第188話 一夜漬け

 静かな夜に、カリカリとシャープペンの先がノートの上を滑る微かな音だけが響いている。



 俺達、文化祭実行委員会のメンバーは、部室の居間で勉強会の最中だ。

 文化祭の準備は一時中断して、明日から始まる期末テストのテスト勉強をしていた。

 みんなでちゃぶ台を囲んでいて、俺の左隣には伊織さん、そして右隣には月島さんが座っている。

 俺の対面には六角屋がいて、六角屋は今日子と南牟礼さんに挟まれていた。


 なぜ、俺の隣が伊織さんと月島さんなのかというと、それはもちろん、出来の悪い俺が二人から勉強を教えてもらうためだ。

 学年一の成績の伊織さんと、教師(その正体は天才科学者)っていう、俺が期末テストで赤点を取らないための鉄壁のシフトなのだ。



「ほら、そこ、また違ってる」

 月島さんに注意された。


「小仙波君、同じミスを何度もするのはダメだよ」

 伊織さんにも言われる。


「は、はいぃ……」

 俺はか細い声で答えた。


 こんなふうに、さっきから俺は二人に注意されてばかりいる。

 その度に南牟礼さんがクスクス笑うし、今日子から冷たい目で見られた。

 六角屋がヤレヤレって顔をしている。


 確かに、俺はあまり勉強が出来ない。

 間違ってばかりいた。

 でも、その原因は両脇の二人にもあると思う。

 二人が俺のノートを覗き込んでるから距離が近いのだ。

 二人の髪が俺の頬をくすぐるし、いい匂いがするし、俺の二の腕には二人の柔らかいものが当たってのだ。


 しかも、二人ともネグリジェだし。


 男子高校生としては、それが気になって集中を削がれる。

 その意味では、この完璧と思われたシフトは間違いなのかもしれない。

 これがテスト勉強なんかじゃなかったら、この幸せな状況がずっと続けって、お祈りしたところなんだろうけど。



 俺達が勉強してると、台所から甘辛い良い匂いが漂ってきた。


「先輩、なにしてるんですか?」

 六角屋が台所の花巻先輩に声をかけた。


「うむ、焼き豚を作っている」

 台所から先輩が答えた。


「焼き豚、ですか?」


「うむ。暑くなってきたところで、明日はさっぱりと冷やし中華にしようと考えているのだ。冷やし中華を始めるのだ。それで焼き豚を作っている」

 先輩が言いながら鍋の蓋を閉じる。


 冷やし中華を作ると言って焼き豚から作り始めるのは、さすが先輩って感心するしかない。


「先輩は勉強しなくていいんですか?」

 今度は俺が訊いた。


「うむ、しなくてよい。一回くらいテストで赤点を取っておかないと、間違って成績優秀で卒業してしまったら大変ではないか」

 先輩からそんな答えが返ってくる。


 やっぱり、俺と先輩では見ている世界が違うんだと思った。


「まあ、こうして長年女子高生をやっていると、定期テストの傾向も全て予想出来るし、各教員の出題のくせも知っている。テスト問題も完全に予想できるのだ。私が本気を出したら、満点を取ってしまうのだがな」

 先輩がそう言って高笑いする声が居間まで響いてくる。


 この人は底が知れない。

 三年になったら先輩にテスト問題教えてもらおうって、心に書き留めておく。



 居間から縁側を隔てた中庭では、文香がじっとたたずんでいた。


「いいなぁ。文香先輩は勉強しなくても、高校のテストくらい全問正解しちゃうんでしょ?」

 南牟礼さんが訊いた。


「うん、まあそうだけど、みんなと同じ気持ちを味わうために、私も勉強してるよ」

 中庭から文香が答える。


「先輩はなに勉強してるんですか?」

 南牟礼さんが重ねて訊いた。


「うん、『ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題』について考えてるの。もうちょっとで証明できそうなんだけど」

 文香が言う。

 「ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題」っていうのは、数学のミレニアム懸賞金問題らしい。

 俺なんか、そのミレニアム懸賞問題さえなんのことか分からない。


 まったく、こっちはこっちで俺とは次元が違うのだ。




 こんなふうにみんなで勉強していて、日付が変わった。


「よし、そろそろ寝るとしようか。あきらめも肝心かんじんである」

 先輩がパンパンと手を叩いた。


「眠気を我慢しながらテストに当たるより、たっぷり寝てすっきりした状態で当たる方がよかろう」

 そう言うと先輩、布団を敷き始める。


「テスト範囲全部終わらなかったねぇ」

 月島さんがため息混じりに言った。


「もうちょっとだったのにね」

 伊織さんも言う。


 ホント、出来の悪い生徒ですみません…………


 先輩に追い立てられて、仕方なく教科書やノートを仕舞ってちゃぶ台を片付けた。

 歯を磨いて、今日もみんなで雑魚寝することになる。


「さあ、消灯するぞ」

 先輩が電気を消した。


 まあ、こうなったらジタバタしても始まらない。

 勉強できなかった範囲がテストに出ないことを祈るだけだ。

 俺はそう考えて頭を枕に沈めた。


 そうして、うとうとしかけて半時くらいたっただろうか。


 ツンツン、って、誰かに肩をつつかれた。

 目を開けると、隣に寝ていた伊織さんがうつ伏せのまま上半身を起こしている。

 そして、シーって口の前に指を立てるのが暗闇の中に見えた。


 伊織さん、どうしたんだろう?


「ね、しよう……」

 すると、伊織さんの口が息を殺してそう言ったように見えた。


「ここでしよう……」

 伊織さんの口がそう言う。


 たぶん、聞き間違いだとは思うけど。

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