第189話 ご褒美

 ツンツン、って、誰かが俺の肩を突っついた。

 眠りにつこうとしていた意識を戻して目を開けると、隣に寝ていた伊織さんが、うつ伏せのまま上半身を起こしている。

 そして、暗闇の中でシーって口の前に指を立てた。


「ね、しよう……」

 すると、伊織さんの口が息を殺して言う。


「ここでしよう……」

 微かな声だけど、確かにそう聞こえた。


 たぶん、俺の聞き間違いだとは思う。


「ねぇ、しよう」

 だけど、伊織さんは確かにそう繰り返した。

 月明かりの僅かな光の下で、伊織さんの口がそう動いたのが見える。


「で、でも……」


 伊織さん、いきなり何言い出すんだ。

 大胆にもほどがありすぎる。


「でも、近くにみんなもいるし……起きちゃうし……」

 俺も息を殺して答えた。

 近くにみんなもいるし、って答えてはみたけど、それじゃあ近くにいなかったらするのかと聞かれたら、たとえ二人っきりだったとしても俺は戸惑ったと思う。

 石のように固まって動けなくなるか、その場から逃げ出したかもしれない。


「大丈夫だよ。ほら、こうやって布団を被れば見えないし」

 伊織さんはそう言ったと思ったら、自分の掛け布団を俺の頭に被せた。

 今、俺と伊織さんは一つの布団を被って、その中で肩をぴったりとつけて並んでいる。

 布団の中は伊織さんのシャンプーの匂いでいっぱいになった。

 レモンと桃が混じったような、フルーティーな匂いがする。


「いくら見えないって言っても、みんなすぐ隣で寝てるし……」


「みんなを起こさないように静かにすれば大丈夫」


 どんなに静かにしたって、動いたら誰かがその気配を感じると思う。


「布団の中、真っ暗でなにも見えないっていうか……」

 俺は、しない理由をどんどん上げた。


「こうすれば大丈夫でしょ?」

 伊織さんはそう言って自分のスマートフォンのライトのアプリをつけた。

 二人で被った布団の中がほんのりと明るくなる。

 伊織さんの美しすぎる顔が見えるようになって、余計にドキドキが増した。


 っていうか、今にも心臓が飛び出しそう。


「でも、俺、準備ができてないっていうか…………」

 心も体も、全ての準備ができていない。


「だから準備をするんじゃない。私が教えてあげる」

 伊織さんはそう言って微笑んだ。


 教えてあげるって、そんな…………


 ん?

 ちょっと待て、ってことは、伊織さんには経験があるってことで、それって…………


 俺の頭の中で変な想像がぐるぐる回る。


「教えてあげる」

 伊織さんが繰り返した。


「それじゃあ、お願いします」

 もう、こうなったら俺も覚悟を決めるしかない。

 ここまできたら、愚鈍ぐどんな俺も覚悟を決めた。


 こういうのは、火中に栗を拾いに行くっていうんだっけ?

 それとも、飛んで火に入る夏の虫、かな?



「じゃあ、教科書開いて?」

 伊織さんが言った。


「へっ?」


「ほら、テスト勉強の続きしよ。テスト範囲の最後までもう少しだったし、ここでやっちゃお」

 伊織さんが言う。




 ああ…………



 生まれて、すみません。


 盛大な勘違いをしてた俺をぶん殴りたい。


 俺は、なんて汚れた心の持ち主なんだろう。

 俺が血気盛んな男子高校生ってことを差し引いても、なんて想像をしてたんだろう。

 なんて下劣な想像をしてたんだろう。


 伊織さんは、天使のような心で、俺のために一生懸命勉強を教えてくれようとしてたのだ。

 最後までそれをやり遂げようとしたのだ。

 それを、あんなふうに勘違いするなんて…………



「でも、伊織さんはいいの?」

 俺は訊いた。


 伊織さん、俺なんかに付き合って起きてて大丈夫だろうか?

 もし寝不足で伊織さんの成績が落ちたりしたら大変だ。

 伊織さんが学年一位から陥落、なんて事態は、俺が赤点取るのよりよほど大事なのだ。

 学校中、いや、この地域中のニュースになる。


「大丈夫。私、いつもテスト前は徹夜するし、こうして人に教えると、自分の理解も深まるんだよね」

 伊織さんはそんなふうに言ってくれる(伊織さんがテスト前に徹夜してたっていうのは初耳だった。伊織さん、努力の人だったのか)。



「それじゃあ、お願いします」

 俺は伊織さんに頭を下げた。


「うん、頑張ろう」

 伊織さんは満面の笑顔をくれる。


 俺は、みんなを起こさないように静かに布団を抜けると、教科書とノート、筆記用具を持って布団に戻った。


 二人でもう一度布団を被る。


 ノートと教科書は俺と伊織さんの二人のスマートフォンで照らして、なんとか灯りを確保した。

 灯りの範囲が狭いから、お互いが余計にくっつくことになって、俺の米噛みと伊織さんの米噛みがくっついた。


 布団を被って汗ばんだ伊織さんの肌の感触を感じる。

 たぶん、伊織さんにの方には俺の速すぎる心臓の鼓動が伝わってると思う。



 そうして二人、布団の中で静かに勉強をした。

 俺は、邪念を追い払って勉強に集中する。



 こんなふうにしてると、修学旅行の夜とか、林間学校でキャンプをしたときのことを思い出した。

 その時の俺は、布団の中で友達とクラスでどの女子が好きか、とか、話してたけど、今はこうして伊織さんと二人勉強している。

 小学生の俺に、学校一のヒロインと同じ布団にいるんだぞ、って自慢してやりたい。


 まあ、未だに彼女いない歴=年齢で、小学生の俺に馬鹿にされるかもしれないけど。



 結局、テスト範囲の勉強を終えたのは、午前三時を回った頃だった。

 モバイルバッテリーを繋いでライトをつけっぱなしにしてたスマートフォンが、熱々になっている。


「さあ、これで準備万端だね。テスト、頑張って」

 伊織さんが言った。


「うん、頑張る」

 いつになく、やる気がみなぎっている。

 テスト前にこんなに前向きな気持ちだったのは、小学校から今までで初めてだ。


「こんなに遅くまで付き合ってくれて、ありがとうございました」

 俺はそう言って頭を下げようとした。

 ところが、二人くっついてたから、その動作で俺の口の辺りが伊織さんの頬をかすめる。


 俺の唇の先が、伊織さんのほっぺたをかすったかもしれない。


「ごめん!」

 俺は慌てて謝った。


「ううん」

 伊織さんが首を振る。


「ご褒美もらっちゃった」

 伊織さんが言う。


 え、それって、どういう意味ですか?

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