慟哭編20話 世紀を隔てた朋友
予選が終わってから2週間、ジェダ・クリシュナーダはロックタウンに逗留した。本戦は2カ月後で、実は予備役であるジェダに通常の軍務はない。必要だと思った戦地に赴いて戦い、戦いが終われば何処ともなく去ってゆく。軍史編纂部の記録上では"無役の予備役大尉が召集されて任務を遂行し、また予備役に戻る"が繰り返されているのである。
限りなく自由人に近い老人が街に長居したのは女武芸者、壬生シグレに興味を持ったからである。今まで教えを授けた百を超える直弟子よりも、雷霆シグレは高い階位に到達していた。一流の武芸者にはそういう者もいる。滝行のように双方に共通した修行もあるからだ。だが、それにしても彼女はズバ抜けていた。
終日、座禅を組んでただ向かい合う事もあれば、禅問答のような会話を続ける日もある。もちろん、気力と集中が高まった日には、徒手での組み手を繰り返し、プラーナの微動を感知する術を授けた。もう一つの奥義は"彼女に禁を解かせる"だけで良かったので、教える事などなかったのだ。
「雷霆殿なら三年で会得出来ると言うたが、見込み違いじゃったの。」
組み手を終えた老人が呟くと女剣客は深々と頭を下げた。
「ジェダ師が三十年かかった技を、私如きが三年で会得出来るとは思っていませんでした。ですが、期待に添えなかった事が無念です。」
「これこれ、勘違いなさるな。見込み違いは儂の目の方。三年もかかるまい、という話じゃよ。雷霆殿にはもうプラーナの微動が、おぼろげながらも見えはじめておる。」
この武芸者、いや、求道者は天才でも怪物でもない。何も持たなかったからこそ、心が鍛え上げられ、澄み切っているのだ。ジェダは壬生シグレの階位の高さに得心していた。
「捉えられるのですが、輪郭がハッキリしません。会得にはまだまだ時間が…」
「かからぬよ。
上流の岩石は水の流れに導かれて、角を落としながら中流の円石となる。中流の円石がさらに流れに身を委ねれば、下流の丸石となる。
"高みに棲まう世捨て人ではなく、市井に生きる達人たれ"と教えた円流の創始者・
「はい。私は下流、すなわち市井に生きる道を追い求めます。仙人にはなれそうもないですから。」
「それがよい。じゃがの、市井に生けども"自然との調和"を忘れなさるな。叡智に驕り、自然をないがしろにした結果が……この有り様じゃよ。」
高台の上から赤茶けた大地と、砂埃にまみれた街の外郭を見下ろすジェダは嘆いた。
「この星に緑を取り戻せそうな男がいます。私は彼の力になるつもりです。」
「それは剣狼かね?」
老人の問いに若き剣客はキッパリと答えた。
「はい。カナタは"世界に変革をもたらす者"、私はそう信じています。」
「儂は其方を"世界に調和をもたらす者"だと思うた。期待に応えてくだされよ?」
「私はそんな大層な人間ではありません。」
「そんな事はわかるまい。これからの其方に懸かっておる事じゃよ。誰ぞが暴を制さねば、和が訪れぬ。壬生時雨ならば"護身の剣"を"護民の剣"に昇華出来ると信じておる。」
ジェダ・クリシュナーダの使う拳法は遥か昔、暴君に武器を取り上げられた農民が護身の為に編み出した技だった。成就者は武を否定しない。身には付けても使わぬに越した事はなく、抑制の先に調和がある。"調和に満ちた世界が創生された時に、ようやく武は無用となる"という思想である。
「……護民の剣、ですか……」
「左様。調和の心を万民が持てば、武など必要ない。儂の目指す道はそれ。暴を制する武を持つ者が、和を守る。それが其方の目指す道。手法は違えど、和を目指しておるのじゃよ。儂の考えがいささか理想に偏っておるのは自覚しておる。アスラ殿が生きておれば、それも叶うたかもしれぬがな。」
「英雄死すとも人の営みは続きます。この星に生を受けた者は、己の最善を尽くすのみでしょう。」
