだろう。看護士さんは恋バナが好きらしい。


 明日はクリスマスイブだから彼は来ない。家族とクリスマスを祝うだろうから。

 きっと一月末までには来てくれるだろうから、そのときに渡そう。


「よし…完成…」


 渡す瞬間を想像したら…何故か鼓動が速くなってきた。


ー明後日ー


「メリークリスマス」

「え?」


 カーテンが開いた。彼がいる。


「あ…ごめんなさい…サプライズをしたいっていったら…好きに入っていいって言われたから…」

「いや…その…め、メリークリスマス…です。ご、ご家族とパーティーは?」

「両親は共働きです。これ…どうぞ」


 そして彼が取り出したのは緑と赤で装飾された箱だ。…クリスマスプレゼント…?

 慌てて横の机を取り出してベットに装着する。そのとき手伝ってくれた彼の手が一瞬触れて、ドキッとした。


「…あ、ありがとうございます…」

「はい。その…気に入ってもらえると嬉しいんですけど…」


 包み紙を丁寧に剥がす。私は彼の前では独り言を消す。

 今だってそうだ。なんでどうせ剥がすのに包装するのか?なんて呟かない。


「これは…」


 かなり大きめのそれは…アロマオイル?


「服とかはいらないだろうし…本は被ってたらイヤだしと思って…無難な物に逃げました」

「…カモミール?」

「はい。どこかの小説で見たので。セットしましょうか?」

「あ…自分で…」


 箱を開けて中から機械を取り出す。コンセント…どこだっけ?


