結束編13話 老剣客と老元帥



※忠冬サイド(前話より2カ月後)


「……むう。そう来おったか。これは思案のしどころじゃのう……」


鍛え上げられた指で置かれた白い碁石は予想外の一手だったらしく、偏屈爺は長考し始めた。程良い陽光が差し込む縁側で、囲碁に興じる二人の老人。兎我忠冬と岩坐一心いわくらいっしんは良い碁敵らしく、盤を囲めば勝負は終盤までもつれ込む。


「カッカッカッ、此度こたびは儂の勝ちじゃな。」


七十半ばの頑固爺は、悪童のような顔で笑った。若い頃は心貫流本部道場でも指折りの名手であり、継承候補にも名を連ねた一心だったが、継承位を争う醜い争いに嫌気が差して片田舎に道場を開き、後進の指導にあたっていた。老剣客は本部道場とは一線を画す独自の技を数多く創始した為、一心の強さを妬む主流派からは"邪流"、剣腕を認める分派からは"岩坐心貫流"と呼ばれている。


「勝ち誇るのはちと早いのう。これならどうじゃ?」


長考の末に置かれた黒い碁石は、世から埋もれた名手の予想になかったらしく、今度は一心が長考する事になった。


「……う~む。元帥もなかなかに底意地の悪い一手を打ちおるのう……」


「クックックッ、一心殿を見習っただけじゃよ。」


同盟軍最高位にまで登り詰めた老人と、知る人ぞ知る名人ではあっても、世間的にはほぼ無名の老人は(嫌味を言い合いはするものの)気が合ったらしく、暇があれば囲碁や将棋に興じている。


縁側の奥には座敷があり、茶箪笥の上に置かれたプリンターから夕刊がプリントアウトされた。デジペーパーが主流となった今でも、老人二人は紙の新聞を読む。碁敵が長考に入ったので、忠冬は夕刊に目を通し始めた。長年身に付いた株価を確認する習慣は、半ば引退しても変わらぬものらしい。


「神楼総督ともあろう者が、叛逆罪で投獄とはの。……元帥の差し金かね?」


一面のニュースに目をやった一心の問いに忠冬は首を振ったが、新聞を開き読みしているのでゼスチャーは伝わらない。達人の域に達した老人なら、見えずとも空気の振動で動作を悟っていたかもしれなかったが……


「絵は描いておらんよ。幇助はしたがの。」


神楼総督を嵌める手立てを考案したのは御堂イスカで、忠冬は振付師の指示に従って動いただけである。この件に関しては共犯、もしくは従犯といったところだろう。


「やれやれ、身分の高い者は業が深いのう。卑賤の身でよかったわい。」


溜息をつく一心。この老人の一生を四文字で現せば"頑固清貧"と言ったところだろうか。


「玅という字は、美しきの意を含むものじゃが、隥伊玅心は名に反したまま生涯を終えるのじゃろうの。儂らのような凡俗は、己が心の赴くまま、剣の道に励んだおヌシのようには生きられぬものじゃ。半歩間違えれば儂も彼奴と同じ末路を遂げておったじゃろうよ。」


「十も年上の元帥から褒められると面映ゆいわい。じゃがのう、元帥。儂は名誉や金より、剣術が好きだったに過ぎぬ。己が趣味に生涯を捧げた只の道楽者じゃよ。」


「結構な事ではないか。派閥抗争に明け暮れた儂より、よほど上等じゃよ。隠棲した今となっては、なぜ派閥の隆盛にあれほど執着しておったのかが、とんとわからぬのじゃがの。」


「それは元帥が"安心を捨て、不安と共に生きる覚悟を決められた"からじゃろう。さて、こんな返しは如何かな?」


一心はようやく次の一手を指したが、忠冬の関心は盤面よりも老境に至って初めて出来た友の言葉に向いたらしい。


「不安と共に生きる覚悟、とな?」


「左様。人間はの、"敵がいる事に安心する生き物"なのじゃよ。敵に勝つ事、蹴落とす事を考えれば迷う事もない。目的はハッキリしておるし、自分に関わる者を敵か味方で明確に色分け出来る。極めて楽な生き方じゃ。」


