終焉編9話 暴虐猪VS人喰い熊
※ブリスボア・サイド
ブリスボア・コルボーン男爵は己の本名を知らない。コルボーンは廃嫡された貴族の姓で、ブリスボアは主君から与えられた愛称だった。
記憶があるのは、無数の死体が転がる森で目覚めた時から。自分が殺したと思われる死体の山から金目の物を漁るところから、ブリスボアの成り上がりは始まった。
どこで身に付けた技かはわからない。だが彼には強さがあった。いや、強さしかなかった。記憶を失った猪が荒野の無法者にならなかったのは、最初に訪れた街で兵士募集の貼り紙が目に入ったからに過ぎない。僻地での兵士募集は血腥く、合格すれば賞金を得て公的身分が保障され、失格すれば死か追放。娯楽に乏しい辺境の地における剣闘士のようなものである。
選抜テストという名の殺し合いに勝利したブリスボアは、晴れて機構軍伍長となった。記憶を失った男は"ジョン・スミス"という適当な名で軍に登録されたが、同僚からは"ワイルドボア"と呼ばれた。大盾をかざして突進する姿は野生の猪を彷彿させ、右手の曲刀は血塗れた牙そのものだった。
矢弾をものともせずにシールドチャージで距離を詰め、串刺しにした敵兵を空高く放り投げる凄まじい膂力。ワイルドボアの戦い振りはすぐに熱風公の目に留まり、麾下に招かれ厚遇される。若き当主から攻勢戦術の手ほどきを受けた猛猪は、指揮官としても名を馳せるようになった。
出世を重ね、大佐の地位と男爵号を下賜された猪は、ブリスボア・コルボーン卿として戦地に立つ。しかし、彼には二つ不満があった。一つは敬愛する主君と共に戦えない事、もう一つは戦域指揮官がこの上なくいけ好かない男だった事だ……
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「カイル!戦線を押し上げるぞ!いいな!」
攻勢第二波を退けたブリスボアは野戦陣地の通信機に向かって怒鳴ったが、返ってきたのは冷ややかな声だった。
「カイル
ブリスボアは忍耐を強いられていたが、カイルも我慢していた。放言が許されるなら"成り上がりの男爵風情が身の程を弁えろ!"と付け加えたかったのだ。
「黙れ!今が好機なのだ!それがわからんのか!」
この点はブリスボアの言う通りだった。退却する同盟軍の足並みは乱れ、追撃をかければ有効打になる。手負いの獲物を見逃すのは、暴虐男爵にとって歯痒いにも程があった。
「男爵、目先ではなく大局を見たまえよ。間もなくアギト師団が側面を突く。僕達が戦線を押し上げる必要はない。」
この点はカイルの言う通りだった。横擊が成功すれば連邦軍は正面と側面に対処せねばならず、戦局はさらに優位になる。カイルは連邦軍とアギト師団が噛み合い、盛大に消耗するまでは堅守に徹するつもりだった。最後の最後に美味しいところをかっ攫えば、殊勲はカイル師団のもので、アギト師団には貸しを作れる。
三度目の波状攻撃を退けたところで横擊は成功し、同盟軍は後退を開始した。千載一遇の好機と見たブリスボアは守備陣形を攻撃陣形に切り替える。通信機を手に取ったブリスボアはカイルに最後通牒を突き付けた。
「カイル!ブリスボア師団を前進させるぞ!」
「ダメだ!まだ早い!アギト師団は接敵したところだ!」
「フン!貴様の狙いなど見え透いておるわ!嚙み合わせての漁夫の利狙い、そうであろうが!」
「わかっているなら命令に従え!これは王命だぞ!」
ここでブリスボアの忍耐は枯渇した。カイル師団には相応の被害が出ており、放棄された陣地もあったが、ブリスボア師団は全ての陣地を維持出来ている。つまり、戦術力においてブリスボア・コルボーンは根なし草のカイルより上なのだ。結果が全ての実証主義者ブリスボアは、国王ネヴィルは人選を誤ったのだと確信した。
「何が王命だ、馬鹿!根なし草の色白が利いた風な事をほざくな!ネヴィルも貴様も腰抜けだ!」