「あ、やります。そのままでいいですよ」


 コンセントプラグを持ってキョロキョロしていたら彼が設置を始めた。

 …設置している彼の背中を見て自分が恨めしい。自分では何も出来ない。


「じゃあスイッチ入れますね」


 そして彼はオイルとウォーターサーバーから取ってきた水を注ぎ、スイッチを入れた。

 同時に機械がオレンジに光る。低く小さな音が響きだした。


「そのうちスチームが出ると思いますよ」


 彼は慣れたように来客用の椅子に座る。なんで彼はここまでしてくれるのか。そんなふうに思っても絶対に言わない。

 もしそれで彼が、私と関わっても意味が無いと気付いてしまったら…イヤだから。


「ありがとう…ございます…あの…あ、なんでもないです…」


 扉付きの棚の中に保管しているマフラーに手を伸ばしかけて…やめた。彼のくれた物に比べたら私が渡せる物はない。


「?そうですか。じゃあいいですけど…今日は何します?」


 俺にプレゼントはないのか?みたいな事を聞いて。渡すのは俺だけ?とか、何をしたかったの?って聞いて。


 そう願う。あと一押し欲しい。それなのに、彼はタブレットを取り出して机の上にのせただけだ。


「じゃあ…将棋を…」


 外は…何年かぶりの雪が降っていた。ふわふわと舞っている雪はどんな感触なんだろう…。


ーー


「じゃあそろそろ…」

「そうですね…」


 普通来てくれるだけで嬉しいのに、ありがたいのに、もう・・帰ってしまうの?と思ってしまう。私はクズだ。


 マフラーの渡し方が分からない。どうしよう…包装もしていないし…正月とかでも…。

 そうこうしている間に彼は身支度を調えてしまう。


「じゃあ、また正月明けに来ますね」

「あ…はい…」


 彼は必ず次も来ることを約束する。それが…嬉しかったりする。

 でも、時々私は思ってしまう。『もう…帰ってしまうの?』と。

 全然『もう』なんて明るさじゃないしどころか面会に来てくれるだけでありがたい。

 のに、そう思ってしまう私は私が嫌いだ。


「じゃあさようなら」

「はい…さようなら…」


 部屋は彼のプレゼントの匂いが充満していた。花に匂いがあることを知ったとは到底言えない。


「あら、萩原君マフラー付けないの?」


 何度も来ている内に看護士さんと顔なじみになった彼。『マフラー』という単語に身体が跳ねる。


「マフラー、ですか?」

「えぇ、唯花ちゃんからもらってない?」

「えっと…それ、別の人の為のプレゼントだと思いますよ」

「いやいや、だってマフラーの端に貴方の名前の刺繍があったわよ?」

「俺の?」


 なんで知ってるの!見せた記憶はない…マフラーの作り方の本を持ってきてとは言ったけど!マフラーの刺繍なんて見せてない…。


「そ、まぁ入って入って」


 彼が戻ってくる気配がして、私は咄嗟に布団に潜った。

 この感情がなんなのか、私は分からない。でも『症状は恥ずかしい』に似てる。


「…寝ちゃってま…」

「唯花ちゃん。寝たふりはよくないわよ。さ、マフラーはどこかな~?」


 布団を剥がれる。この看護士さんは苦手だ。ぐいぐいくる。


「…」


 彼と目が合う。気まずそうに彼が笑って、胸が飛び出るかと思った。それぐらい強く、跳ねた。


「だんまりしてちゃ分からないでしょ。めっ、せめて自分の手で渡しなさい」


 私は戸棚を開けて、マフラーの入った紙袋を取り出す。看護士さんはにしし…と笑った。


「…その…クリスマス…プレゼントです…」


 彼を直視できない。そっぽを向くことしか出来なかった。


「っ…あ、ありがとうございます…」


 彼の手が触れる。何故か私の心臓はさっきみたいに強く跳ねた。


「…すっげぇ…上手ですね…」

「じゃ、唯花ちゃんがマフラー巻いてあげなさい」

「え?」

「へ?え、いや、いやいやいや。それは…」


 顔を真っ赤に染めて拒否しようとする彼。だが、看護士さんは無理矢理マフラーを私に持たせ、彼を私の横に座らせた。


「じゃ、巻いてあげなさいよ。メリークリスマス~」


 そして部屋にはアロマの蒸気の音がよく響いた。


「そ、その…別にいいですよ、自分でつけれますんで」

「…」


 そうしたい。私がつけてあげるなんて…そう思っている。正常な私はそう思っている。

 だけど…このマフラーを離したくなかった。


「唯花さん?」

「…ゃだ…」

「へ?」

「やだ…私が…つけます…」


 駄目だ。もう駄目だ。私は…私のこの感情に気付いてしまう。

 でももう、止められない。


「え…」


 彼の首に手を回し、何故か看護士さんが一緒に持ってきてくれたマフラーの巻き方の本の通りに巻く。

 彼の熱を、匂いを、鼓動を、感じる。私の息が、彼の首筋をくすぐった。巻き終わる、と同時に、いつか見た小説を思い出した。


「あったかい?」


 …感情のたがが外れた。押さえつけていた、全てが外れた。


「…っ…はい…」

「よかった…じゃあ、またね」

「はいっ…さよ…」

「またね…がいい」


 何をやっているんだろうか。他人の彼に何を言っているんだ。

 私の中の最後の理性を保った私が叫ぶ。


「…ま、またね…」