「………」


「争いは国家や民族、思想や利害の不一致で起こるものと思われておるが、儂の意見は違う。それらは理由付けに過ぎん。儂らのような俗人は"アイツらは俺達とは違う"と、敵味方を区分して安心したいのじゃよ。」


黙って友の哲学を聞いていた忠冬は席を立ち、湯呑みを二つ持って戻ってきた。


「温燗でも飲みながら、ゆるりと話を聞かせてもらおうかの。」


「儂もな、若い時分に継承位争いの当事者になった。恩師の喪も明けておらぬのに、他の候補者よりも儂が強いと自惚れ、門弟の誰が儂の味方につくじゃろうかと算盤を弾いたよ。未だ修行の身でありながら、気は張り詰め、心身共に充実しておったな。ところがある日、敵を得て不安が拭い去られた事に……違和感を覚えたのじゃ。」


「ふむふむ。」


「果たして今の我らが恩師の教え"一心を貫く剣"を体現する者であろうか? 断じて違う。同門の友でありながら継承位を巡って争う姿を草葉の陰から見ておられる師は嘆き悲しまれよう。やっとその事に気付いた儂は候補者全員を集めて、"ここにいる皆で心貫流を盛り立て、継承位に相応しい剣士を育てよう。それまで継承位は空位で良いのではないか?"と提案したのじゃが、受け入れられなかった……」


似たような出来事に覚えがある忠冬は嘆息した。忠冬の場合は名門流派の後継争いどころではなく、世界全土に波及する一大事だったのだが……


「……皆が"敵のいる安心感に酔い、昨日まで同格だった者の下風には立てぬ"と我を張ったのじゃな。」


「然り。一心と名を改めた儂は継承位争いから身を遠ざけ、不安を抱えながら生きてゆく事にした。フフッ、今も筋の悪い弟子達の先行きを心配しながら生きておる。」


「一心殿、その"不安を恐れず生きる心"を曾孫にも教えてやってくだされ。」


「教えるまでもない。引退した儂が雪坊に剣を教える気になったのは筋の良さではなく、小さな身に宿す覚悟を気に入ったからじゃ。兎我家の子とわかってから、雪坊に"祖父や父御ててごの仇を討ちたいかの?"と問うたら、"必ず討ちます!ですがボクの仇は機構軍ではありません!戦乱の世です!"と答えよった。まっこと健気、儂の見る目もなかなかじゃのう。」


一心同様、目から鱗が落ちる思いの忠冬は、目頭を覆った。


「剣狼にあって儂ら三元帥になかったものは、それじゃろうな。」


敵を定め、打ち勝ち滅ぼす事に注力する安心感ではなく、不安を抱えながらも敵と共存する道を模索した。敵ではない筈の自軍内ですら派閥抗争を演じた三元帥と剣狼の違いはそこにある。


"もし、天掛カナタが世界屈指の強兵でなくとも、いずれ彼を中心に歴史は動いていたのじゃろう"と忠冬は得心した。


「田佑からの手紙には"大物なのか小物なのか、よくわからん男"と書いてあったが、興味深い人物なのは間違いなさそうじゃな。」


「その兎場田佑に忠雪の後見人を任せたい。一心殿からも口添えをお願いする。」


「田佑では力不足ではないかの? 師の贔屓目から見ても、剣腕はそこそこ。オマケに小悪党じみたセコさもある男じゃ。もっと腕の立つ弟子もおるから…」


「そのセコさが良いのじゃ。忠雪は田佑に懐いておるし、雪枝さんは自分達に親身になってくれたお節介男を憎からず想うておるフシがある。」


未来の弟子が筋の悪い弟子に懐いている事は一心もよく知っていたが、幼子の母の心証については寝耳に水であった。


「雪枝さんがあの表六玉を? 元帥、冗談も休み休みにする事じゃ。」


「剣一筋の朴念仁には女心がわからんだけじゃ。裏手の神社の神主が教えてくれたのじゃが、雪枝さんは田佑の出征を知ると必ず、生還祈願の絵馬を奉納していたらしい。骸骨戦役の際は儂や孫の無事を願う絵馬も奉納してくれたそうじゃから、単に心優しいだけの可能性もあるが……」