「それがなかなか出来ぬのじゃよ。皆が最善とは言わずとも、微善を保てばこうはならぬわ。どいつもこいつも、業が深い。カーカッカッ!」
ジェダは心底愉快そうに笑った。雷霆と語り合った老人は、人の弱さも愚かしさをも愛すべきなのかもしれぬ、と思い始めていた。"業を捨てるのではなく、業を愛するからこそ克せるのだ"という雷霆の意見に一理あると認めたのだ。壬生シグレが持論を我が身で体現していなければ、成就者の心には響かなかっただろう。
「フフフッ、そうですね。」
「さて、儂らは十分語り合うた。また山奥に引き籠もろうかの。」
「まだ二週間しか教えを授かっていません。まだまだ学びたい事があります。」
「儂と其方は師弟にあらず、調和について教え合っただけじゃ。成就者と継承者は他門の朋友、と言ったところかの。そして二十年にも勝る二週間じゃった。儂はそう思うておるのじゃが、違うかね?」
一世紀も歳が違いそうな若人を、老人は朋友と呼んだ。
「その通りです。朋友殿、我らは違う道から和を目指しましょう。」
「うむ。実に楽しい一時じゃったぞ。」
トーガを翻しながら背を向けた成就者に、シグレは深々と頭を下げた。
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霊峰の頂上近くにある粗末な庵に帰って来たジェダは、いつものように付近の巨岩の上で座禅を組んだ。環境汚染の影響が少ない高地を老人は好む。霊峰の
「……そんなに殺意を撒き散らしておっては、身を隠しても無駄じゃ。」
「隠れていた訳ではない。夜露を凌げる岩の隙間で休んでいただけだ。今日も待ち惚けかと思っていたぞ。」
岩場から姿を現した男は、雷霆とは対極の精神世界に生きる者だった。
「おヌシはロドニー・ロードリックとかいうたかの。儂に何用かね?」
「訊かずともわかるはずだ。」
見下ろされるのが嫌いなロドニーだったが、あえて巨岩の上に座ったままのジェダを見上げる。この男なりの"挑戦者としての礼儀"なのかもしれない。
「カッカッカッ、
「ロンダルだろうがガルムだろうが、負けた奴が悪い。俺がおまえに挑むのは、報復でも誰かに頼まれたからでもない。この俺の為、だ。」
「噂通りの自己中心主義者じゃな。おヌシのような輩が絶えぬから、世界の調和が乱れる。」
「波風の立たん世界など退屈だろう。人間は、武器を手にした時から戦い続けてきた。生態系の頂点に立った後は、人間同士でな。調和だの融和だの、そんなおためごかしこそ不自然。争い、戦い、喰らい合う!闘争こそが
「……来訪を嬉しく思う。おヌシは
立ち上がったジェダから放たれる黒みがかった橙色の
雷霆との邂逅は幸運と言えた。殺意を剥き出しにする兵ならいくらでもいるが、殺意を抑える兵など壬生シグレ唯一人だったからだ。
「フフッ、これは殺されるかもしれんなぁ。とはいえ、人里離れた庵で暮らす完全適合者などおまえだけだ。俺が完全適合者になる為に、死んでもらおう!」
氷狼アギトが熱風公ロドニーに教えた"完全適合者になる方法"とは、"完全適合者と戦って斃す事"であった。アギト自身もそうして完全適合者になったと語り、似た事例は剣狼でも確認されている。ロドニーはアギトの言葉を信じた。いや、信じるしかなかったのだ。
随分前からロドニーの適合率は99%で頭打ちになっている。足らずを埋めるには劇薬が必要だとロドニー自身も考えており、服毒死を恐れる男でもない。
勝敗はどうあれ、ロドニー・ロードリックはここで死ぬ。今までの自分と決別し、完全適合者として新生するのか、本当に死して屍となるかは……まだわからない。
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