元々、ブリスボアの忠誠の対象はロードリック公ロドニーであり、自分を処刑しようとしたロッキンダム王ネヴィルの事は軽んじていた。況んや、"寝返り者の貴人かぶれ"など論外である。
「師団前進!!敵軍をブチ抜くぞ!!腰抜け師団の弱兵どもに意気地があるなら我らに続け!!」
「待て!!勝手な真似は許さない!」
通信機を叩き壊したブリスボアは陣頭に立ち、進軍を開始した。戦術の師である熱風公と同じで、ブリスボアも攻勢戦術に秀でている。正面突破を試みたブリスボア師団の勢いに押され、連邦軍は逃げ惑った。
「フハハ、見たか!我が前進を阻める者などおらん!」
勝ち馬に乗ろうと、いくつかのカイル師団所属部隊が動き始めた時に異変は起こった。狙いすました艦砲射撃によってブリスボア師団は怯み、蹴散らされたかに見えた連邦軍は左右に展開し陣形を整えている。ブリスボア師団はおびき寄せられたのだ。連邦軍軍監・天掛カナタは、戦国時代に島津義久が用いたとされる"釣り野伏"に酷似した偽装退却戦法を用いたのである。
「小癪な!左右に厚みを持たせて反撃に備えろ!アギト師団と連携して迎撃する!……な、なにぃ!?」
左右に厚みを持たせる為にブリスボア師団が散開を終えた直後に、熊の徽章を付けた精鋭連隊がブリスボア師団本隊を急襲してきた。押し戻された連邦陣地には天幕が設営されており、彼らは棺桶大に掘られた穴を戸板と土で隠蔽し、地中に潜んでいたのだ。天幕の中に穴を掘ったのは、上空からの偵察で発見されない為である。短い冬眠を終えた熊の群れは、獲物を求めて疾走する。
「ブレイブベア連隊!オプケクルか!」
「おう!久しいのう、ブリスボア!」
挨拶代わりに振り下ろされた
「そら見た事か、低脳のイボ猪め!カイル師団、全軍後退!陣形を再構築する!」
カイルはブリスボア師団の救援ではなく自師団の再構築を選択した。命令を無視して突進したブリスボアを救出する謂われはない、が名分ではあるが、選択の根底にはリスクを取れないカイルの本質が潜んでいる。連邦軍旗艦・ソードフィッシュの艦橋で後退するカイル師団の様子を確認した天掛カナタは連邦軍本隊に前進を命じた。
「鯉沼師団、全速前進!カイルが防衛陣形を再構築する前に突破するぞ!」
カイルが漁夫の利を狙って堅守に徹する事も、ブリスボアがカイルの命令を無視して攻勢に転じる事も剣狼は読んでいた。いや、そうなるように仕向けたのだ。緻密な戦術を駆使してカイル師団の防衛陣地をいくつか陥落させたが、ブリスボア師団の防衛陣地には手加減し、波状攻撃も難なく撃退させた。自分が上だと錯覚したブリスボアの突撃を誘発する為に、損耗を覚悟で撒き餌を投じたのだ。
「……右翼に回った錦城大佐はアギト相手に苦戦してる。奇行子がヤケクソで全面攻勢に出て来たら危なかったわね。」
補助シートに座る世界最年少の参謀に、剣狼は冷淡な声で答えた。
「奴は腹を括れない。安牌がある間は絶対にな。」
作戦の成功を麻雀に例えた剣狼だったが、アギト師団の攻勢には眉を顰めた。錦城一威が率いる右翼師団は懸命に防戦に努めているが、氷狼の操る"八熾の兵法"に切り崩されつつある。
「錦城大佐が崩される前に、カイル師団を崩さなければ勝ち目はない!オレも出るぞ!」
剣狼は指揮シートから立ち上がり、出撃デッキに向かった。その背中には、日輪を背負う龍の紋章が輝いている。
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「色白め!我らを見捨てる気か!」
人喰い熊と熾烈な一騎打ちを演じる暴虐男爵に、ブリスボア師団に続いたはずの他隊が後退中との報告が入った。
「大人しゅう命令に従っておればよかったのに、余計な事をしたもんじゃのう。儂らが掘った巣穴がそこら中にあるから、好きなのを墓穴にすればええぞい。」