剣一筋の朴念仁と嫌味を言われた老人は、すぐさま切り返した。


「トガ閥の兵士の中では、田佑はそこそこ前線に出ておったからのう。元帥と忠春殿が前線に出なさ過ぎなだけで……」


「耳が痛いわい。のう一心殿、雪枝さんはまだ若い。再婚を考えても良かろうよ。」


「雪枝さんの意思が最優先じゃが、もし元帥の読み通りであれば、田佑を兎我家の養子に迎えたらどうじゃ? 兎場家は出来のいい長男が継いでおって、もう妻子がおる。剣術狂いの次男坊が他家の養子に入ろうが、実家は文句を言うまいよ。」


兎場田佑が忠冬の養子となり、根住雪枝と結婚する。そうすれば曾孫も含めて正式な兎我家の一員である。


「それは好都合じゃな。ここは一つ、爺ィ二人で外堀を埋めてやらぬか?」


老爺二人は悪い顔でほくそ笑んだ。根住忠雪は忠冬にとっては可愛い曾孫、一心にとっては生涯を賭けた剣を継いでくれると期待する大器、幼い身を案ずる気持ちは同じであった。隠居暮らしの退屈凌ぎとしても恰好のネタである。


「乗った。どこから始めるかの?」


「御堂少将と取引した結果、かなりの金融資産が手元に残った。儂は私財を投じて形のある領地、"出島"を作ろうと思うておる。中継港として大陸との貿易を促進し、獲得した利益で戦災孤児を救済する。公益を福祉に役立てるモデル事業じゃな。」


出島が貿易推進の特別区として認可される事は内定している。それは御堂イスカとの取引に含まれており、天掛カナタを通じて帝の裁可も得ているのだ。


「良い事じゃ。なるほど、出島となれば沿岸警備隊が必要。そこに兎場隊をあてるのじゃな?」


「うむ。キャリアを積ませてゆくゆくは区長を任せたい。貿易特区・出島の建設予定地はこの街から近い。兎場隊の面々は親よりも慕う恩師に度々会いに来るじゃろう。当然、田佑ものう。」


悪巧みが得意な忠冬は、お人好しの悪漢を養子に迎えるべく、算段を巡らせる。


「元帥、囲炉裏に火を入れよう。そろそろ世知に長けた知恵者がやって来る時刻じゃ。彼の知恵も借りようぞ。」


「知恵者とは誰じゃね?」


「剣友の時定先生じゃ。先生は来訪の際、儂の好物の鮎を手土産に持って来る。実はの、火隠の里に嫁いだ次元流高弟、漁火アスナ殿から"妹弟子の氷雨から先生の後添えになりたいと相談されました。長い付き合いの一心先生も力をお貸し下さい"と頼まれておってな。」


剣術界に顔が広い壬生時定には多くの剣友がいるが、岩坐一心とは特に親しい。老剣客と面識のあるアスナから"将を射んと欲すればまず馬を射よ"の馬役に選ばれるのは至極当然であった。


「ほほう!あの"達人"時定が再婚するかもしれんのか。フヒヒ、面白くなってきおったのう。」


「まったくじゃ。ヒッヒッヒッ、長生きした甲斐があったわい。」


暇を持て余した隠居は碌な事をしないものである。狒々か猩々の如き下卑た笑みを浮かべる老人の姿は、曾孫や愛弟子には見せられまい。


久方ぶりに剣友を訪ねた壬生時定は、兎我家の婿養子計画を面白がって一枚噛む事にしたのだが、まさかその裏で自分の再婚計画まで練られているとは思いもしなかった。



いかに達人と言えど、森羅万象の全てを見透せる訳ではないのである。

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