第273話 静寂
雨宮さんが、俺の腕の中に倒れ込んだ。
雨宮さんの顔は火照っていて、抱いている腕や背中が熱い。
苦しそうに、細切れに激しく息をする雨宮さん。
「雨宮さん! 雨宮さん!」
俺は雨宮さんを抱きながら呼びかけた。
異変に気付いて、教室にいるクラスメート全員が俺と雨宮さんの周りに集まってくる。
「熱い!」
雨宮さんのおでこに手をかざした女子がびっくりして、反射的に手を引っ込めた。
「すぐに、保健室!」
委員長の吉岡さんが指示を出す。
雨宮さんは、保健委員と数人の女子が手を貸して、すぐに保健室に運ばれていった。
突然のことに、教室はざわざわしている。
数人ずつ集まって、どうしようどうしようって、悲鳴のような声を上げていた。
野獣役のメイクを終えた俺も、どうしたらいいのか立ちすくんでいる。
凶暴なメイクをしてるくせに足がガタガタ震えていた。
しばらくして、雨宮さんを保健室に連れて行った女子の一人が戻ってくる。
委員長をはじめ、クラスメート全員がその女子に駆け寄った。
「雨宮さん、暑い中であちこち飛び回って頑張ってたから、熱中症の寸前だったみたい。病院に行くほどじゃないけど、しばらく、保健室で安静にしてないといけないってことだった」
その女子が報告する。
「そう…………うん、分かった。ご苦労様」
委員長がそう言ったきり、教室内ではしばらく沈黙が続いた。
さっきまでのざわめきがぴたりと収まる。
広い教室で、壁に掛かっている時計の針の音が聞こえるくらい静かになった。
みんな途方に暮れている。
雨宮さんはクラスの中心人物で、いつも教室をを盛り上げてくれていた一人だから、まるで太陽を失ったみたいになった。
「雨宮さん、メイクしてるときから熱くて、肩で息してるみたいだったんだけど、大丈夫だからって言ってて…………無理してて…………」
沈黙を破って、雨宮さんのメイクを手伝っていた女子がぽつりと言う。
「彼女、責任感が強いから……」
雨宮さん、そんなに体調が悪かったのに、倒れる直前まで俺のことを気遣ってくれていた。
緊張してる俺をリラックスさせようと話し掛けてくれた。
公演頑張ろうって、笑顔さえ見せてくれた。
俺の腕の中に倒れ込んだ時の、細い肩の感触が、まだ両手に残っている。
「ヒロインがいないんじゃ、公演は中止にするしかないよね」
クラスメートの一人が言った。
ここにいる誰もがそう思ってるに違いない。
雨宮さんは、ヒロインっていうか、この演劇の主役だった。
主役でありながら何もできない情けない俺に代わって、この演劇を引っ張ってくれていたのだ。
その雨宮さんがいないってなったら、やっぱり、公演中止にするしかないと思う。
出演者としてだけじゃなくて、裏方も含めてこの公演をまとめていた人物としても最重要人物の一人だった。
雨宮さん抜きでは、到底、上演出来ない。
「でも、ここまで準備してきて悔しいじゃない。代役を立ててなんとか、予定通り出来ないかな」
委員長が言った。
委員長は心底悔しそうだった。
ここまでずっとこの公演を成功させるために掛かりきりだったのだ。
雨宮さんと両輪で頑張っていた。
それに、うちのクラスの公演が中止になったら、盛り上がってる文化祭の、一番大きな舞台に穴を開けてしまうことになる。
この盛り上がりに水を差してしまう。
責任者として、委員長には学校全体に申し訳ないって気持ちもあるんだろう。
「代役って言ってもなぁ…………」
誰かが投げやり気味に言った。
「雨宮さんは一番台詞が多いし、それを全部覚えてて、演技もできる人ってこの中にいる? 誰か、出来る?」
一人のクラスメートが訊くと、そこにいるクラスの女子全員が首を振った。
無理無理って、みんな目を逸らす。
自分から代役に立候補しようなんていう人物はいなかった。
うちのクラスで、演劇の台詞を全部覚えてて、なおかつ演技もできる人物。
そんな人物は、どこにもいない。
そんな人物は、どこにもいない。
そんな人物は…………
いや!
俺には一人だけ思い当たる人物がいた。
その彼女なら、この公演の台詞を全部覚えてるし、演技もできる。
なぜなら彼女は、俺の一人稽古にずっと付き合ってくれた相手だから。
ずっと付き合ってもらって、彼女の台詞が完璧なことも、演技が上手いことも知っている。
そう、雨宮さんに代われるとしたら、それは、文香しかいない。
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