奇襲部隊は一個連隊だったが、後続が次々と押し寄せて来る。三個連隊を擁するブリスボア師団本隊との数の差は急速に縮まりつつあり、士気の差は雲泥だった。罠に嵌まった者と罠に嵌めた者では当然である。
「巣穴が墓穴になるのは貴様だ!人喰い熊を討ち取れば戦況は逆転する!」
牙刀がオプケクルの肩を抉ったが、ブリスボアも鉤爪付きブーツの蹴りで脇腹を抉られる。派手に出血した人喰い熊に女剣客が駆け寄って来た。
「ケクル准将、助太刀致します!」
鏡水次元流高弟、冥土ヶ原メイの申し出を人喰い熊は断った。
「無用じゃ!此奴との決着は儂一人でつける!メイ殿はレオナ殿と一緒にレラ達を助けてやってくれ。後続が合流するまでは激戦ぞい!」
「その思い上がりが命取りだ!素直に助太刀されておればよかったとあの世で後悔しろ!」
手負いの熊と猪は傷を増やしながら殺し合う。暫し逡巡した冥土ヶ原メイは、人喰い熊の命令に従った。
「准将、必ず勝ってください!」
「うむ、儂は死なん!この星の未来を見届けるまでは!」
「ほざけ!ここが貴様の死に場所だ!」
力の拮抗する熊と猪の一騎打ちは数百合にも及んだが、部隊の均衡は崩れつつあった。ブリスボアが気付いた時には周りに味方は一人もいない。倒れた熊の数を凌駕する猪の死体。勇猛を以て鳴るワイルドボア連隊は、指揮官を除いて全滅したのだ。
「……ここまでか。せめて貴様の首を手土産にあの世に行くとしよう。」
ロードリック公を"武人の鑑"として崇めるブリスボアは、降伏など考えない。敗者には死あるのみ、彼は今までそうしてきたし、自身もまたそうあるべきであった。
「その意気や良し。いざ参れ!」
「やらいでか!行くぞ!」
大上段に大鉞を掲げる人喰い熊に向かって、大盾を捨てた暴虐猪は捨て身の突撃を敢行する。
「猪の牙を喰らえぃ!!」
「さらばじゃ、ブリスボア!!」
振り下ろされた大鉞はブリスボアの鎖骨をへし割って肺まで届き、繰り出された牙刀はオプケクルの胸板に突き刺さったが……心臓までは届かなかった。鍛え上げられた大胸筋と特異体質の防弾脂肪、そして胸に抱いた未来への想いが、意地の牙を食い止めたのだ。
「……負けたか……き、貴様の手に……かかるなら……本望だ……」
ブリスボアは彼の主君と同じく、力量を認めた敵手には敬意を払う男だった。正々堂々と戦い、敗れたのだから悔いはない。
「……まっことおヌシらしく、真っ直ぐに生きたのう。猪の最後、儂が看取ってやろう。」
前のめりに倒れる巨体を太い腕が抱き止める。瀕死のブリスボアはさも可笑しそうに笑った。
「……フ…フフッ……お、思い出したぞ……俺は…貴族の庶子だった……らしい……」
致命傷を受けた衝撃か、それとも死にゆく猛者への恩寵なのか、ブリスボアは失った記憶を思い出していた。
貴族の隠し子だったブリスボアは実父である当主が病没し、家督を継いだ異母弟に命を狙われた。亡父に隠し子の世話を任された薬草師と共に森で暮らしていたブリスボアは、弟の差し向けた刺客達によって育ての親を奪われた。彼の強さを支える剣盾術は、亡父に仕える騎士だった老僕に習ったものだったのだ。
そして、自分の命を奪おうとした異母弟とは、かつて縊り殺した腰抜けの上官。記憶を失ったブリスボアも、異母兄を暗殺しようとした弟も、お互いの顔を知らなかったのである。
「少年期の記憶がないとは聞いておったが、貴族の庶子じゃったか。」
「……だが俺は……ブリスボア…コルボーンとして……死ぬ……自分の力で勝ち取った……己の名だ……」
過去の遺産は自分を強く育ててくれた老僕との思い出だけで十分。込み上げる血を吐き捨ててから、ブリスボアは最後の力を振り絞って吠えた。
「ロドニー様万歳!!熱風公に戦神の加護を!!」
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