「うん…」


 彼が今度こそ、私の病室から去った。

 分かっている。全部。これは…恋だ。


ーー


 あほくさいストーリーも、子供じみた恋愛小説も、頭がオカシイとしか思えないこの…格好付けた主人公の台詞も、私は侮れない。

 侮れなくなってしまった。

 だって私は…恋をして、彼がこうしてくるだけで胸が跳ねて快晴になって、来なかった日は寂しくて曇り空。


 そんな事をしている間に彼と出会ってから一年が過ぎた。

 誕生日を祝い、祝われ、病室の窓から公園の桜を眺めていたら花見に誘われて何年かぶりに病院から出て…私の今ままでの十数年はなんだったのか。

 この一年は私の人生のほとんど全部を占めていた。


「最近唯花のお陰で成績が伸びたんで…だよ。大学受験もこのままなら推薦を取れるって言われまし…たんだ」

「え…?」

「…あ、ごめんなさ…ごめん。間違えて呼び捨てに…しちゃったよ」

「もっかい、もっかい呼んで」


 そして私は我が儘になった。そしてすぐ彼になにかを要求するようになった。

 つい二日前だが、彼には丁寧語を止めてもらったこともそうだ。


 当然何かしてもらうだけはいやだったから私はインターネットで出来る簡単なアルバイトを始めて、貯金している。


 口座の名義は死んでも言えない。でも言ったら死ぬ。

 誰にも、口座名義が『萩原唯花』なんて言えない。


「…唯花」

「うん…修斗、その手でホントにいいの?」

「っ…、ごめん待った…」


 将棋の盤面は彼の今の悪手で私に形勢が傾いた。

 彼がなんでこんな悪手を指したのか、今の私になら分かることが出来る。私に恥ずかしがっているのだ、と。


ーー


 お母さんが再婚した。紹介された人は職場の上司らしい。親身に相談に乗ってもらってる内に好きになっただのなんだの。

 色ボケが、と思っても言えない。だって私が彼との色にボケているから。


 あと私の病室は少しグレードアップした。


 心残りは…無くなった。でもそれは…昔からの、心残りだ。

 逆に、その何倍も何十倍も何百万倍も、大きな心残りが出来た。


 彼と出会って何年も経つ。外に出るのは車椅子じゃないと危険だと言われるようになった。今年で十八歳。

 医師にはもってあと数ヶ月と言われた。それから一ヶ月、梅雨でもないのに雨が降り続けている。


 彼と会う前までは、何時死んだっていいって思ってた。でも…彼と出会って…シニタクナイって…願ってしまった。

 それは叶わない。


 だから…いままでの事が無かったことになればいいのに。全部全部。

 でも、無かったことになったら、私はこの人生で何をしたというのだろうか…。

 生きたい、でも悲しくなりたくないから死にたい。

 馬鹿みたいな狂った思考回路が生まれる。




 面会にはもう彼ぐらいしか来なくなった。お母さんは全然来ない。


「はは…私、馬鹿だな」


 彼は絶え間なく来て、日に日に衰弱している私の手を握った。


「…唯花、今日はね…」


 分かっている。彼はきっと私に好意を抱いている。でも私はもうすぐ死ぬ。彼もそれは分かっている。

 私は死に際にも、死んだ後も人に迷惑を掛ける存在になりそうだ。

 せめて、彼だけには迷惑を掛けたくない。

 そして頭の狂った思考回路と、繋がった。


「…嫌い」

「ん?」

「嫌い。修斗なんて嫌い」

「え?」

「嫌いっ、嫌い嫌い嫌い!出てって!」


 私はクズな人間だ。だから私のことを嫌いになって。嫌って。


「…唯花」

「嫌いだからっ」


 情緒不安定な女だな…心の冷えた部分がそう言ってる。私に感情なんて無い。思いなんてない。そう叫んでる。

 それをどんなに肯定したくても、肯定しても…窓ガラスを雨が強く、叩き始めた。


「…っ」


 彼の顔が歪む。そう、このまま…嫌って。

 嫌って…愛して…。もっと…嫌って。


 愛して。もう私には彼しかいな…嫌って。

 嫌って、彼が悲しむなんてイヤ…愛して。


 もう頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。何を言っているのかも覚えていない。

 でも、彼の苦しそうな顔が見えた次の瞬間、冷めた声が聞こえた。


「てめぇの事なんざ好きでも何でもねぇよこのクソ尼野郎。あ"?嫌いだよてめぇなんか。

 だから安心してさっさと死にやがれ」


 その声を聞いて…私は…ベットに倒れ込んだ。

 もう…安心だ…。


 そこからは…数分間意識がなかった気がする。気がついて、窓の外を見たら、彼の黒い傘が見えた。窓に幾本もの雨が伝う。

 私は窓を開ける。雨が吹き込んでくる。


 彼がこちらを振り向いた。目が合う。

 初めての涙は…もう雨と混ざって消えた。涙は雨となって落ちる。


 彼の口がはっきりと、見せるように動いた。声は聞こえない。でも、伝わった。

 たった五文字。


 彼はその後、傘を乱暴に畳んで走り出した。

 もう二度と、彼は来なかった。私が最後に目を閉じる瞬間までは。











「アイシテル」




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