愛憎編63話 逃亡者



※モス・サイド


「これが偽造身分証、アタッシュケースには身の回りの品と逃走資金を入れておいたから。」


荒野の隠れ家でクィーンから身分証とアタッシュケースを受け取ったモスは礼を言った。


「悪いな。なにせ、自前の隠れ家も秘密口座も全て使えん。」


モスは各地に点在する隠れ家や口座の全てを上に報告していた訳ではないが、どの隠れ家も口座も、存在を知る部下はいる。準備に関わった部下はもちろん、その地方で任務に就いていたアスラ派の工作員なら利用出来るシステムになっていたからだ。


フレキシブルに運用する代わりに、拠点も口座も長くは使わず、次々と乗り換えさせる。それがアスラ派工作班の機密漏洩対策であった。


「いいのよ。無事にポートタウンに着いたら連絡して。」


この山小屋は、兵団の秘密拠点である。事情を聞いたクィーンに案内され、モスは逃亡の準備が整うまでここに潜伏する事にした。


「ああ。だがポートタウンにも長居は出来ん。あの港町にもアスラ派の手は伸びているからな。」


化外アウトサイドで唯一、外洋船舶を迎え入れる港湾都市は中心領域インナースフィアとの掛け橋になっている。逃亡者となったモスは、ポートタウンを経由して化外の奥地に逃げ延びるつもりであった。


「貴方の強さなら化外の奥地でも生きていけるでしょうけど、絶対に安全とは言えないわ。軍神が裏切り者の捜索を打ち切るとは思えないもの。」


裏切り者、という言葉にモスは過敏に反応した。


「裏切り者はあの女だ!!俺は命令通り、全ての手筈を整えたんだぞ!それを直前になって"……作戦は中止だ。骸骨戦役が終わったら、叔父上と話してみる"などとほざきやがって!東雲刑部は親の仇だろうが!奴が余計な事をしなければ、俺もおまえも日の当たる道を歩けていたんだ!違うか!?」


「ええ、その通りね。アスラ元帥が存命なら私達はこんな風になっていなかったし、裏切ったのは貴方ではなく御堂イスカだわ。」


クイーンはモスの発言をすぐさま肯定した。彼女も同じ考えではあったが、即座に肯定したのはモスに冷静さを取り戻させる為である。


「オズワルト、落ち着いて。今、考えなければならないのは"貴方が生き延びる方法"よ。」


本名で呼ばれたモスは、卓上のブランデーを瓶のまま呷り、アルコールを含んだ深呼吸を繰り返した。


「……ハァハァ……確かにそうだ。化外の奥地まで逃げれば、いくらあの女でもそうそう居場所は掴めない。定住せずに辺境で旅を続けていれば、さらに安全だろう。」


「生き延びる方法はもう一つあるわ。兵団に保護してもらうのよ。」


「……俺が信用しているのはアマンダ・ローレンであって、ハートのクイーンではない。アマンダ個人に俺を助けたい気持ちがあっても、クイーンの上官は違う判断を下すかもしれない。だからおまえは独断で動いているんだろう?」


「確かに、今は独断で動いているわ。でもアルハンブラならきっとわかってくれる。私が説得するから、亡命を考えてみて。」


モスはしばらく考えてから答えた。


「いや、予定通り化外に潜伏する。俺はおまえを信用しているし、おまえのボスの魔術師も信用出来る男なのかもしれん。だが兵団のボス、煉獄は信用ならん。今は強者同士で損耗を避ける為の秘密協定に留まっているが、いずれ本格的に手を組もうとするかもしれん。そうなった場合、御堂イスカは何を要求すると思う?」


「……貴方の身柄の引き渡し。」


「煉獄が拒否すると思うか?」


「……応じるかもしれないわね。だけど自害したように見せかければ…」


モスは木机を拳で叩きながら力説した。


「御堂イスカはそんな子供騙しに引っ掛かるような馬鹿じゃない!第一、煉獄にしてみれば、工作員一人を助ける為にそんな危ない橋を渡る必要がないんだ!俺が煉獄でも、迷わず引き渡すさ。財閥と軍閥を率いる女を懐柔する為なら工作員の一人や二人、安いもんだ。しかもソイツは、兵団に尽くしてきた訳でもないんだぞ。」


「……工作員は使い捨ての駒、ね。わかった。この件に協力するのは私だけにしておくわ。サーカスの仲間やアルハンブラにも報告しないでおく。」


神世紀を統べる総統になる男は、魔術師を重用している。自分達は駒ではなく同志のはずだが、モスと軍神はそうではないのだろう。クィーンは幼馴染みに同情し、自分一人で手を貸す事にした。


「そうしてくれ。"秘密を守る最良の方法は"だ。フン、これはあの女の哲学だがな。」


「それでどうやって海を渡るの? 軍神が把握しているのは隠れ家や口座だけじゃなく、貴方のコネクションもでしょう?」


クイーンは懸念を口にしたが、モスにはプランがあった。


「炯眼ベルゼが中心領域に戻った時、俺は人使いの荒い女から動向調査を命じられたんだ。ベルゼはもう機構領に入っていたからどうしようもなかったが、奴が化外から本土に渡ったルートは突き止めた。相手が相手だけに俺一人で動いていたから、部下も知らない。」


「密輸船ってところかしら。なぜ軍神に報告しなかったの?」


「密輸の品の中に化外産の"変異芥子"があったからだ。ヘロインの倍ほど中毒性の高い、"欲望の悪魔アスモデウス"の原材料だな。」


「知ってるわ。機構領でも新型麻薬の中毒者が増えてる。それだったら、なおさら報告すべきだったんじゃない?」


「あの女は工作員全員に"任務の途中で発見した麻薬ビジネスは根刮ぎ潰せ"と命令を出してる。ケチな売人やジャンキーを情報提供者として利用するぐらいは認めているが、密輸船となればそうはいかん。だから報告すれば、間違いなく密輸に関わった者の始末を命じられる。あの時は、早く東雲の調査に戻りたかったんでな。密輸船の事は伏せておいたんだ。」


金さえ積めば何でも運ぶ密輸船。モスが化外への逃亡を考えたのは、自分しか知らないルートがあったからである。


「その船にコンタクトは取れるのね?」


「もちろんだ。あの女も、大っぴらには捜索網を敷けない。事が事だけに他派閥の協力も仰げないから、陸路には必ず穴があるはずだ。海に出てしまえば、こっちのものさ。」


「密輸船の停泊する街までの足は、私が用意するわ。兵団の息がかかったキャラバンがあるの。かなり窮屈な思いはするでしょうけど、安全よ。」


兵団は休暇中の剣狼を襲撃する為に、ゾンビソルジャー部隊を龍球に送り込んだ実績がある。あれは南の島を勢力圏とする俺達も察知出来なかった。ならば任せていいだろう、とモスは考えた。


「頼む。船旅の間に、俺が今まで関わった工作や、知っている諜報部員のデータをタブレットに記録しておこう。ポートタウンに着いたら、隠し場所を教える。」


「こんな時でもギブ&テイク? 私は見返りを期待して貴方を助けようとしてる訳じゃないわ。」


「わかっている。だが工作員の端くれとして、見返りぐらいは用意せんとな。」


「はいはい、貴方を無事に化外へ逃がす理由が出来たわ。これでいいんでしょ?」


脱出プランがまとまった現役の工作員と元工作員は、幼き日のように笑った。


─────────────────


洋上の人となったモスは、狭い船室でクィーンに渡す機密情報をまとめていた。彼が中心領域に戻る為には、アスラ派が壊滅し、御堂イスカが失脚、もしくは死亡している必要があった。情報の提供は逃亡を幇助してくれたクィーンへの見返りであり、モスが本土に帰る為の発火材でもあるのだ。


アスラ派の為に汚れ仕事をこなしてきたモスだったが、今はアスラ派を潰す算段をつけねばならない。なんとも皮肉な状況であった。


「クソが!こうなるとわかっていれば、泥を被る必要はなかったんだ。俺とした事が、余計な真似をしたもんだぜ。」


御堂イスカは東雲刑部を亡き者とするべく、機構軍に位置情報をリークし、最新鋭の通信妨害装置も提供した。これを立証出来れば一番良いのだが、それは不可能だった。口頭で極秘命令を受けた時は顔には出さずに歓喜し、これからも忠実な工作員として仕えようと誓いを新たにしたモスは、機構軍や兵団に借りを作るのは危険だと考え、自分が泥を被ると提案したのだ。


イスカの立てた計画に沿って、兵団を通じてナバスクエスに情報をリークし、瑞雲と護衛艦の通信を妨害出来る機材も提供したが、全て自分の独断というカタチにした。こうしておけば万が一、事が露見しても御堂イスカは管理責任を問われるに留まる。部下の暴走で自派閥の将官が戦死したとなれば手痛いダメージではあるが、致命傷にはならないだろう。


もちろん、そうなった場合は、"私怨を晴らす為に独断で東雲中将を機構軍に売った"という遺書を残してモスは自殺する事になる。しかしモスは、泥を被って死ぬのも任務だと覚悟していたのだ。


「……俺はいざとなれば死ぬつもりで任務に臨んだのに、土壇場で裏切りやがって!」


悪態をついたモスは、爆弾はもう一つある事に気付いた。アスラ元帥を暗殺したのは東雲刑部との確証を得たあの録音記録があれば、疑いをイスカに向ける事が出来る。


「……これもダメか。マリーは録音記録をあの女に渡したはずだ。東雲が死んだ以上、既に処分しているだろう。アマンダには謀殺に至った流れは教えておいたが、物証ゼロでは何も出来まい。」


そもそも、東雲刑部がなぜアスラ元帥を暗殺したかをモスは知らない。事の発端は謎のままなのである。


「……待てよ? 鹵獲品だと偽って兵団から提供させた電波妨害装置は御堂エレクトロニクスの製品だ。あの女なら、自分だけは通信出来るように仕掛けを施しておいたかもしれない!だったら手遅れなのはわかっていても、東雲に逃げろと伝えた可能性はある!」


思いつきに興奮したモスは、椅子から立ち上がって拳を握り締めた。


「これだ!瑞雲のブラックボックスにあの女と東雲の会話が残っていれば、御堂イスカが機構軍の奇襲をあり得ないほど早いタイミングで知っていた証拠になる!決定的とまでは言えんかもしれんが、有力な物証に……ダメだ。そんなヘマをする女じゃない。瑞雲の通信装置も御堂エレクトロニクス製だ。ブラックボックスが無事だったとしても、秘匿回線を使った通話は記録されない仕組みになっているだろう……」


逆襲の糸口を見つけたつもりでいたモスは、滑稽なほど気落ちした。長い間、派閥の黒子として働いてきたモスはある意味、御堂イスカの優秀さを最も知っている男でもあったのだ。



しかし、シェーファー・モスは"御堂イスカに追われる"という事の恐ろしさをまだ知らないでいた。人を破滅に陥れる暗くて深い落とし穴は、誰にも等しく訪れるのだ。

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